神響の衛士~はじまりの歌~
牧瀬実那
比翼連理の向日葵
「――わぁ!」
初夏の京都。市中から離れた自然豊かな山道を登りきったところで、少年は自転車を止め景色に見入った。
少年は小柄で線が細く、幼い顔立ちにワンピースのような膝まであるシャツを合わせると女性にも見えるような、中性的な出で立ちだった。
彼の薄茶色で少し長くて柔らかい髪と、つやつやした深緑の木々を、爽やかな風がざわざわと優しく揺らす。少年の他に人が居ないのも、彼に心地良さと日常とは異なる新鮮さをもたらしていた。
「……写真、撮っておこうかな」
立ち止まった場所は特に有名な観光スポットではないものの、少年の心に響いたのは確かで、記憶に残す以外の記録を取りたくなったのだ。
少年は一度ポケットからスマホを取り出し、「あっ」と小さく声を上げると慌ててポケットに戻し、代わりに首から提げているポシェトケースからインスタントカメラを取り出して手に持つ。フィルムを使用するそれは「撮った写真がすぐに見れないのが逆に良い」と少年の周囲で俄に流行りだしたレトロなもので、彼もまた同じくその魅力にハマって最近使い出したのだ。
「こう、かな?」
何度も何度もカメラの位置や角度を調整し、ようやく一回シャッターを切る。フィルムには枚数制限があるので、簡単に撮り直しが出来ないところもまた、思い出を丁寧に留めていく感覚がして少年が好きなところだった。
少年は丁寧な手付きで大事そうにインスタントカメラを仕舞うと、同じポシェットから次にノートを取り出す。手のひらサイズのメモ帳のようなノートは、表紙やページがところどころ撚れたり剥げていたりして、彼が普段から肌見放さず持ち歩いていることが窺えた。
表紙には「旅の記録 No.3」というタイトルと「
少年――深山葵は、栞代わりになっているペンを抜き取り、開いたページに今の気持ちを書き留めていく。
「✕✕山の途中、京都市を一望できるところを発見! 天気が良くて遠くまで見えるよ。風も気持ちよくて、植物も喜んでるみたい。五重塔とか仏閣とか、結構ハッキリ見える。神社やお寺があるところってわかりやすいね。それから、やっぱり大内裏だったところは本当に格子状なんだ。地図やネットで見た通りだけど、やっぱり実際に見ると感心するなぁ」
まるで誰かに話しかけるような文体。
しかし、葵は今までこの「旅の記録」を誰かに見せたことはない。なのにそう記すのは、葵の性格――ではなく、これまでの経験からだった。
深山葵は、生まれたときから稀に体に変調を来たすことがあった。特段虚弱体質だったわけではない。通常ではなかなか起こりえない症状の数々は、基本的に彼の左脇腹にある小さな瘤が原因だった。
わずか5ミリにも満たない瘤の正体は、生まれてこなかった双子のきょうだいの名残だ。
「キメラ」とも称される、二卵性双生児の片方が、胚発生の段階でもう片方の胎児に吸収、融合してしまう現象。一つの体に二つの遺伝子情報が混在するその現象は、およそ10万分の1の確率で起き、状態によっては重篤な免疫系疾患などの原因となる。葵の場合、幸いにも良性の腫瘍に留まったとはいえ、癒着具合から取り除くのも難しい……というより、どういうわけか取り除いても数日もあれば復活する奇妙な状態で他と同様に彼の体にたびたび先天性の異常をもたらした。
説明を受けても最初は実感がなかった葵も、成長するごとに自分の体が人とは異なることを身を持って理解した。周囲に理解されない変調や将来に悩み込む時期もあったし、受け入れるまで相当の時間がかかった。
特に、何度取り除いても復活することが、葵の精神に与える影響は大きかった。
それは、葵が同世代の男子に比べて細い体格だったり、身長が低かったりと、何の異常も持たない体で生まれたとしても時に悩みとなる一般的な事柄を、双子のきょうだいだったモノがもたらしていると真っ先に思い込んでしまうほどだった。
高校生になり、瘤が肉体的成長に関係ないことを本当に理解し、とうとう取り除くことを諦めた今でも、完全に受け入れきれたわけではない。
ただひとつ、心境の変化を起こした出来事があった。
前年、葵は初めて"ヒーロー"を目の当たりにした。
***
この世には「
異形の怪物が初めて出現した頃に比べて、襲撃頻度が徐々に増していることや、科学的技術では対応しきれなくなって人ならざるモノの力を頼るようになった結果、彼らのような存在が生まれたのも、日本では「神響の衛士」と呼ばれているのも、今や幼稚園や保育園で聞かされる一般常識だ。
それでも葵の近くに怪物が襲撃してきたことはなく、他の多くの人と同様、どこか遠く違う世界で起きている、まるで御伽噺、というのが葵の持つ「神響の衛士」の印象だ。彼らよりも自分の体や試験といった目の前にあることの方が、葵にとって遥かに重大な問題だった。
――去年の春までは。
***
「父の出張先が怪物の襲撃に遭った」
終業式を終えて学校から帰宅した葵を、祖母が震える声で迎えた。
葵の母は半年前に病で亡くなったばかり。
