隼人
ちびゴリ
第1話
玄関の引き戸に手を掛けたのはほぼ定刻だった。妻の
「おかえりなさい」
いつもの台詞と何ら変わりはないが、結婚して二十年から経過すれば多少の違いは表情から嗅ぎ取れるものだ。
「ただいま」と返してからのそれとない視線に雅美も察したらしい。それでも何を言うわけでもなく微苦笑を浮かべているだけ。
「どうした?何かあったか?」
逡巡する背中でも押すよう問い掛けると、「ちょっとね」雅美はそう一言漏らしてから、「後で……」と足早に踵を返した。瞳から察するにどうやら深刻な話でもなさそうだ。だからあえて促すこともせずに口から定番の言葉を漏らした。
「
「残業するってスマホに」
キッチンから雅美の声が届く。そこまで届くか届かないかの声で応えてから俺は和室に入り作業着を脱いだ。
一人娘である幸枝は短大卒業後、市内にある医療機器メーカーに勤めている。今年で二十三歳。ようやく三年というところか。このところ忙しいらしく定時で帰って来ることは稀だ。つまりは後でという話は夕食どきなのだろう。
風呂の中でそんなことをぼんやり考え、湿り気の残った髪に手櫛を数回入れダイニングへ向かう。テーブルの上には既に夕食が整えられている。これは雅美がパートに出ていた三年前と同様。違いがあるならそこに娘の幸枝がいるかいないかだ。
「飲む前がいいか?それとも―――」
目の前に置かれた発泡酒に俺はチラと視線を送った。一度小首を傾げてから雅美も缶に目を向ける。
「飲みながらでも別に―――」
どちらともとれる雅美の声に身構えていては話し辛いだろうと俺は缶に手を伸ばした。グラスに注いだ発泡酒を二度ほど口に運んだ時、モジモジしながら雅美は口を開いた。
「このところちょっとアレが遅れてたのね……。でもこの年齢だと不規則になったりすることもあるからきっと歳のせいだと思ってたんだけど……なんとなく感じたというか……」
そこまで聞いてグラスを持つ手がピタリと止まる。
「思い過ごしだって何度も思ったんだけど、ずっと心配していてもなんだからって検査薬を買って来たのよ。そうしたら―――」
長年連れ添うと言葉の語尾までが見えるようになるのだろうか。俺はやや目を見開いて雅美の口元を見つめた。
「……陽性だったの」
さすがに勘違いだったなどという文字は頭に浮かばなかった。陽性。つまりは妊娠したということか。そこで二年もことに及んでいなければ違った考えも過ったのだろうが、とにかく生真面目な女であることは俺が一番知っているし、何より俺にはその覚えがある。
「幸枝には話したのか?」
「ううん……まだよ」
姉妹喧嘩も出来ないと寂しいだろうと励んだ時期もあった。ただ、一向にコウノトリの飛来はなく、次第にあまり歳が離れすぎてもという考えから二人目は諦めることにした。
とは言え夫婦としての営みが途絶えたわけではない。避妊具の使用が減ったことが一番の理由だとしても娘の幸枝は二十三歳だ。言い辛そうにしていた雅美の心境が大いに理解出来た。
「医者には?」
否定されることが分かり切っていながらもこんな言葉しか出なかった。
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