魔法使いの弟子(仮)


 ノアの姿を見るなりレイムは、ゆっくりとそう言った。怒られなかったので、ノアはそのまま部屋の中を進む。ベッドの足元にあった木箱の上にひょいと飛び乗ってから、レイムのいるベッドの上に降り立った。レイムは片手で本を読んでいた。布団の上にある右手にノアは前足を乗せた。ノアの肉球を通して熱が伝わってくる。想像した通り、レイムの熱は高いままだった。

 もしかしたら高熱で体が痛くて眠れないのかもしれない。


「おいどうした。喋れないのか」


 ノアはレイムの灰色の寝間着の袖を口に咥えて引っ張った。するとノアの頭の上に大きな手が覆いかぶさる。


「具合でも悪いのか、お前もあの薬に触れたのだろう。体が冷えたのか?」


 気遣うようなレイムの声が優しくて胸が苦しくなった。

 ノアはレイムの持っている本を両手で掴んでベッド脇に置いた。そして、足元の近くにあった毛布を口に咥えてレイムの膝下まで持ってきて綺麗に広げた。レイムのベッドの上でノアはぴょこぴょこと動き回る。レイムが快適に暖かく眠れるようにしたかった。

 準備が終わるとノアはレイムの正面に座り顔を上げた。レイムはノアの心配そうなオレンジ色の瞳を不思議そうに見下ろしている。


「大丈夫か? 今は魔法が使えないんだ。お前を人間に戻してやれない」


 レイムはノアの頭を撫でながらそう言った。レイムはノアが体調が悪くなって猫の姿に変身してしまったと思っているらしい。ノアは首を横に振った。


「いい。自分で猫になったんだ。レイムさん、今日、俺一緒に寝るね」


 か細い声で鳴いただけ。

 体調不良で魔法が使えないレイムに、ノアの猫の言葉は通じないかもしれない。そうノアが思った瞬間レイムは目を見張った。


「自分で? なぜ」


 どうやらノアの言葉は伝わっているらしい。意思疎通が出来てほっとした。

 レイムの表情はノアが初めて見るものだった。呆れているのとも違う。心底困っているような顔。その表情のままレイムは固まっている。

 ベッドの上、レイムの膝の近くにある左手をノアはちょんちょんと前足でつついた。


「えっと、俺、猫だし、お腹の毛はふわふわで、あったかいから。猫になるしか、できることないって、もう分かった。うん、最初からこうしてれば良かったね。レイムさん猫好きみたいだし」


