第1話「土着の詞儀構文」

 デント帝国述務じゅつむ地方連絡局フシマ地方連絡所述務主任、ルベク・ネス二等述務官。

 これが今の僕の肩書きだ。帝国の正式な記録様式では一行では収まらないほどの長ったらしい役職名だが、実際の仕事は“地方局の便利屋”といったところで、要するに閑職である。


 上司はいない。部下は一人。帝国語術院を卒業したばかりの新任述務官──本人いわく「非常に優秀」な、若い女性だ。名をルーエ・シズという。


 「ネス主任! 見てくださいこれ!」


 遠征用の外套と短い髪を激しく揺らしながら、彼女が木版を僕の机に叩きつける。お茶を沸かしていた釜の炎が揺れた。あまりの大声に発火の詞儀レクシスにノイズが走ったのだ。よくそんな大声を、この朝早い時間に、詞儀具レクシファクトもなしに出せるものだと思う。そんなことをできる人物を、僕は他に知らない。


 「ここから北へ三日、東へ二日進んだ集落で採取したんです、この詞儀レクシス構文! これ、なんかおかしいんですよ!」


 額にかけられたゴーグルがずれ落ちるのも気にせず、彼女は続ける。あまりにうるさい。無視してお茶を啜ろうとした僕の前に、彼女はその木版をぐいと突き出してきた。この地方によく見られる記法で、どうやら狩猟に関する術式が刻まれている。


 「これ、何だと思いますか? そう、狩猟用の構文なんですがどうやら…… 防護詞儀レクシスに対して抵抗性のある構文なんですよ!」


 防護詞儀レクシス。施術者と被術者の関係性において力を発揮するというのが詞儀レクシスの基本的な発動原理だが、その影響を他者が受けてしまったり、被術者が望まない強力な効果を意図せずに受けてしまったりしないよう、民間運用される詞儀レクシス構文にはそれに対応する防護詞儀レクシスを設定することが義務づけられている。


 「まだ読み込んでいないのでわかりませんが…… これはおそらく、防護詞儀レクシスを完全に防ぐのではなく、その実行をきわめて困難にするような仕掛けがありますね…」


 帝国中央の都市部ではよく見られるタイプの構文だ。

 語制局が規制を強化するたびに、それをぎりぎりで回避するような新しい構文が開発され、その対応に記録律監局は苦慮していると聞く。街を歩いていると、その手の構文に引っかかった観光客が怪しげな店に入っていってしまう様子を見かけることがある。


 しかし、それが辺境の土着詞儀レクシス構文として運用されている例は、僕も聞いたことがなかった。たしかに興味深いが、今の僕にはちょっと騒がしすぎる。目の前に突き出された木版を彼女に押し返して口を塞いでしまう。


 「ルーエさん、今はまだ朝。それに僕はこれから、子どもたちに標準詞儀レクシスの授業をしたあと、『ドイル亭』で壊れてしまった発火詞儀具レクシファクトの修理をして、そのお礼としてたぶん名物のタカキタ煮込みをごちそうになって…… とにかく忙しいんだよ。勘弁してくれ」


 広大な帝国の辺境地域には各地に独特の詞儀レクシスが存在しているが、帝国はそれを標準詞儀レクシス ——いわば帝国公認の詞儀レクシス術式に置き換えていく方針を打ち出している。帝国全体で標準詞儀レクシスが通じるようにすることで、中央で開発された高性能な詞儀具レクシファクトを全ての臣民が使えるようになるという、とてもありがたい政策だ。


 僕はその実現のため、地方述務官の仕事の一環として子どもたちに標準詞儀レクシスを教えている。そしてドイル亭はこの町で唯一、僕が気に入る食事を出してくれる店で、脂ののった獣の肉と麺類を煮込んだ「タカキタ煮込み」はその店の名物だ。とてもうまい。


 「でも主任…!」


 背後でまだ大声を上げ続けるルーエ ——本人曰く「非常に優秀な」部下を無視して僕は事務所のドアを開け、通りに出る。よく晴れているが、今日も寒い。彼女の持ってきた木版はおそらく、記録律監局に押収されて終わるだろう。土着で運用される、防護詞儀レクシスを回避する狩猟用構文。放っておく訳がない。


※※※


 ルベクが出て行ってしまい、しんと静まった事務所の中でルーエは木版を見つめていた。

 この手の、防護詞儀レクシスを回避する構文自体は珍しくないが、それは語制局の規制をすり抜けるよう民間で開発されているもので、土着ではそもそも必要性が低い。


 帝国語術院を優秀な成績で卒業し、将来の輝かしいキャリアが約束されている彼女に割り当てられた最初の赴任地がここ、フシマ地方連絡所だった。主任のルベクはまるでやる気がなく、単純なルーチンワークに終始して地方詞儀レクシスの収集には行こうとすらしない。


 詞儀レクシスとは、いわば「メッセージによる他者干渉」の技術で、最小単位のシルヴァ(音響素)からプラグマナ(文脈)までの6段階に分かれた儀素によって構成される。

 それらの組み合わせ次第によっては、火をつける、灯りを灯すといった単純な詞儀レクシスに留まらない、もっと複雑な指令を織り込むことも可能だ。


 そして、帝国中央の語制局で定めた標準詞儀レクシスとは別に、フシマのような辺境にはその地でのみ運用されてきた独特の詞儀レクシスが存在し、その調査・収集をするのも述務官の重要な仕事である。はず……なのだが、そういったハードワークはすべて彼女が一人で担っている。


 「これは私がやるしかない、ってこと、よね」


 そう呟くと、ルーエは木版を目の高さに持ち上げ、構文を読み上げる。フシマ地方に土着する詞儀レクシスの記法を赴任前にしっかりと頭にたたき込んできた彼女でこそ、できることだ。


 「■■■■■■■■ ■■ ■■■■……」


 彼女にしてはやや抑えた声量で、事務所の中に詞儀レクシス詠唱が響く。発声してみると改めて、その複雑さが際立った。これが辺境の地で土着の構文として生まれている……。


 「すごい…… これは大発見かもしれない」


 詠唱を終えた彼女が呟く。もちろん何も起こらない。詞儀レクシスが発動するには、施術者と被術者との間に何らかの関係性が必要であり、被術者がいないこの環境ではただの「音」にすぎないからだ。


 構文の写しを二枚作成し、ひとつは中央への報告用に明日の連絡便に乗せるため封をし、もうひとつは、そっと彼女自身の文机にしまい込まれた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

次の更新予定

毎週 金曜日 18:00 予定は変更される可能性があります

辺境のレクシスト 與八 悠 @yohachi_yu

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る