Yアパート2 一九七〇年代

「お化けは出てこないけど、変な話ならあるわよ」

 取材当時五十歳だった松原さんはこんな話を聞かせてくれた。

「若い頃は看護婦として働いていたの」

 一九七〇年代後半。松原さんが勤めていたのは自宅の近くにある病院だった。そのあたりの地域では唯一の大きな病院だったため、緊急性の高い患者や、小さな診療所では対応できない患者が運び込まれてくることがよくあった。

「その日、運ばれてきたのはお婆さんだった」

 担架に乗せられたその老婆は、数メートル先からでもわかるほどの悪臭を放っていた。糞尿と垢が混じった強烈な臭い。ベテランの先輩看護婦ですら青ざめてしまうほどだった。

「あとで聞いた話によると、そのお婆さんは過去に患った病気のせいで寝たきりだったそうなの」

 老婆を介護していたのは同居していた娘だった。しかし娘はある日、蒸発してしまう。一人残された老婆は約一か月もの間、部屋に放置されていた。

 部屋の中にはゴミがあふれ返り、夥しい数の虫が湧いていたそうだ。

 その後、異臭に気づいた近隣住民によって老婆は部屋から助け出され、松原さんの勤める病院に運び込まれたという次第だ。

「当然、おむつを替える人も寝返りを打たせてくれる人もいなかったから、ひどい状態だった」

 老婆の服は元の色がわからなくなるほど茶色く変色し、乾いた髪はちぢれて毛玉のようになっていた。おむつの中からぼろぼろと蛆がこぼれ出てきたことから、老婆がどれだけひどい環境に放置されていたかがうかがえる。

「いちばん深刻だったのは褥瘡ね」

 褥瘡は“床ずれ”ともいい、長時間同じ姿勢でいることによって圧迫された場所の血流が悪くなり、皮膚が赤くなったり、ただれたりしてしまうことだ。褥瘡を防ぐには、介護者が一定時間ごとに体位変換、つまり寝返りをさせることが重要である。

 しかし老婆には体位変換をしてくれる介護者がいなかった。そのため褥瘡は深刻な段階まで進んでいた。

 膿んでただれた皮膚が黒く変色して、骨が見えていた。傷口には蛆が蠢いている。

「死んでいてもおかしくない状態だった」

 けれど老婆の意識ははっきりしていた。医師の問いかけに対して明瞭に受け答えする。

 最も奇妙だったのは栄養状態がそこまで悪くなかったことだ。

 いくら寝たきりで余計なエネルギーを消費しないと言っても、一か月近く飲まず食わずの状況にあったなら、ふつうは衰弱するものだ。それなのに老婆にはその兆候が見られなかった。

「むしろ元気すぎるくらい。病院に着いたときから、家に帰してくれって騒いでたもの」

 もちろんそんな願いが聞き届けられるはずもない。老婆は治療を受け、しばらく入院することになった。しかし一刻も早く家に帰りたいらしく、看護婦が見回りに来るたびに「いつ退院できるんだ」と詰め寄ったそうだ。

 あれほどひどい環境に放置されていたのに、どうして自宅に執着するのだろう、と看護婦たちは首を傾げた。

 そんな矢先。老婆が病院の庭で亡くなっているのが発見された。

 転落死だった。三階にある自分の病室の窓から落ちたらしい。

 老婆の胸腔内には血が大量に溜まっていた。足から着地した拍子に折れた大腿骨が、太ももを突き破り、肺を刺した。それによって血胸を起こしたのだ。

 警察の捜査も入ったが不慮の事故として処理された。

「寝たきりの患者が窓から、しかも足から落ちるなんて有り得ない。きっと誰かがやったに決まってるわ」


 老婆が住んでいたYアパートは松原さんの通勤ルート上にあった。彼女はそのアパートを見るたびに、やるせない気持ちになった。

 だから事件から数年が経って、そのアパートが取り壊されたとき、松原さんは心底ほっとしたそうだ。


 Yアパートのあった場所には現在、大きな施設が立っている。

 その施設を運営しているのはSという名の宗教団体。一九四〇年代頃に成立し、現在も関西地方を中心に活動している仏教系の新興宗教である。


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