ぼとりと玄関先にカバンを落としたまま、葵は震える祖母と抱き合った。
縋り付くような祖母を支えながら、葵の頭の中では自分の体のこと、母の死、それから最後に見た父の姿がぐるぐると駆け巡り、「どうして僕たちばかり」と考えずにはいられなかった。それでも言葉にしなかったのは、口にすれば目の前で泣くまいと震える祖母の心がぽっきりと折れてしまうような気がしたからだ。
――きっと大丈夫だよ、
祖母の背を懸命に撫でながら代わりに紡いだ言葉は、空虚で薄っぺらく、何も安心させてくれなかった。
なんとか祖母をリビングのソファに移動させ、これ以上不安にさせないように、とテレビやラジオ、その他根拠のない憶測が飛び交うものを片っ端から遠ざけた。温かくて香ばしい匂いのほうじ茶を飲ませ、祖母がようやく一息ついたのを横目に、葵自身は彼女から見えないように机の下でスマホを操作して情報を漁る。
政府からの発表によれば怪物は既に衛士によって倒されたらしい。
けれど、ニュースに上がる写真や動画はどれも悲惨な被害を映していて、事態の全容は明らかになっていなかった。
――お父さんも、もしかしたら……
脳裏に浮かんだ言葉を、一度強く目を閉じて頭から追いやる。葵はスマホを閉じ、祖母に他愛のない話を振りながら大人しく公的機関からの連絡を待った。
1日、2日経ち。3日目にはもう父親は生きていないだろうと諦めと絶望が淡い希望を上回った頃、唐突に庭先から祖母の叫び声が聞こえた。
「どうしたの!?」
慌てて声がした方へ走る。
焦燥で息を切らし辿り着いた葵の目に入ったのは、腰を抜かしてへたり込む祖母と、その前に泣きそうな顔で立っている父、更にその後ろに立つ、背に猛禽類の力強い翼を持った派手な装束の男。
状況が上手く飲み込めず立ち尽くす葵をよそに、父は「母さん、ただいま」と祖母に抱きつくように手を広げている。確かに声が聞こえる。幻じゃない。
「――っお父さん!」
思わず涙声で駆け寄る葵に、父が顔を上げる。彼は葵の姿を認めると嬉しそうな泣き笑いを見せ、広げた両腕で祖母と共に葵を抱きしめた。
そのしっかりとした温もりと力が、目の前に居る父が間違いなく生きていると何よりも証明した。
「――無事に再会できて、良かったです」
しばらく親子の様子を見守っていた男が、少し落ち着いた頃に口を開いた。見た目の派手さに対して、低く、優しい声音は、葵達を自然と安心させてくれる。
「えっと、貴方は……?」
ようやく葵にも尋ねる余裕が生まれた。地方の祭舞台で見るような奇妙で派手な出で立ちから察するに、男が「神響の衛士」であることには違いない。けれど、彼が安否連絡よりも先に父を直接自宅まで運んだことはなかなか理解できなかった。順番が逆じゃないのだろうか。これまで一体何があったのか。
聞きたいことが多すぎて曖昧になった葵の問いかけに、けれど男はしっかりと意図を汲み取った様子で、にっかりと笑って自分が現場に居合わせた神響の衛士であることを告げた。
衛士はしっかりと力強い眼差しで続ける。
「遅くなってしまい、申し訳ありません! 瓦礫に閉じ込められていて発見するのが遅くなってしまいました! ですが、上手いこと瓦礫の隙間に居たのが幸いして、脱水以外は怪我ひとつなく。ただ外に出られたときから『家に帰って母と息子に会いたい』と懇願されてしまいまして。その方が良いだろうと、翼と力がある私が急いでお連れした次第です」
言外に「懇願するあまりまともに静養しようとしなかった」ことを含ませつつ、男は全く気にしていない様子で朗らかに説明した。
おかげで葵は「全く父さんは……」と言いつつも申し訳なさを感じず素直に男へ感謝することができた。
「真っ直ぐ連れてきてくれて、ありがとうございます。もし無事だって報告から帰ってくるまで時間がかかっていたら、待っている間におばあちゃんの方が先に心労で倒れていたかもしれません」
深く丁寧に頭を下げる葵に、男はいえいえと笑った。
「それにしても、本当に怪我が無くて良かったです。衛士をやってる以上、いわゆる"神様"と呼ばれるような存在が居ることは常日頃から実感しているものの、同時に彼らが安易に人を助けてくれる存在ではないことも痛いほど理解していまして。彼が怪我一つ戻ってこれたのは、陳腐ではありますが、まさに奇跡が起きたとしか言いようがないのです」
「そう、なんですか?」
意外だった。
人ならざる者、特に八百万の神様とも呼ばれるような存在に選ばれて力を借りている以上、奇跡を起こすことなどお手の物なのだと、葵は無意識に思い込んでいた。同時に、彼らに選ばれていない葵が憂き目を見るのは当然なのだ、と。
けれど、こうして実際に衛士と話してみると、彼らはむしろ衛士の力は容易く全てを救うものではないことがひどく身に沁みているようだった。本当にたまたま選ばれただけであり、それ以外は普通の人と変わらないこと、それ故に歯痒さや悔しさを感じていることも。
――もし奇跡が起きたのが、偶然ではない、としたら……
無意識に葵は左脇腹へ手を当てていた。
