第3話

 それからしばらく雨は降らなかった。


 相変わらずぼくは仕事で謝ったり逆に上手く行ったり怒られたり褒められたり、何事もなく……若干憂鬱寄りの気持ちで、なんとなく日々をこなしていた。

 天気のいい休日に、買い物帰りに散歩がてらあの公園の前を通ってみる。遊具もたいして置いていない公園だから、あの男はおろか遊んでいる子供すら居なかった。


 ……別に、期待してたわけじゃないんだけど。

 公園には桜の木があった。だいぶ蕾も膨らんでいるが、まだほとんど花は咲いて居なかった。花が見たかったわけでもないが……他にとくに見るべきものもないので、公園には入らずそのまま家に帰った。


 数日後、雨が降った。

 昼間から降りだした雨は、夜ぼくが帰るころには強さを増していた。この日の朝も天気予報をしっかりチェックし、十年来の相棒の傘も忘れずに持ってきていた。


 バスを降り傘を差したところで、数週間前のあの男との邂逅が脳裏に蘇る。

 一度雨の日に会ったからといって、また雨の日にあの公園に居るかも、と考えるのはいささか早計だろう。

 ……家からはたいした距離じゃない。なにか予定があるでもなし、運動がてら少し遠回りをするだけ。

 誰にあてての言い訳なのか、脳内でそんな弁明をしながらあの公園の方へ足を向ける。


 公園の入口から東屋の中を見ると……居た。

 今日もまた黒い服を着たあの色白な男が、やや俯きがちにベンチに座っている。

 現実味のない、不思議な人だ。

 東屋に入り傘を閉じつつ、


「また会いましたね」


 と声を掛ける。下手なナンパみたいな自分の台詞に思わず笑ってしまう。


 男は前回と同じように目を見開いてバッ、と振り返り……前回とは違って、すぐには顔を逸らさずに少し目を細め、


「……こんばんは」


 と真面目に挨拶をしてから顔を逸らした。

 また男の左後ろにあたる場所に腰を下ろす。


「今帰りなんですか?」


「いえ、在宅の仕事で。ちょっと……外を歩きたくなって」


 相変わらずあまり顔を合わせようとはしないが、初対面のときよりは若干打ち解けた感じを覚える。


「ぼくも、雨の日はなぜかちょっと遠回りしたくなるんですよね……雨音を聞いていたくて」


「……わかります」


 ふっ、と空気が和らいだような気がした。相変わらず雨は降り続く。会話が途切れても、ただ雨音が聞こえるのが耳に優しかった。お互いになにも喋らず、しばらくそのまま雨音を聞く。


 そういえば……先日昼間にここを通りかかったとき、桜が咲きかけていたのではなかったか。

 暗闇の向こうに目を凝らす。とっくに咲いてしまったあとの桜の花が、大粒の雨に打たれて地面に散り落ちているのが街灯にうっすらと照らされていた。

 いつの間にか咲き、散ってしまった桜。


「……ぼく、花見って嫌いなんですよ。みんな酒飲んで騒ぎたいだけだし、ぼくは酒が飲めない。誰も花なんて見てないし。それに、咲いてるときだけみんな喜んで……落ちた花がぐちゃぐちゃになっていくのをいといさえする」


 こんな風に思うのは、ただ単にぼくは友達が少ないのと、この街に知り合いも居ないからだろう。昔から転校の多い子供で友達作りが下手なのもあるし、この土地は仕事で配属されただけで、もともと縁もゆかりも無い。

 別に花見を楽しむ誰かを非難したいわけじゃない。ただ、一瞬の美しさだけを褒めそやされる桜が哀れに思えるだけ。こんなこと、他人に話したのは初めてだった。よく知りもしない相手に、嫌な話をしてしまったと後悔すら感じる。


 黙ってしまった彼をチラリと見ると、下を向き、手を口元にあて小さく笑っている。楽しげに、というよりは……緊張が解けたような笑い方に思えた。


「え……なにか面白いこと言いましたっけ」


 困惑していると、彼は目を泳がせて「すみません」と謝る。


「……ええと、萩原朔太郎という詩人の詩で『憂鬱なる花見』というのがあって、あなたと同じようなことを言っていて。彼の場合は桜の花の、えて腐った匂いが鬱陶しい、とまで言い切ってるんですが。……意外と他にも、こういう考えの人って居るものなんだ、と思って。好きなんです、彼の詩」


 少し照れたように、相変わらず目を合わせず話す彼が……急に人間らしく思えてきた。


 スマホを取り出し検索窓に打ち込む。


「『憂鬱なる花見』………………本当だ。ぼくは詩人と同じ感性を持っていたのか……」


 ぼくがボソリとそう言うと、彼がまた小さく笑う声が聞こえた。


 ……ぼくはその詩人みたいに、腐った桜が鬱陶しいとは思わない。少し寂しくなるだけだ。


「ここの桜は……花見スポットの桜の木よりはまだマシですね。ぼくらにこうやって、散って腐ったあとまでちゃんと見届けてもらって」


 言った後で思わず笑う。

 なにが桜にとっての幸せか、なんてぼくに分かるはずもないのに。


「優しいですね」


 彼がぼくの方を見ないまま、少し俯いて僅かに口角を上げて言う。なぜ優しいなんて思ったのかは、ぼくからはわざわざ聞かなかった。


 またしばらくお互いに黙ったまま雨音を聞く。他人と居て、沈黙が心地良いと感じるのは初めてだった。普段のぼくなら沈黙を恐れ、中身のない話をべらべらとして、ひとり後悔するのが常なのに。


 雨によって現実世界から切り離された東屋が、右の背後に感じる男の静かな存在感が、耳から入るリズミカルな雨音が……この場の全てが疲れたぼくを癒やした。


 少し雨脚が弱まったタイミングで立ち上がる。


「そろそろ行きますね」


「……僕も、帰ります」


「それじゃ……」


 ぼくたちはなんの約束もなくそれぞれの帰路につく。次の雨の日への予感だけを胸に秘めて。









―――――――――

萩原朔太郎『萩原朔太郎詩集』河上徹太郎編,新潮社.(平成十四年七十一刷)

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