 ノアは無力な自分を自覚したとき獣の姿に変わっていた。

 悲しくて、胸がズキズキしてつらかった。でも悲しいけど、幸せだと感じていた。誰かのために自ら猫になるなんて初めての経験だった。


「貴様は、本当に大バカなんだな」


 重い重い声だった。ノアの頭の上に乗せられたレイムの右手に力が入り、ノアの体が布団の上に沈む。上半身を伏せた状態で顔をレイムに向けた。


「そりゃあ、天才魔法使い様のレイムさんと比べたらバカかもしれないけど、でもさ」

 大きなため息のあと、両手でレイムに猫の体を持ち上げられた。

「え、あ、どうしたの、レイムさん」

「寒い」

「え……うん。だから、一緒に寝るよ。猫の体あったかいよ」


 至近距離で顔を合わせた。目を細めてまじまじと観察される。


「――どう言えば、お前に伝わるのだろうな」

「え、何が?」

「もういい。寝る」


 ノアの気持ちが伝わったのかレイムはノアを布団の中に入れた。そのままノアを毛布がわりに抱いて寝るのかと思ったら、レイムは布団の中に入りノアに背を向けてしまう。

 一緒の布団に入っているのに、離れていたらあんまり暖かくない。ノアは、布団の中でごそごそと動き回る。

 ベッドのどこにいれば、レイムが一番あったかいのだろうか。動きながら考えていたら、突然首根っこを掴まれた。


「貴様は、寝るときに、じっとしてられないのか」

「え、どこにいたらレイムさん一番あったかいかなって」

「別に、好きなところでいればいい」


 布団から追い出されるかと思ったら、一緒に寝る許しはもらえた。


「じゃあ、ここ?」


 ノアはレイムの胸元でころんと横になった。

 横を向いて寝ているレイムの胸元で落ち着いていると、もう一度小さなため息が頭の上から降って来た。


「ねぇ大丈夫? レイムさん。苦しいところない?」

「私の看病をしたいなら、他にすることがあるだろう」

「だって、俺さ。考えてみたら誰かに看病してもらったことなくて」


 レイムはノアの耳を撫でる。


「それで、俺、風邪ひいたとき、誰かに一緒にいて欲しかったなとか、すごく寒くて、誰かに暖めて欲しかったなって、だから」

「そう」

「あと薬は探したけど、俺分からなくて」

「危ないと言っただろう。勝手にカウンターで薬を触るな。まだ反省していないのか」


 レイムに猫のほっぺたを優しくつねられた。そもそも事の発端は、ノアがカウンターの中で迂闊に動き回ったことだ。その結果、いまレイムは寝込んでいる。怒られるのは当然だった。


「ご、ごめんなさい。こ、今度からレイムさんに訊く、勝手に触らない」

「分かればいい」

「でもさ」

「なんだ」


 レイムはノアと視線を合わせてくれる。


「俺が今日、魔法使いだったら、レイムさんに色々出来たよね。こうやって猫になるんじゃなくて、もっと……何か」


 それが悔しくてたまらなかった。


「まだ、諦めてないのか」

「うん。俺、怖かったんだ。何も出来ないことが」


 誰かのために何かをしたいと思ったのは初めてだった。


「今までは獣人だから仕方ないって、全部諦めてた。でも、今日は、どうしても諦めたくなかった」

「――出会ったばかりの他人だろう」


 ノアを見下ろすレイムの声は静かだ。高熱のせいか目元は少し赤らんでいる。どう言えば、伝わるのだろう。さっきレイムが言っていた言葉と同じ言葉がノアの頭に浮かんだ。

 今の嘘偽りない気持ちをレイムに伝えたい。嬉しかったこと些細な幸せでも、大切にしている出来事。


「レイムさん、俺の作ったスープ飲んでくれた。嬉しかったよ」

「そんなこと。別に、お前も私の食事を食べるだろう。毒が入ってるかもしれないのに」

 魔法使いだしレイムは薬の知識に長けている。最初からノアの頭には危害を加えられる可能性なんてなかった。

 当たり前のように一緒に食事をしてくれたのが嬉しかった。それだけだった。


「レイムさんが俺を殺したいなら、森に置いてきたら良かったんでしょう?」

「まぁ、そうだな」

「今日の俺のスープ、美味しくなかったでしょう?」

「さぁ、味は分からなかったな」


 飾らないレイムの言葉が嬉しかった。ノアはレイムの胸に擦り寄った。人間の姿だったらこんなことは出来ないけど猫なら出来た。何のメリットもない獣の姿。そう思っていたけど、今日だけは、そう悪くないと思えた。


「レイムさん俺のことは嫌いみたいだけど、猫は好きだよね」

「誰もそんなことは言ってないだろう」

「猫になるの嫌だったけど、レイムさんの役に立つなら、いいや。やっと俺にも出来ることが見つかったなって」

「ノア。二度とこんなことはするな」

「え」


 初めてレイムに名前を呼ばれた。ノアは驚いて目を瞬かせる。


「自分が嫌だと思っていることを誰かのためにするんじゃない」

 レイムはノアの顔を手で包むように触れてくる。小さな子供に言い聞かせるみたいだった。

「でも、レイムさんが喜んでくれたら、俺も嬉しいよ」

「それでも、ダメだ」


 レイムに布団の中に押し込まれた。

 今日はレイムの困った顔ばかり見ている。もっと笑って欲しい。胸がくすぐったくなるような優しい笑顔が見たい。ノアは布団から顔だけを出して、レイムの頬に触れる。


「なんだ?」

「でも、いつか今日と同じことがあったとしても、俺、猫になる気がする」


 猫の肉球の温度は人間より高い。けれど今はレイムのほっぺたと同じくらいの温度だった。


(早く元気になぁれ)