双子のきょうだいの名残が、意思も何も存在しないはずのそれが、初めてそこに
先に亡くなった母ではなく、生まれてこれなかったきょうだいを真っ先に思ったのも、きっと何か感じるものがあったのだ、と、後に幾度振り返っても、葵にはそう思えた。
この日以来、葵は見たことや感じたことを日々ノートへ書き残すようになった。
生まれてこれなかったきょうだいに話して聞かせるような、或いは手紙を出すような気持ちで文字を綴っていくと、本当に傍らできょうだいが聞いてくれているような柔らかくてくすぐったい気持ちが葵の中でどんどん深まっていく。
――もっと世界を見たい。きょうだいの分まで見て、知って、教えてあげたい。
書けば書くほど強くそう願うようになり、1冊目のノートの5分の4ほど埋まった去年の夏休みから、葵はとうとう自転車で全国を巡る旅を始めた。
怪物の脅威がなくなったわけじゃない。危険なのは承知の上だ。
でもそれ以上に、きょうだいへ何かしたかった。
同時期にゆったりとして丈の長い服も着るようになったのも、瘤を少しでも圧迫しないようにという葵なりの配慮だ。
瘤からは何の反応もなくて、これまでと変わらずにただそこに在るだけ。もしかしたらどんな気遣いもただの自己満足なのかもしれない、と葵自身そう考えることもたびたびあった。
それでも構わなかった。
実際に旅を始めると、行く先々で出逢う物事はどんどん葵の視野を、思考を広げていく。これまで知らなかったものに触れる興奮と、これから行く場所への好奇心。どちらも自分のことばかり考えていたときには無かったものだ。
旅立ちのきっかけになったきょうだいが、たとえ上辺だけの理由であったとしても、旅を通して得た経験は葵の中で確かに積み重なって、もう欠かせないものになっている。
――それだけでも感謝くらいしていいんじゃないかな。
葵はそう考えながら、昔とは見違えるように晴れやかな表情で自転車を漕ぎ続けている。
***
「次はどの辺りを目指そうかな」
京都全体の地図を眺めながら考え込む。地図に書き足された✕印は、葵が既に訪れた場所だ。
京都に来て3日目。既に有名どころはあらかた訪れたし、そろそろ帰路についても考えなければいけない。
「でも本当に京都って色々あるなぁ。まだまだ全然見足りない気がするよ」
たはーと気の抜けた声で笑い、「どこが良いと思う?」ときょうだいに話しかける。返事はもちろん無い。ただきょうだいを寄す処にして次にどうしたいか葵の中で考えを重ねていく。
「そうだね……とりあえずこの山道を行けるところまで行ってみよう」
うんうんとひとりで頷いて再び自転車を漕ぎ出す。
青々として元気な木々の間から差し込む日差しと頬を撫でる風が気持ち良い。
覚えているのはそこまでで。
「……え?」
気が付いたときには、いつの間にか葵は真っ暗で上下もわからない空間にたったひとりでポツンと立ち尽くしていた。
「なんだ、これ……何がどうなって……」
何度も瞬きして、目を擦り、頬をつねっても状況は変わらない。それどころか時間が経てば立つほど先程まで感じていた暖かさが消え、底冷えするような寒気が全身を覆っていく。
――まさかこれが京都で起きる神隠し? なんて……
恐怖に飲み込まれないように冗談めかして独りごちながら、葵は首から下げているポシェットは無事だろうかと何の気なく自分の手を動かし、見てしまった。
「うわ!?」
思わず悲鳴が飛び出る。葵の両手が、指先から少しずつ暗闇に溶け込むように透明になり、消え始めている。
「なんなんだ……!」
これ以上消えないようにと慌てて両手を擦り合わせ、指先の感覚が既に無いことにも気が付いた。背筋にぞわっとしたものが走る。下を見れば、足先も同じように消え始めていた。
――このままじゃ、僕が全部消えちゃう。
脳裏に浮かんだ最悪の想像は、葵の心を一気に恐怖のどん底へ叩き落とした。
「……たす、けて……」
唇から、無意識に小さな声が零れ落ちた。震える声は沈黙を破る糸口になり、葵は暗闇に向かって堰を切ったように叫んだ。
「誰でもいい! 何でもいい! 返事をして! ……助けて……!」
無駄かもしれなくても構わない。そうしていなければおかしくなってしまう。ただその一心で叫び続けた。
……どれくらいそうしていただろうか。
不意に、小さな光が葵の目に映った。気のせいかと思った光は、消えるどころかどんどん大きく眩しくなり、やがて、赤く燃えるように美しい鳥がこちらに近付いて来てるのだとわかった。
鳥は、葵の手が届かないギリギリのところで止まり、優雅にその場で羽ばたいた。
「……綺麗……」
先程まで怯え震えていたことをすっかり忘れ、葵は目の前の輝く鳥に魅入った。
鳥はとてつもなく巨大というわけではなく、冠羽や尾羽根を含めれば葵よりも少し大きい程度だ。全身は赤を基調としていて、広げられた翼には、青、黄、白、黒が幾何学的で美しい模様を描いている。尾羽根も飾り羽も同様の色合いで、天上で織られた反物のように長く、美しく、厳かに揺らめき、煌めいている。
