猫になる


 夜が更けノアは心配で頭がいっぱいになっていた。

 夕食から後、一度もレイムが部屋の外へ出た気配がなかった。いつもこの時間レイムは地下室で仕事をしている。

 洗い終わったレイムの皿と自分の皿を食器棚へ片付けた。

 この家の食器は二組揃いであった。前の弟子も使っていたかもしれないが、きっと先代のアーベルトが使っていたものだろう。丁寧に使っていたのか、陶器には割れも欠けもなかった。繊細な深い青から白のグラデーション。初めて見たときノアはこの皿が好きだなと思った。

 けれど、さっき洗うため桶に沈めたとき、皿の色がノアの不安を煽った。

 心が深い闇に沈む。

 不思議な皿だった。見る人の心を映すみたい。この皿にも先代は魔法をかけているのだろうか。

 いま先代の常闇の魔法使いは、この森にいない。

 けれど魔法使いの力は森のあちこちに残っている。森の中だけじゃない、家の中の至る所に彼の痕跡が、何らかの意図を持って残っていた。


(俺にも、何か力があったら)


 特別な力。

 レイムのように薬が作れたらよかった。そうすれば、レイムの今の不調を治す薬を作れる。ノアは店の薬棚を覗きに行く。でもラベルのついていない薬瓶は、何に効くのかさっぱり分からない。

 ノアは力無く、とぼとぼと自分の部屋へ向かった。廊下へ一歩足を踏み出すと一階の暖炉の火や明かりが、ふっと眠るように消えた。今、レイムは二階の部屋にいる。これも先代が残していった魔法だろうか。

 明かりの消えた部屋を見つめていると心が押しつぶされそうになった。

 レイムが熱を出したのはノアのせいだ。けれど、彼のために薬を作ることは出来ないし、レイムが日々地下でやっている仕事を手伝うことも出来ない。

 何も出来ない今の無力な自分が嫌だった。

 王都に住んでいたときのことを思い出す。嫌われて、避けられて、それがノアにとって当たり前の日常だった。

 誰とも関わらないで一人でいることが、家族のためで世の中のためだった。

 けれど魔法使いになれば、自分は変われるかもしれないと思った。

 違う自分に生まれ変われるかもしれない。縋るような思いだった。

 魔法が使えたら、獣人を隠して「普通の人」として生きられる。生まれたときからある足枷から自由になれる。


 ――誰にも、差別されない。

 幸せになりたい。愛されたい。


 獣人が分不相応な幸せを望んだから天罰が下ったのだろうか。ノアは階段を上りながら静かに息を吐いた。けれど、その吐いた息が小刻みに震えた。


「どうしよう、どうしたら、いい」


 一人薄暗い廊下に話しかける。

 もしレイムが自分のせいで死んでしまったらと思うと怖くてたまらなかった。

 二階へ続く階段を上がるたび、ギィギィと木の軋む音がする。

 森の夜はノアの気持ちと共鳴しているよう。階段横の窓から見える外の景色は闇一色だ。この場所が森と分かるのは、風に揺れてガサガサと木の葉の音が聞こえるから。

(常闇の森)

 この場所は、そう呼ばれているらしい。

 けれど、この森のなかに闇なんてないと思っていた。ノアの見るもの触れるもの全てがあったかくてキラキラ光って見えた。

 ノアが、そっと窓を開けると冷たい風が吹き込んでくる。風は草木と水の匂いをノアの場所まで運んでくる。

 水の匂いは今日、川で魚釣りをしたときの匂いだった。

 レイムが元気になったら、今度は一緒に川で釣りをしたいと思った。早く元気になって欲しい、そのためなら何だってする。何だってしたい。

 窓を閉じ、その場で壁伝いに背中を預けて床に座り込んだ。


「どうしたら、レイムさん、元気になるかな」


 どんなに考えても役立たずの居候。邪魔しかしていない。

 獣人の自分では、レイムの役に立てることがない。

 王都にいても、ここにいても何も変わっていない。

 結局、ノアに出来るのは猫の姿になることだけだ。今も、昔も。


(何のメリットもない、か。本当だったね)


 ノアは自分の心の声を聞きたくなくて両手で耳を塞いだ。

 うんと、悲しいことを思い出した。痛くて、苦しくて、悲しかったこと。ビリビリと皮膚が凍るように冷たくなる。

 頬を涙が伝った。その生温い涙はすぐに冷たくなる。心が凍った。寂しさで、苦しさで。

 変化する瞬間、ノアは一瞬気を失っていた。

 再び目をあけると、猫の姿になって床に座っている。

 最初から、こうすれば良かった。レイムの言った通り、飼い猫になる方がよっぽど誰かの役に立つ。

 人間が中途半端に猫に変身するから半端者として迫害されたのだ。両親も仕事先の人間も、魔法学校の先生たちだって変身するたびに眉を顰めた。

 でもレイムは、本当のノアを知っているのに抱き上げてくれた。


(猫だったから、だ)


 ずっと猫の姿でいればレイムは、そばに置いてくれる。それはノアにとって、つらく悲しい結論だった。でも今はそれ以外に出来ることがなかった。

 レイムの部屋はノアの部屋の目の前にある。

 廊下を進み、レイムの部屋の扉をジャンプして前足で開けた。人間だったら片手で開けられるけど、猫の姿だと重くて二度、軽く体当たりして開けた。

 レイムの部屋に入ると部屋の明かりは枕元の小さなランプだけだった。レイムは具合が悪いはずなのにベッドの上に座って本を読んでいる。深い緑の本の表紙には、ノアの読めない文字で金色のタイトルが印字されていた。

(ちゃんと寝ないと、治らないのに)

 静かだから眠っているのだと思っていた。ノアはドアの前に座りレイムの返事を待った。

 出ていけと怒られたら出ていくつもりだった。

「なんの用だ」



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