第六章 最終決戦

第一話

 十二月初旬の銀座は、クリスマスの装飾できらびやかに彩られていた。葵は高級レストラン「ラ・フルール」の窓際席に座り、時計を一瞥する。午後七時。健一を呼び出した時間まで、あと十五分だった。隣には、すでに隼人が静かに待っている。


「緊張していますか?」


 隼人が穏やかに尋ねる。


 葵は深呼吸し微笑んだ。


「少しね。でも、これで終わりだと思うと、不思議と落ち着いているわ」


 窓ガラスに映る自分の姿を確認する。アッシュブラウンの髪は洗練され、メイクも丁寧。黒のワンピースには、自作のターコイズのネックレスが輝いていた。


「証拠は全部揃っていますか?」


 隼人が再度確認する。


「ええ、バッグの中よ。健一と麗子、美咲とのメール、ホテルの記録。それに……私たちの“演技”の証拠もね」 


 そのとき、レストランの扉が開いた。葵の胸がどきりと高鳴った。現れたのは健一だった。いつものように洗練されたスーツ姿だが、眼下にはクマができ、疲労の色が濃い。周囲を見回して二人を見つけると、彼の表情が強張った。


「来たわね」


 葵は小さくつぶやいた。


 健一は苛立ちを隠せない足取りでテーブルに近づき、そのまま椅子に腰を下ろした。


「葵……」


 彼の視線はそのあと隼人へと向く。


「お前が鈴木か」


「鈴木隼人です。初めまして」


 隼人は冷静に挨拶し、手を差し出すが、健一は無視して視線を葵に戻した。


「何のつもりだ? わざわざこんな場所に呼び出して」


 葵は落ち着いた微笑みを浮かべる。


「最後にちゃんと話がしたかったの。あなたと会うのも、これで終わりだと思ったから」


「最後……? どういう意味だ」


「健一」


 葵はゆっくり言葉を選ぶように口を開く。


「私は離婚を決めたの」


 重い沈黙が降りる。健一は隼人と葵を交互に見つめ、言葉に詰まったまま、ようやく声を絞り出す。


「なぜだ? こいつが理由か?」


「違うわ。理由はあなたよ」


 葵はまっすぐ健一を見据える。


「あなたが私を裏切ったから」


「俺が……?」


 健一は思わず声を荒らげそうになるが、周囲を気にして小さく抑える。


「お前こそ、あいつと……」


「話したいのはその件。だけど、先にこちらを見てもらえるかしら?」


 そう言って葵はバッグから写真を取り出し、テーブルにそっと置いた。写っているのは、健一と麗子がホテルに入る場面だ。


 健一は顔から血の気が引き、つぶやいた。


「これは……」


「城ヶ崎麗子さん、あなたの部下。そしてもう一枚……」


 今度は健一が美咲と親しげにしている写真を出す。


「城ヶ崎美咲さん。麗子さんのお姉さん。姉妹両方に手を出すなんて、器用よね」


 葵の言葉に、健一は言い訳もままならず口を開閉させるだけだ。


「何か言うことはある?」


 葵の声には僅かな皮肉が混ざっている。


「葵……待て、誤解だ。美咲は本当に仕事相手で……」


「もういいわ。証拠は十分あるもの」


 メール、ホテルの領収書、クレジットカードの明細。淡々と並べられる証拠に、健一の額には汗が浮かぶ。


「なぜ……こんなことを……」


 健一はようやく消え入りそうな声を出す。


「あなたを愛していたからよ。だからこそ裏切られた痛みは大きかった」


 健一は俯いて何も言えない。一方、隼人は静かに様子を見守っている。


「でも……」


 健一は必死に顔を上げた。


「だからって、お前が同じことをする必要はないだろう。こいつと……」


 葵は隼人と視線を交わし、互いに小さくうなずくと、もう一度健一に向き直った。


「健一。私と隼人さんの関係は、最初から演技だったの」


 健一は一瞬理解できない様子で眉を寄せる。


「……は?」


「SNSの写真やデート、ホテルから出てくるのを見せたのも全部。あなたに『サレる』気持ちを味わってほしかった。私が受けた痛みと同じものを」


「演技……?」


 健一の目が困惑に揺れ動く。


「そうだ」


 隼人が口を開いた。


「私は葵さんの計画に協力していました。あなたを嫉妬させるための“偽装”です」


 健一は怒りで言葉を失い、拳を強く握る。


「ふざけるな……俺を馬鹿にしているのか?」


「馬鹿にしたのはあなたよ。私たちの結婚を踏みにじった。私があなたにしたのは、同じ痛みを返しただけ」


「それでも……!」


 健一は机を叩きかけるが、周囲の視線に気づき、ぐっとこらえた。


 葵はさらに言葉を続ける。


「それと、あなたと麗子さんの不適切な関係については、すでに会社に報告済み。部下との不倫とパワハラ・セクハラの疑いがあるなら、重い処分が待っているわね」


 健一の顔色がサッと青ざめる。


「お前……そこまでするのか……」


「あなたが私の人生を壊したのと同じくらいには、ね」


 健一は椅子に力なくもたれかかる。


「……くそっ」


「これが私の答え。離婚調停の申立書も用意してあるわ」


 そう言って葵は書類を取り出し、テーブルに置く。


「もし拒否するなら、公の場で争うことになる。証拠はいくらでもあるから」


 書類に目を落とし、健一は唇を震わせた。


「慰謝料……こんなに……」


「もちろん妥当な額よ。あなたの裏切りの代償として、正当な請求をするつもり」


 葵は静かに言い切った。


 重苦しい沈黙が流れた後、健一は「葵……」と声を絞り出す。


「俺は……」


「もう終わりなの」


 葵は椅子から立ち上がった。


「あなたが終わらせたのよ」


 健一も慌てて立ち上がり、腕を掴もうとする。


「待て、葵!」


 しかし、その前に隼人が素早く身体を入れ静かに制止した。


「彼女に触れないでください」


 周囲の客やスタッフの視線も集まり、健一は身動きが取れなくなった。


「書類は一週間以内に返事をちょうだい」


 葵は冷ややかに言った。


「それじゃ、失礼するわ」


 崩れ落ちるように椅子へ倒れ込む健一を横目に、葵と隼人はレストランをあとにした。

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