その超然とした姿とほのかに放たれる光のせいなのかはわからないものの、近くにいるとほんのりと温かく、葵の気持ちが和らいだ。
じいっと鳥は葵を見つめている。その大きな瞳は、貝殻の内側を思わせるつるりとした質感の乳白色のようでいて、羽ばたきに合わせて僅かに動く度に、きらきらと幾つもの色に輝いた。
――博物館で見たオパールみたいだ。
葵が漠然と考えたとき、鳥が黄金色の嘴を開いた。
「貴様か」
「喋った!?」
高くもなく、低くもなく、ただ深く澄んだこの世のものではない美しい声で、鳥は確かに喋った。
ポカンとする葵に、鳥は心底不思議そうに続ける。
「何を驚いている。衛士を通して
「はあ、まあ、確かに知っていますが……」
――だからって実際に姿を見たのは初めてだし、ましてや喋るなんて思ってもみなかった。
という言葉はぐっと飲み込んだ。何故だかそれを言うと、この鳥は機嫌を損ねてどこかへ飛んでいってしまうような気がしたのだ。
「まあ衛士を知っているなら問題あるまい。端的に言おう。貴様は今、異形に襲われて死にかけている」
「えええ!?」
「いちいち大声を出すな」
「と言われても……!」
「話は最後まで聞け」
ずい、と鳥が葵の額に触れそうなほど近くへ顔を寄せる。
宝石のようだと思った瞳に人のような感情は一切無く、この世のものではない美しさが逆に不気味にも思えた。
「尋常であればそのまま命が尽きていたであろうが、吾に助けを希う小さくも必死な声が聞こえたので、憐れに思い参じた」
「そんなに酷い声でした……?」
へろへろと問いかける。こっちは今にも消えるかもしれない恐怖で一杯だったのにあんまりだ、と葵はとうとう泣きそうになった。
けれど、鳥は「否」と告げる。
「貴様ではない」
「え」
「貴様の体に宿るもうひとりが、吾を呼んだ」
すいと、鳥が葵の左脇腹に頭と視線を動かす。
「僕の……きょうだいが?」
半信半疑で返す。確かにこれまで本当に居るかのように過ごしてきたものの、実際に存在するかどうかはついぞ葵には分からなかったし、話を聞いた誰も否定も肯定もしなかった。
けれど鳥は真っ直ぐに葵と向き直り、鷹揚に、はっきりと頷いた。
「うむ。一分にも満たない大きさではあるが、魂はそこに
その言葉に反応するかのように、葵はくすぐったいような感覚を初めて瘤に感じた。思わず息を飲み、瘤を見て手を当てる。それから急に湧き上がった感情で胸がいっぱいになった。
「……そっか。君はここに
死にかけているというのに、きょうだいが確かに
「さて、どうする?」
「どうする、って?」
虚を突かれて顔を上げると、鳥は先程と変わらず凛と涼やかな様子で葵を見つめながらゆったりと羽ばたいている。
「貴様は今、吾と契りを交わし衛士と成る条件をほぼ満たしている」
「……え?」
思ってもみなかった言葉にぽかんとする葵に、鳥は緩やかにその場でくるりと宙返りしてみせると、改めて名乗った。
「吾は
「……ええと」
鳳凰の言葉が示すことを、葵はゆっくりと咀嚼する。
「二体一対ってことは、きょうだいの中でも同時に生まれてくる双子を指していて、特に鳳凰が雌雄の対であるように、人間側も男女の双子が良い。そして僕らはその条件に当てはまる。ということはつまり……僕のきょうだいは女の子、ってこと?」
「然り」
「そう……なんだ。初めて知った」
考えてみればDNA鑑定なり何なりで性別を知る機会なんて幾らでもあったし、時折悩まされる症状も、本来であれば女性によく起こるとされるものだった。だというのに、今鳳凰に指摘されるまで葵の中でそれらの事実がすっぽりと抜け落ちていた。
「……僕は今まで本当に自分のことしか考えてなかったんだな」
はぁ、と大きな溜め息と共に、ごめんと見えないきょうだいに謝った。いいよ、と
葵は改めて鳳凰と向き直って尋ねる。
「もし契約しなかったら?」
「諸共死ぬ」
「じゃあ、契約する一択だ」
葵は
まだ死ねない、と強く思った。きょうだいが
強い意思の籠もった表情で葵は問いかけを続ける。
「さっき『ほぼ』満たしているって言ってたね。どうすれば完全に条件を満たせるの?」
「容易く、然し最も難しい事だ。今、もうひとりには名が無い。名が無ければ在っても無いと同じ。吾は呼べぬ。契りは交わせぬ」
「それじゃあ、彼女に名前があればいい、と」
「然り」
「貴方が名付けることは出来ない?」
「然り」
「僕が今名付けたら、問題ない?」
「然り」
「わかった」
この世に生を受けて初めて贈られる祝福が名前だと、昔祖母が言っていたことを思い出す。なら今、彼女に名前を贈ることこそが、葵からきょうだいへの、本当に初めての
――確かに、とても簡単で、とても難しい。
葵が贈った名前を、彼女はこれから先ずっと名乗ることになる。適当な名前をつけるのは簡単だけど、それはこうして救けを呼んでくれた彼女に恩を仇で返すことになる。そんな非道いことは出来ない。
何よりも契約とは関係なく、葵自身が心の底から
「……ひゅうが。日に向かうと書いて、
しばらく真剣に考え込んだ後、葵はそう告げた。
鳳凰が静かに尋ねる。
「其の