 そんな魔法が使えたらいいのに。自分が子猫だったときのことを思い出していた。長いしっぽを揺らして魔法の呪文を唱えた日のこと。


「お前は、魔法使いになれないな」

「な、なんで?」

「獣人でも幸せになる方法なんていくらでもある。お前がそれを知らないからだ」


 同じことを魔法学校の先生にも言われたのに、不思議と悲しくなかった。レイムがノアの目をまっすぐに見て言っていたから。

 レイムがノアのことを考えているって分かったから。

 それでもノアは前に進みたかった。王都で獣人の自分を嫌ったまま、レイムが言うところの不幸自慢をするだけの人生も、やっぱり正しくない気がしたから。


「魔法が使えても、何にもいいことなんてない」

 紫の温かい瞳に見下ろされていた。

「じゃあ、俺がレイムさんの初めてのいいことになる」

「何を言っているんだ、貴様は」


 レイムは目を細めた。

「俺が初めてのいい例になる。レイムさんが俺を弟子にして良かったって思えるように」

「どこから、そんな自信が湧いてくるんだ」

「自信はないけど、さ。そうだったらいいなぁって思うから」

 レイムの返事は深い深いため息だった。


「――私の魔法の師匠はな、くだらないことばかり言う人だった。喧嘩ばかりしていた。常闇の名前も最後まで継がなかった。けど一つだけ、継いだ考えがある」

「考え?」

「魔法使いは、誰かのために魔法を使う。自分のために使ってはいけない。己のためだけに使った魔法は必ず悪いことを引き起こすからだ」

「うん」

「強い力は国を滅ぼし、人を不幸にする。私は、それを真理だと思っている」


 ノアはゴクリと唾を飲んだ。

「ノア」

 レイムはノアの頭に手を置く。

「はい」

「最後まで誰かのために魔法を使う。自分のために魔法は使わない。お前は誓えるか」

「でも、俺」


 魔法使いになりたいと思った理由は、普通の人間のように生きるためだった。

「分かったか。人間として生きたい。自分の利のためと、お前が思っているうちは魔法使いになれない」

 レイムの諭すような声にノアは背筋が伸びるような気持ちになった。レイムは頭ごなしにノアの弟子入りを拒んでいたわけじゃなかった。レイムにはレイムの道理があった。ノアが魔法使いになるに相応しくないと、一人の人間として向き合ってくれていた。

 それが、やっと分かった。


「お前が、本当に魔法使いになりたいのなら「普通の人間になる」以外の理由を探さないといけない」

「他の、理由」

「あぁ。だから、それまでは、仮だ」


 仮、とレイムは言った。てっきり無理だと言われると思って落ち込む心の準備をしていた。

「え、じゃあ」

 レイムは布団を被り直して寝る体勢になった。ノアはレイムの肩によじのぼり、再び視線で真意を問いかける。

「好きにしろ、私は寝る」

「で……弟子になっていいの!」


 声が震えた。嬉しくて。今すぐ飛び上がりたい。

「好きにしろと言ったんだ、お前の好きにすればいい。どうせ、帰れと言っても帰らないんだろう。この家にいる理由くらいは与えてやる」


 それだけでも良かった。初めて自分のことを受け入れてくれた人に出会えた。この幸福をどんな言葉で伝えたらいいのだろう。

 ノアが落ち着かない気持ちで前足をもだもだと動かしていたときだった。

 ぽん、と小さな音が鳴る。

 猫の姿が突然人間の姿に戻っていた。けれど完全に元通りではなかった。幸せのバロメーターが振り切れた結果、三角耳と尻尾が出ている。

 気持ちは言葉にするまでもなかった。体で伝わってしまう。

 レイムは横目でノアを見た。


「あ、えっと、ごめん、なさい。元に戻っちゃった」


 猫の姿じゃない自分がレイムのベッドで寝ているのは邪魔でしかない。小柄とはいっても、レイムのベッドは一人用だ。しかも、今は裸。

 ノアは仕方がないと、レイムのベッドから出るために体を起こした。すると布団から足を出そうとしたところで左手を掴まれる。


「もう、いい。寝ろ。お前が動くと寒い」

「でも、俺、服!」

「いいから、黙れ」


 そのまま布団の中に引き戻されてレイムの胸にすっぽりと納まっている。

「え……えっと」


 布団の中は、猫の姿だったときより暖かく感じた。人間になって自分の体温が下がったからレイムの高熱がよくわかる。

 レイムに抱きしめられて身動きが取れない。


「お、おやすみ、なさい」

「あぁ、おやすみ」


 その夜は、ずっと自分の心臓の音がうるさかった。その音がレイムに聞こえたらと思うと落ち着かなくて、なかなか眠れなかった。

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