第30話:猫のいる記念日
朝、カレンダーを見てふと気づいた。
ちょうど今日で、この店を開けてから一ヶ月になる。
“仮”のつもりで始めた毎日は、いつの間にか日常になっていた。
帳簿の記録も三冊目に入り、焙煎ノートには豆の変化だけでなく、客の好みや気分まで書き込むようになっていた。
風の音、湯の温度、猫の寝息。そういうものすべてが、店のリズムの一部になっていた。
特別な予定があるわけじゃない。
だけど今日は、何かをほんの少しだけ“祝いたい”気持ちがあった。
午前中、いつもより少しだけ丁寧に掃除をして、豆を焙煎する。
いつもよりゆっくり火を入れて、軽やかに香るよう仕上げた。エチオピアを中心に、ほんのり柑橘の酸味があるブレンド。
窓際に花を一輪、グラスに挿した。さゆりが道端で摘んできてくれた、名も知らぬ小さな花。
店を開けると、最初に入ってきたのは画家だった。
彼は何も言わずに席に着き、周囲を一周見渡して、にやりと笑った。
「……今日は何か、いいことでも?」
「特別ってほどじゃないんですが、店を開けて一ヶ月なんです」
「それは、十分“いいこと”だ。ひとつの月が続いたというのは、それだけで祝福に値しますよ」
僕は静かに頷き、今日のブレンドを淹れた。
香りが立ち上がり、風と一緒に店の中を満たしていく。
「……いい香りですね。少し明るい」
「今日の気分に合わせました」
彼は目を閉じ、カップに唇を寄せたあと、声を出さずに笑った。
「この店の珈琲になりましたね」
そのひと言が、なんとも嬉しかった。
昼頃、さゆりがランドセルを背負ってやってきた。
手には小さな折り紙の箱。中には、カラフルな星型の紙がいくつも詰められていた。
「“おいしい日”って名前をつけたよ。食べられないけど、なんかキラキラするから」
「ありがとう。大事に飾っておくよ」
星たちは棚のすみにそっと置いた。色とりどりの紙片が、午後の光に照らされてきらめいている。
夕方、美咲がふらりと立ち寄った。
店内の空気に気づいたのか、「何かあった?」と訊ねてくる。
「店を開けて、一ヶ月です」
「……それは、ちょっとだけ祝ってもいい日ですね」
カウンターに座り、いつものようにアイス珈琲を頼んだあと、彼女はふと口にした。
「実は、葉子さんがこの店を始めた日も、六月だったんですよ」
「本当ですか?」
「何日かまでは覚えてないけど、確か六月の初めだった。……だから、なんとなくこの時期って、空気に“始まりの記憶”が残ってる気がするんです」
そう言って、グラスの水滴を指先でなぞる。
「この店がまた動き出したのも、きっと偶然じゃないのかもしれない」
誰のためでもない、けれど誰かの記憶に触れる日。
カウンターの上で、なぎがちょうど欠伸をした。
そのタイミングが妙にぴったりで、みんなで少しだけ笑った。
夜。店を閉めて、帳簿をめくる。
今日は、記録の代わりに短くこう書いた。
《この店は、猫と珈琲と風とともに、今日で一ヶ月を迎えました》
《まだ“仮”だけど、少しだけ、居場所になりつつあります》
書き終えると、なぎが膝に飛び乗ってきた。
重くもなく、軽くもない。今ちょうどいい重さ。
「なぎ、お前にとっては何度目の“一ヶ月”なんだろうな」
返事はない。でも、そんなことはどうでもよかった。
記念日というには小さすぎて、誰にも祝われない一日。
でも僕には、ちゃんと意味のある時間だった。
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