瘤にそっと手を当てて瞼を閉じ、すうと深呼吸をひとつ。開いた葵の瞳に宿る感情は、深いの山に在る陽だまりのように、ひどく穏やかであたたかく、優しい。
「僕にとって彼女は、太陽へ導く
淀みなく説明してから、葵は少し照れくさそうにはにかんでこうも続けた。
「それから、僕の名前と合わせると
どうかな、と頬を掻きつつきょうだいに問いかける。代わりに鳳凰が「承った」と厳かに返事をした。
「では深山葵、深山日向。吾、鳳凰と契り、此岸と異界の
「はい」
はっきりと力強い声で答える。重なるようにもうひとつの声が聞こえた気がして、思わず周囲を見ようとした葵を、真っ白な光が包みこむ。
光はすぐに消え、葵は元通り真っ暗な空間で鳳凰と対峙していた。けれど彼の隣にもうひとり、葵と瓜二つの姿形をした少女が立っていた。
「……あ」
君が、と葵が言うよりも先に、少女は
「うわぁ!?」
「よぉーーーやく会えたのう、葵! ずっとずっとちゃんと会って話したかったんじゃ!」
「僕も……って、えっ? 喋り方そうなるの!?」
「んん~鳳凰を通して顕現したからかの? なんか移った」
「移った!? 鳳凰って全然そういう喋り方じゃないよ!?」
「細かいことは気にするでない! それにこの喋り方って結構かわいいじゃろ?」
「ええ? うん、まあ……」
「お姉さん、って感じで!」
「日向が姉なの!? 逆じゃない!?」
「はぁ〜? 頼りない葵が兄とか無いじゃろ。そもそも双子なんじゃしどちらが上とか無いけど! 強いて言うなら
「なん……頼りないのはそうかもしれないけど……! というか妾で行くの!?」
「行く〜だってかわいいもん」
「えぇ……」
目を白黒させる葵と、うりうりと抱きつく日向が戯れることしばし。
「なんと一気に
と、鳳凰が心なしか保護者のような口ぶりでふたりの間に割って入った。はた、と葵と日向は同時に現在自分たちが置かれている状況を思い出す。
「そうだ、僕ら今怪物に襲われて死にかけてるんだよね?」
「然り」
「こ、これからどうすれば……?」
確かに鳳凰と何かが繋がっているような感覚はある。日向も姿を顕した。けれどそれ以外、葵も日向もこの空間に来る前と全く変わらない見た目で、かつて出会った衛士のような特別感は皆無だ。
「案ずることは無い。貴様らはただ目を開けば良い。さすれば自ずとわかる」
「目を開けばいいって、既に開いてるのに……?」
謎掛けのような鳳凰の言葉に戸惑う葵とは反対に、日向はよしと気合を入れている。不安げな視線を向ける葵の手を、彼女はきゅっと握った。
「だいじょーぶ! 妾が導く! 葵は妾にしっかり掴まってるんじゃぞ!」
自信たっぷりに言うので、葵は数秒きょとんとした後、力が抜けたように笑った。なんだか本当に大丈夫な気がしたのだ。
「わかった。日向に任せる」
ぎゅっと手を握り返すと、日向は嬉しいとばかりにとても眩しい笑顔を見せた。
ふたりは小川を飛び越えようとする幼子のように繋いだ手を大きく前後に振る。
「それじゃあ
揃って跳ぶと同時に周囲の景色が一変した。
ごうごうと唸る激しい風の中、葵の視界に飛び込んできたのは、上下逆さまの空と、地で蠢く棘と甲殻に包まれた、丸くて黒い、巨大な剣山のような不気味な生き物、それから傍らで宙を舞う
「と、飛んでる!? というか僕今どうなってるの!?」
叫んだ声は、確かに葵の声だったが、同時に小鳥の囀りでもあった。慌てて自身を見下ろすと、葵は鳳凰に似た色合いの、小さなひよことなっていた。必死で葵の体にしがみつきながピヨォッと叫ぶ。
「なんで!?」
「葵、煩い!」
葵から離れた、葵の体が一喝する。その姿は、かつて出逢った衛士のように派手な五色の布を纏い、頭には鳳凰の首に似せた被り物、腰からは幾つもの鳳凰の羽根が提げられ、猛禽類の足を模した靴が足元を飾り、背には五色の光で出来た鳳凰の翼が堂々と羽ばたいていた。
葵の体は翼を使って空を踊るように舞いつつ、時折怪物の隙を突いて急接近しながら甲殻と甲殻の境目に鋭い羽根を飛ばして攻撃している。
まるで自分とは思えない姿に、しばらくポカンと嘴を開いていた葵がようやく思い至る。
「日向!?」
「そうじゃ!」
大きな声で返事をしつつ、日向はとん、とん、と怪物の背を、棘を掻い潜りながら蹴るように跳ね、勢いよく再び宙へ舞い上がる。追うように怪物の体から幾つのも棘が射出される。まるで予測していたかのように日向は急回転で転身し、棘の波を躱す。追い付かれないように加速し、怪物との一定の距離を保つ螺旋を描きながら日向が叫ぶ。
「葵はアレが刺さって一回死んだ! 死んだ体を蘇らせる為に妾が入れ替わった! それが鳳凰の力! 以上! なんか質問ある!?」
「無いです!」
「じゃあ舌を噛まぬよう嘴を閉じて、ろ!」
言うと同時に再び怪物に接近した日向が、思い切り怪物を蹴り上げる。人の言葉で表せない耳障りな咆哮を上げながら怪物は仰け反り、裏側の柔らかそうな腹を晒した。
「ここ!」
