第2-2話

 雨はほぼ小ぶりだし、帰りも大丈夫かな。

 気を取り直して少しの雨を払い、建物の入り口で風を受けて水気を飛ばす。受付で学生代金を支払うと、巻物状のパンフレットと片耳のイヤホンを渡された。パンフレットを引き延ばすと、暗い画面に浮き上がってくる室内案内。イヤホンをして、ゆったりとした異国の音楽が流れる、少し暗い室内へ入った。


 実際の光景を収めた写真がライトアップされ、数えられる程しかいない来場者のシルエットは存在感を殺されている。

 足音が鳴らないように配慮されたカーペットの上を、わかっていながらもそれなりに注意しながら進む。


 まず初めに、この個展の表紙になった小川の写真。タイトルは『世界の狭間』。地上から空へ向かって奥行きを見せる構図で撮影され、爽やかな空と透き通った川の青が境目を不明瞭にし、繋がっているように見せている。

 隣の写真は逆の構図だった。山頂から地上を撮影したようだ。細い川が地上を這って方々へ伸びている。時間帯は明け方のようだ。朝日が川を照らしてまるで金色に輝かせる。タイトルは『世界の血液』。


 イヤホンから、この写真は『マミ』さんがどこで、どんな道程を経て、どんなことを考えながら撮ったのかという解説が流れてくる。

 この光景を見るまでの苦労の道を想像しながら、自分が歩いていたらと想像する。諦めそうになることもあるだろう。歩きやすい道ばかりじゃない。そんなものはそもそもないかもしれない。ではなぜそこまでして頑張るのか。



『機械にも人の手でも再現できないそれが、そこにある』

『私が自ら行かなければいけない』

『踏みしめてきた苦労の果てにしか得られないものが、この世には存在する』

『努力に資格は必要ない』



 絵を見るたびに締め付けられる感動と、流れる言葉に感銘を。生まれ住んでいる北海道という広大な環境ですら満足に知りえない俺は、どれほどちっぽけで世間知らずなのだろうか。

 目頭が少しばかり熱くなって、瞬きを繰り返しながら最後の絵の前に辿り着く。


 それは今まで見ていた風景写真とは違った。

 白い太陽と白光した空。その手前の山頂で座り、太陽に向かってコップを掲げている人。おそらくはこれは『マミ』さん。解説にはないものの、そう直感する。


 タイトルは『Hello,world again』。


 太陽、世界と乾杯するなんて、本当に贅沢だなと思う。熱くなった目頭はどこへやら、知らぬ間に口角が上がっていた。

 目に焼き付けて、出口に向かう。スタンドに立てかけられたパネルがあった。写真や絵ではなく、ただ文字がつづられている。人の字だ。手書きだ。



「『マミ』さん」



 思わず声が出て、口を押える。周囲に人はおらず、安心して手を下ろした。目で文字を追うと、それは『マミ』さんからの直筆メッセージ。



『ご来場いただき、また、最後までご覧いただき、誠にありがとうございます。直接お礼を伝えられないのが残念でなりません。


 写真たちはいかがでしたでしょうか。


 世界にある光景は、ネット社会では当たり前のように見れてしまいます。わざわざ危険を冒す必要なんてないほどに、リアルで、鮮明に表現してくれています。


 けれど、それは『本物』ではないんです。『創造物』です。それが悪いと言っているのではありません。ただ、知ってほしいんです。世界はこんなにも素晴らしい。一歩足を踏み出せば、同じ場所でも毎日違っているんです。


 目を向けてください。貴方の目に映るのは、昨日までの景色ではありません。その一瞬を見逃さないでください。それに気付けるのは、とても素晴らしいことです。


 さて、わざわざこちらに来てくださった方だけにお伝えしたいことがあります。


 私、マミは登山活動を一時休止させていただきます。公表していませんでしたが、私は『血忘症』という病を抱えており、一時療養することにしました。症状が落ち着きましたら、またこうしてご挨拶ができるよう、そして私の見たことのない世界を写真として残していけるよう、再び頑張ってきます。


 また会う日まで。おやすみ、世界。


 マミ』



「病気……」



 口を抑えることができなかった。


 病気は不思議なことではない。俺の知らない、聞いたことのない病気なんて、世の中沢山あるだろう。『マミ』さんの『血忘症』だって、どんなものか知らない。


 半分放心状態になりながら、パンフレットとイヤホンを返却した。家に帰るまで頭の中は『休止』と『血忘症』でいっぱいで、帰ったら怒られた。止みかけだった雨は再び強く降り、俺は土砂降りの中を帰ってきたらしい。


 制服から滴る雨は、玄関で足元に水溜りを作る。母親が持ってきたタオルで拭きながら脱衣所へ直行し、半強制的に風呂へ入れられる。温もりに包まれて、ようやく最後のメッセージ以外のことも考えられるようになった。



「最後の写真は、別れの挨拶だったのかな」



  ・♢・



 怒られながら夕飯を食べ、変な疲れを感じながら部屋に帰宅した。いつもの如くベッドにダイブして、今日はスマホを片手に仰向けになった。


 画面の検索窓に入れるのは『血忘症』。いくつかのページタイトルを眺め、医療系に特化したサイトを開く。



『記憶障害の一種であり血液疾患とされています。罹患りかん数が少なく、世界でも数例しか報告がありません。


 症状はまだらな記憶の喪失。認知症の様に最近のことが覚えられないというわけではなく、水頭症の様に昔のことを思い出せないわけでもありません。ぽっかりと穴が開いたように、短期間の記憶が喪失してしまうのが特徴です。


 脳科学を研究する一石医師によりますと、脳の記憶を司る海馬には異常が認められないことが確認されました。調査と研究により、血液の異常によって記憶が喪失されていくものとされています。


 明確な治療法はなく、予防としては『泣かない』ことがあげられています。それは、涙とは濾過した血液であり、涙が流れることをきっかけに記憶が喪失されるからです。同様に尿も血液の一部ではありますが、排尿をきっかけにして記憶の喪失は確認されていません』



 記憶をなくす病気。そして無謀ではないかという予防。世の中に泣いたことがない人はいるのだろうか。いたとしたらその人には無縁の病気だな。


『マミ』さんは療養すると言っていたが、つまりは泣かない訓練でもするのだろうか。あんなに感動的な作品を作る人が。高い高いハードルを乗り超える人が、泣かない、感情を押さえてしまうのか。


 別にこの病気で死ぬわけではない。けれど、精神論。感情を押し殺して生きるというのは、それこそ想像できない。



「ロボットみたいじゃないか」



 世の中にあふれてきたロボット。LAHラーは泣かないだろう。故障はあれど病気知らずだ。けれど、どれだけ機械技術や医療技術が発展したとして、この病気は治す手立てが今のところは見つかっていないようだ。アルにもどうしようもないだろう。


 メッセージが衝撃的過ぎて、写真たちの印象が薄れてしまった。スマホを胸元において、眼を閉じた。入り口から入っていって、順に見てきた写真を思い出す。目頭が熱くなった記憶が蘇って、また熱くなった。袖で乱暴に拭った。泣きたくなかった。


 気を紛らわしたくて、ベッドから飛び起きて問題集を開いた。

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