またね、大好き。何度でも。

ペーンネームはまだ無い

第01話:またね、大好き。何度でも。

 何か大切なことを忘れてしまった気がする。

 そんなことを思いながら目を覚ました。

 何を忘れてしまったんだろう?

 考えながらベットの上でゴロゴロしていると、ふとカレンダーが目に入った。

 そうだ。昨日は私の35歳の誕生日だった。

 なのに昨日の記憶がない。


「恵美、おはよう。朝ごはんが出来たよ」


 夫の誠司がエプロン姿で私を起こしに来る。

 寝ぼけた声で「ん」と返すと「二度寝しないようにね」と優しく笑い寝室を出て行った。


 私がリビングへ行くと、コーヒーの香りが漂っていた。

 誠司の淹れるコーヒーは、いつも豆が挽きたてで香りが豊かだ。

「美味しそうな香り」つい声が出た。

「恵美も飲む?」

「もちろん」

「よかった。食欲ありそうだね」

「うん。でも、どうして?」

「昨日はワインのボトルを空けてたから。二日酔いが心配だったんだ」


 そんなに飲んでたのか。どうりで記憶が無いはずだ。


「ご心配おかけしました。でも大丈夫。二日酔いは無し。むしろ目覚めスッキリ。まるで若返ったみたい」

「なら良いけど。お酒は程々にね」

「はーい」


 来年の誕生日は飲みすぎないように気を付けよう。

 ……あれ、デジャヴ? 去年も一昨年も同じことを心に誓った気がする。

 それでも毎年やらかしているなんて、成長してないな、私。


 誠司が手渡してくれたコーヒーカップに口をつける。

 うん、美味しい。少し甘くて私好み。

 きっと今朝の朝食も私の好みに合わせた味付けだろう。


 ***


 その日の午後、友人2人とカフェでアフタヌーンティーを楽しんでいた時のこと。

 誠司の話題になった。


「恵美の旦那さん、素敵よね」

「ホントそれ。見た目も性格もイケメンだし超エリートだし。どっかの研究所の所長なんでしょ?」

「うん、そう。たしか生物分子科学の研究してるって」

「めっちゃ頭良さそうじゃん」

「うん、めっちゃ頭いいよ」


 私は愛想笑いしながら話題を変えようとするけれど、話は止まらない。


「炊事も洗濯も何でもこなすんでしょ? うちのバカにも見習ってほしいっての」

「この間ご馳走になった誠司さんのお料理、美味しかったな。毎日あんな料理を食べられる恵美が羨ましいよ」


 夫を褒められて嬉しいはずなのに、私の気持ちは落ち込んでいく。

 だって、誠司が完璧であるほど、私なんかじゃ釣り合わないと感じるから。

 私だって誠司に見合うように頑張った。

 でも、何もかも私は誠司の足元にも及ばない。


 落ち込む私をよそに、その後もずっと誠司の話題は続いた。


 ***


「お帰り。早かったね」


 帰宅すると誠司がエプロン姿で出迎えてくれた。

 私が遊んでいる間にも、彼は家事をこなしていたのだろう。

 それで私の中の何かが限界を迎えた。


「ごめん、私、誠司と釣り合ってないよね」

「え?」

「だって、誠司は何でもできるし、優しいし、カッコいいし」


 気づけば涙がこぼれていた。


「きっと他の女の人だって誠司のことを好きになっちゃうよ。その中には、私なんかよりももっと誠司に相応しい人がいると思う」


 自分が惨めで居たたまれない。もう逃げ出したい。


「だから――」


 さようなら。そう別れを告げるのが怖くて、代わりに「またね、大好き」と告げて、玄関のドアノブに手をかけた。

 次の瞬間、後ろから抱きしめられた。

 大きい腕が私をぎゅっと包み込んで、誠司の体温がじんわりと伝わる。


「俺が好きなのは恵美だけだよ。他の女性は目にも入らない」

「……本当?」

「本当だよ。こんなことで嘘はつかない」


 優しい声が胸にしみる。

 誠司に身をゆだねると、彼は安心したように呟く。


「恵美がいなくなったら、俺は生きていけないよ」


 その言葉に胸がキュッと締めつけられた。


 ***


 あれから1年。私の36歳の誕生日がやってきた。


「今年はお酒を飲まない!」と宣言したものの、誠司の「乾杯の1杯くらいは良いんじゃない?」という甘言に惑わされ、私はワインに口を付けた。

 その途端、体から力が抜けた。

 床に倒れこむ私を見下ろしながら、誠司は穏やかに微笑んだ。


「恵美。俺はね、本当に恵美が好きなんだ。だから、恵美が老いていくのは見ていられない。だからね、恵美には新しい体を用意したんだ」


 ……何を言っているの?


「俺の研究分野を知っているだろう? 生物分子科学――クローン技術で1年前の恵美の体を作ったんだ。その体に昨日までの記憶を移植すれば、この1年間の老化をリセットできるんだ」


 その声も、頬を撫でる指も、ひどく優しい。


「安心して。失敗なんてしない。この10年間、恵美に傷や皺ひとつ増えていないことが何よりの証拠だろう?」


 誠司の指が私の首を絞める。


「ごめんね。苦しいよね。でも、不要になったその体から記憶を取り出すには必要な処置なんだ」


 息ができない。


「大丈夫だよ。恵美が新しい体になったら、また会えるよ」


 新しい体? 本当にそれは今の私なの?


「またね。大好きだよ」


 その『またね』は誰に向けられた言葉? 今の私? それとも、次の私?

 そう問うこともできないまま、私の意識は深く沈んでいった。

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