間髪入れずに日向が鋭い蹴りを一発、二発、三発と高速で叩き込む。正確に一箇所に刻まれた攻撃は、一蹴りごとに怪物の表面をひっかくように僅かに削った。
「く……! かったいのぅ! まあ想定済みじゃが!」
四発目の蹴りの勢いを利用して日向が再び空中へと舞い上がる。その僅か数瞬後、日向が居た場所を針の群れが薙いだ。
「あんまり長引くと葵の体が持たんな! 一応病み上がりならぬ黄泉上がりじゃし!」
「死にかけてるのは変わりないんだ!?」
「当たり前じゃろ! 妾が居たから辛うじて何とかなっただけで世の中そう都合良くなんでもホイホイいくワケないわ、たわけ!」
「たわけは余計! 今の僕に何か出来ることは!?」
「アイツをよく見てなんか効きそうな案出し!」
「わかった!」
葵は返事と共に小さな翼を懸命に動かし、日向の肩から頭の上へと移動した。肩よりもはるかに敵の姿がハッキリと見える。巨大だと思った怪物は、森の木々より少し大きいくらいだ。海胆というより丸まったヤスデに近いのか、うぞうぞと蠢く甲殻と甲殻の間に、腹よりも柔らかそうな肉が覗いている。
「甲殻の隙間はさっき狙ってたよね?」
「おう! 節のある生き物は大体節の隙間が弱点じゃからの! こっちの道理が通れば、じゃが!」
実際は先程の攻撃はあまり効いていないように見えた。日向もそう考えたから蹴り上げて裏側を狙ったのだろう。
けれど、と葵はひたすら考えを巡らす。
物理的な攻撃だけが鳳凰の力じゃないはずだ。自分の体に集中して自分が得た力を探る。遠くで鳳凰の鳴く声が聞こえ、頭が自然とその意味を理解する。
鳳凰が持つふたつの異なる力。二体一対。
バッと葵は顔を上げて日向に声を掛ける。
「試してみたいことがある!」
「なんじゃ!?」
「節の隙間からアイツを焼く! 多分今の僕らには出来る!」
「確かに炎を繰ることは出来るようじゃが、正確に狙わないと周りが焼けるぞ!」
「……!」
はっと葵はつぶらな瞳を大きく開く。少し口が悪くて強引な日向が、周辺の被害を気にすると露とも思っていなかったのだ。
「だって当たり前じゃろ!」葵の心を見透かしたのかのように日向が叫ぶ。「ここは葵が見せてくれた素晴らしい場所じゃ! 怪物と共に焼き払うなど論外!」
――僕の想い、ちゃんと伝わってたんだ。
思いがけず潤んだ瞳から涙が零れ落ちないよう、ぎゅうっと強く瞼も嘴も閉じて、感動を堪える。閉じていたのは1秒にも満たない間だけだった。
「大丈夫。僕が周囲に被害を出さないように結界を張る」
「はぁ!?」
「多分出来る。それが鳳凰のもうひとつの力だから」
同時に扱うことが出来ない、火炎の猛攻と絶対なる防御。僅かなズレも赦されない、阿吽の呼吸が不可欠の方法。
――確かに、誰にでも出来ることじゃない。
例え一卵性の双子だったとしても難しいだろう。
でも生まれたときから片時と離れなかった僕らなら。
葵の声は確信に満ちて落ち着き払っていた。静かで穏やかにすら感じる声音に、日向も自然と出来ると確信した。
「……その愛らしい姿のままでイケるのか?」
「流石にそれは無理、かな。でも、日向はもうわかってるでしょ。どうやって
「――転変、か……」
「うん。単なる意識の交代じゃなくて、実体と虚体の位置を入れ替える"
「でも葵、タイミングを見誤れば今度こそ死ぬぞ」
確かめる声は、しかし少しも震えてなくて、躊躇いではなく覚悟を問うていた。葵はしっかりと頷く。
「やれるかどうかじゃなくて、やる。じゃなきゃどの道死ぬんだから。僕はまだ死にたくないし、日向、君を死なせるつもりもない」
「けぇ〜ひよこのクセにかっこいいこと言いおって」
茶化すような言葉は、からかいではなく喜びに満ちていた。相変わらず続いてる棘の波をジグザグと縫うように避け、合間に一度、中空でばさりと姿勢を整える。
「やるか」
「やろう」
示し合わせなくても揃った言葉をその場に残し、葵と日向は頭から真っ直ぐに怪物へ突っ込む。当然、怪物が棘で迎撃する。これまで波状で飛ばしていたものとは異なり、攻撃と攻撃の間がやや空いているものの、一つひとつ的確に二人を目掛けて飛んでくる。日向は体を僅かに捻り、ギリギリ当たらないように棘を躱す。突っ込む速度は、落とさない。
くるくると回転する日向の頭が地の方を向いた瞬間。
「今!」
「転!」
ふたりが同時に叫ぶ。
途端に日向の居た位置にひよこが、ひよこの居た位置に人型が現れる。
間髪入れずにひよこは上空に向かって飛び上がり、人型はやや下に離れる。間を針が貫いた。
人型の表情は、先程までの厳しくもどこか愛らしさがあったものと打って変わって、鋭く怜悧で、精悍ささえ窺える顔つきになっている。
「掛けまくも畏き
人型は――葵はぶつぶつと小さな声で、しかしハッキリと早口で祝詞を唱える。
「……守り給えと
胸の前で両腕を十字に構える。握りしめた拳の指身の隙間に、白く輝く羽根が幾つも顕れる。
「我、線を引き界を分かち、彼の異形を内に縫い留めん!」
いざ、という掛け声と同時に両腕を振り抜く。鋭く飛ばされた白い羽根が、怪物の周囲に正円を作り出す。間髪入れずに続けざまに叫ぶ。
「
どん!
と大きな地鳴り共に真っ白で清らかな光が、羽根の描いた円の内側に迸る。怪物は仰け反り、暴れ、円の外へ出ようとするものの、光に弾かれて押し戻された。
混乱している隙を突いて、初めに日向がやったように葵は鋭い羽根を節の間に次々と突き刺す。
一転して急上昇しながら葵が叫ぶ。
「変!」
同時に葵の姿が再びひよこに、急降下するひよこの姿が葵によく似た少女の姿に変わる。
「我、界の内を
鳳凰が大きく息を吸い込むように日向は全身を力強く仰け反らせ、投げつけるように前のめる。
巨大な炎の渦が日向から発せられた。炎は結界の内側に満ち、怪物を飲み込む。まるで釜に閉じ込められたように炎が怪物を焼く。初めは炎を弾いているように見えたものの、葵が突き刺した羽根が怪物の内側に炎を引き込んでいく。
内側に入ってしまえば、今度は怪物自身の硬い甲殻が炎を外に逃さなかった。中から炎に焼かれていく怪物は悶え暴れて抗うように棘を飛ばす。そのどれもが結界に当たってぼとぼとと力なく地に落ちた。
やがて怪物は一際大きな叫び声を上げると、ぐずぐずと地に崩れ落ちた。同時に炎と結界が消える。
空中で羽ばたきながら様子を見守っていた日向と、彼女の頭の上にしがみついているひよこ姿の葵が、ぶはぁっと同時に詰めていた息を吐きだした。
「……倒した?」
「……っぽい」
そうか、と日向は呟くと、その体がふらりと揺らめいて地に落ちる。同時にひよこの姿が葵に変化した。
地に叩きつける寸前でなんとか体勢を立て直し、葵はヘタリと座り込んだ。
「……かなり、無茶したもんね」
気遣う葵自身の声も、疲労と緊張で震えていた。俯けば、ばさりという音と共に元の姿に戻る。同時に体のあちこちが痛みだし、葵もその場で気を失ってしまいたかった。
だから、倒したはずの怪物が微かに震え、葵に向かって棘を飛ばしたことに気付くのが遅れた。
死が真っ直ぐに葵を貫く。
直前で。
「――唸り轟け遠雷!」
爆音と共に雷鎚が棘を打ち付ける。
視界を焼くような閃光に目を眩ませた葵は、辛うじて人影が自分の前に降り立ったのがわかった。
白飛びした視界が徐々に戻って来ると、自分と同じくらいの年頃と思わしき少年の背が見えた。しゅう、と土煙の中に佇む少年の背は、葵よりも遥かに逞しい。ツーブロックの髪は長い部分が緑、刈り上げた部分が黄色に分かれ、吹き荒れる風の中で揺らめいている。
「あっぶねぇ! 大丈夫か!?」
少年が勢いよく振り向いて葵に声を掛ける。
――助けてくれたんだ……
そう思うより先に葵の意識も途絶えた。
***
「……う」
見知らぬ天井。規則正しくピッピッと鳴る機械音。左腕の違和感はどうも点滴が打たれているせいらしい。
葵が目を覚ました場所は、どう見ても病室だ。
重く鈍い思考でぼんやりと状況を整理しようとする。
――怪物を倒した後、どうなったんだっけ……
「お、目を覚ましたみてぇだな!」
葵が答えを出すよりも先に、元気な声が聞こえた。
ひょっこりと葵の顔を覗き込んだ声の主は、葵が意識を失う直前に助けてくれた少年だった。左右でやや色味の異なる緑色の瞳は、どちらも無邪気に葵の回復を喜んでいるのが初対面でもよく伝わってくるほどわかりやすく少年の表情を映している。
「よく見たらお前、オレと同い年っぽいな? ホント間に合って良かったぜ!」
オレと同じくらいの歳のヤツはキチョーだからな、と少年は葵を置いて心底嬉しそうに笑っている。葵は、まるで散歩する柴犬のようだ、と思った。ブンブンと揺れる尻尾さえ見えるような。
「……え、と……」
その朗らかでウキウキな気ままさに、葵は完全に声をかけるタイミングを見失ってしまった。邪魔するのは悪いような、かといって現状は知りたいし、どうしたものかと迷っていると、カツカツと床を鳴らすヒールの音が聞こえた。
「病室だぞ、もっと静かに出来んのか、馬鹿ヒビト」
呆れて不機嫌そうな女性の声が近付いてくる。目を向けると、背が高くまるで彫像のように美しい女性が、その美しさに反する顔の顰め方をしたまま歩き寄ってくる姿が見えた。
「バカはよけーだっつーの! 誰だって歳の近いヤツに会ったらうれしーモンだろ!?」
「自己紹介はしたのか?」
「いや?」
「なら同世代だろうと不審者だろうが。勝手に一人で盛り上がるんじゃない」
「んぐぐ……」
女性の正論に言い返す言葉が見付からないのか、少年は不満そうな顔で黙り込んだ。ふん、と女性は鼻を鳴らすと、ポカンとしたまま寝転がっている葵の方を向いた。血のように鮮やかな緋色の瞳が、葵を捉える。
「驚かせてすまない。私は
奏は名乗ると艶然と微笑む。安心よりも美しさに見惚れる笑顔だった。
「……あ、えっと、深山葵です。よろしくお願いします」
「うむ、意識はしっかりしているようだな。この馬鹿がキミごと雷で撃ったときは流石に肝が冷えたものだが、まずは一安心だな」
奏は言いながらベッドの横にある椅子に脚を組んで座る。スラックス越しでもわかるスラリとした脚は、年頃の葵の目を否応なく惹きつけた。心なしか「葵も馬鹿」という日向の声が聞こえた気がして、葵は慌てて視線を背けた。
そういえば、
「しょうがねぇだろ! マジで間に合わないとこだったんだからよ! コイツも衛士っぽかったし!」
「だとしても直前に"神降ろし"が解けていたのは、お前にも見えていただろう。いくら衛士が神と契りを交わして通常よりも頑丈な体になっているとはいえ、"神降ろし"も解けるような弱った状態なら命に関わるだろうが。少しは考えろ、馬鹿」
「バカバカ言うなバカ! バカって言う方がバカなんだバカナデ!」
「おーおー勢いの良いブーメランだな。流石駄犬。キャンキャンひとりで投げてひとりでキャッチするのが上手い」
「うるせー!」
「あのぉ……」
再び置いてけぼりになりそうになり、葵はそっと声を上げた。奏が「おっと」と視線を葵に戻す。
「見苦しい姿を見せたな」
「いえ……」
なんと言えばいいのかわからないと困惑する葵を見て、奏は苦笑し肩をすくめた。
「結論から言えば、アイツの言う通り。キミは
「……はぁ」
「聞き慣れない言葉ばかりだろう? 戸惑うのも無理はないさ」
一発で理解できるヤツはそれはそれでヤバいと、奏は続ける。
「キミは今安全なところで治療を受けている、ということだけ分かればいい。信じられないなら私の名を懸けよう」
ほれ、と、奏がどこからか出した名刺を葵の目の前に掲げる。名刺にはお洒落な書体で「ピアニスト
「曲澤……って3年前16歳にして世界的に有名で伝統のある音楽賞を受賞して鮮烈なデビューを飾った天才ピアニストの曲澤奏!?」
「おや、知っていたかね?」
「はい! ニュースにも取り上げられて相当話題になっていたので。当時は怪物関連の暗い話ばかりだったから久しぶりの明るいニュースに、おばあちゃんがとてもはしゃいでたのを覚えています。今でも曲澤さんが演奏に参加したオーケストラのCDを発売日に買って聴いてるくらいで」
「なんとまあ、ありがたい。キミの御祖母はとても素敵な方なのだな」
まあ私の実力はまだまだこれからなんだが、と得意気と感慨深げの入り交じった声で奏がしみじみと溜め息を吐く。ケッという少年の舌打ちが聞こえた。
「コイツのピアノのどこが良いんだか」
「ふん、音楽とも呼べない騒音を好むお前には一生私の演奏の素晴らしさを理解できまい。いっそ哀れですらあるな」
「なんだと!?」
「まあまあ二人とも落ち着いて!」
またしても言い争いになりそうな様子に、葵が思わず割って入る。睨み合ったまま口を閉ざした二人に辟易しつつ、葵はなんとか半身を起こして少年の方を向いた。
「貴方が助けてくれたんですよね。ありがとうございます」
深々と頭を下げた葵に、少年は慌てて手と首をブンブンと振った。
「そんな丁寧にしなくていい! あと敬語もナシ! 同年代にそんな態度されたらなんかすげームズムズする!」
「そうかな?」
「そうだ!」
「じゃあ、お言葉に甘えて。ありがとう」
なんだか微笑ましいな、と思いながら葵が礼を述べると、少年はニカッと笑って「おうよ!」と威勢のいい返事をした。
「良かったら、名前を教えてもらっていい? 僕は深山葵なんだけど」
「もちろん! オレは橘
「わ、本当に同い年なんだ。じゃあ下の名前で呼んでも良い?」
「ああ! オレもお前のコト、アオって呼ぶからな!」
「ふふ、改めてよろしくね、響人くん」
「よろしく!」
葵が差し出した手を、響人がガッチリと力強く握った。
――まだ状況が飲み込みきれてないけど、同い年の子が居るのは心強いな。
しっかりと響人の手を握り返しながら、葵はようやく自分が安堵していることに気付く。いくら説明を受けても無意識に緊張していたのだと改めて実感した。
相変わらず姿の見えない日向を心配しつつ、地に足がついた心地に表情を緩めていると、響人がそれにしても、と首を傾げた。
「お前、あおいって名前なのに髪の色は全然違うし変わってんだな」
「葵は植物の名前だからともかく、そんなに珍しい色かな?」
「おう。なんつーか……ろうそくの火みたいだ」
「え?」
今度は葵が首を傾げる番だった。
――確かに薄めだけど、僕の髪は茶色でそんなに珍しいわけじゃないと思うんだけどな……?
揃って首を傾げていると、様子を見守っていた奏がやれやれと溜め息をついた。
「葵はまだ目覚めたばかりで、今の自分の姿を見ていないのだろう。待っていな、今鏡を出してやろう」
と、奏は再びどこかから手鏡を取り出して葵に差し出した。言われるままに鏡を覗き込んだ葵は「え!?」と素っ頓狂な声を上げた。
鏡に映る顔は変わらない。
けれど髪は全く違う色に変化していた。
夕暮れ始めた空を思わせるような橙色で、毛先に行くほど黄色く、グラデーションになっている。響人がろうそくと言ったのも頷ける色合いだ。
「神響の衛士は、契約したモノの影響が見た目や性格になどに出ることも多くてな。キミの場合はそれが髪に出たんだろう」
「そう……なんですね」
ただただ感心して葵は毛先をくるくると弄る。少し赤みが強いけれど、向日葵を思わせるような色合いで、葵はすぐに気に入った。
「二人とも色々ありがとうございます!」
ぱっと顔を輝かせた葵に、奏と響人は一瞬顔を見合わせると、どちらともなく笑った。
「なーに、私はほんの少ししか説明していないよ。後から専門家が嫌になるほど丁寧にみっちりと教えてくれるから、覚悟しておくことだね」
「アイツらの話、マジで長くてかったりぃぞ〜」
「わぁ……教えてくれてありがとう。心構えくらいはしておくよ」
「終わったら色々話そうぜ! こんナカ案内するのもいいな! けっこー色々あるんだぜ!」
「はいはい、そこまでだヒビト。葵は病み上がりなんだからそろそろお暇しよう。なぁに退屈はしないさ。噂をすれば何とやら。早速専門家の連中がやって来たみたいだ」
「マジか! んじゃアオ、またな!」
「うん、また後で!」
ドタドタ。
カツカツ。
賑やかな足音が去っていくと、室内は急に静かになった。
「……日向?」
そっと声をかけてみるものの返事はなかった。ただ間違いなく気配は感じるので、葵もそれ以上不安になったりしなかった。再び横になり、目を閉じる。
――これからのこと、一緒に考えよう、日向。ふたりなら大丈夫、だよね。
――もちろんじゃ!
威勢の良い返事が、葵の耳に確かに聞こえた。
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