第18話 一人
帰宅。
一人になると、思うことは、考えることはミシハセのことと、それにリサのことばかりだった。テレビもラジオもじっとして視聴できずにいた。食事は室内でした。外のどこかの店内だと、女性客がいればその一挙手一投足、すなわち箸の持ち方、口への運び方、咀嚼の仕方、唇についたソースの舐め方、拭い方、そんなあれこれがすべてリサと比較されて、自分が注文したものを味わうことなんてできなくなっていた。
夕食を終え、パソコンを操作していた。残業と言えば残業だし、かといって満足と集中して取り組んでいるわけではなかった。ネットで検索していた。ニュースか何かを見るためではない。政治や芸能や、スポーツのそれなんてのは雑音でしかなく、耐えられなかった。一通り検索しても、以前見たことのあるものばかりで、小一時間ほどで席を立った。
お茶を淹れて、チェアに座る。一口啜ってマグカップを置いた瞬間にさえ、あさましいほどに夢のようなあの夜が思い起こされてくる。夢ならば忘れられる、時間とともに。すぐにではないかもしれないが、夢という記憶は薄らいでいく。けれど、リサとの夜はビデオテープではなくブルーレイの再生であるかのように、ちっとも色あせない。この時ばかりは時間はアナログからデジタルに変換されてしまっていた。視覚ばかりではないのだ。リサの吐息を聞いた聴覚、その息をかぎ取った臭覚も明晰だったし、何よりも全身の触覚は鋭敏なままだった。
思い出したように、出張に使っていたクリアファイルと取り出した。一センチ弱の厚さになった書類の束の中から、小さなダブルクリップで閉じられた書類を出した。線を引き、メモを書き込んだ『桜の森の満開の下』だった。一枚ずつめくっていく。作屋守は速読の心得はない。けれど、今彼は上下に結構な速度で目を動かしていた。まるで波のような動きで、本文をたどって行く。また、両眼は微々に左右に揺れた。自らが示したメモを読み直していたのだ。作中の登場人物を自分とリサとに比較してみた。それは意識的にではない。文化祭の劇の上演ではないか、それくらいにしかあてはまらない。まるで違っていたからだ。比較自体が到底かなうことではなかった。
(それなのに、どうしてそんなことを思ったのか)
作屋守は当惑してしまった。けれども、それがかえって冷静にさせてくれた。リサとの時間は例えようはないのだ。抱く、抱かれると表現してしまうと、そこには主体と客体が位相の違いを隔絶としているように感じられた。どこか暴力的な影が感じられた。ところがまぐはふとか、体を重ねると表現すると位相の差などなく主体が平衡としているように感じられた。愛撫はあれと同じと思った。プリントアウトした『桜の森の満開の下』に線や文字なんかを書き込んで行ったあの行為と。
読んでいると、話しの終盤、その一節が何度も頭に浮かんだ、耳の側で誰かがささやいた。「女が鬼であることを」。リフレインし、とめどもなく繰り返された。
冷笑した換喩をまた告げてしまった。彼女は鬼なのだろうか、いや彼女はミシハセなのだろうか。鬼というならば、鬼婆か。いや、そんな昔話とか絵本とかに描かれているような白髪を乱して、包丁を持っている醜悪な人相ではない。
それならば魔女か。女なのだから。黒いローブを纏ってフードを被った、ひどい鷲鼻の、でかい壺で気色悪い色のスープを掻きまわしている魔女。いや、違う。雪女。してみれば冷たくはない。もう冷笑はしなかった。
天然痘が流行した当時、それは鬼のせいだと思われていたと言う。まじないをして快癒を待ち望んだという。これもミシハセのこと、鬼のことが気になってなければ、頭に残らなかった情報だ。BSだったかの何かの番組をつけっぱなしにしていてまったく見聞きしてなかったのに、これだけは見入ってしまった。歴史の情報番組だったろう。それならば、と。まじないでもしたら、この記憶も好奇心もなくしてしまえるのだろうか。それは治癒、快癒となる。本当か。心の動きがなくなることが治療なのだろうか。
いやいや、と作屋守は作品を紹介してくれたリサの事を思い出した。本文を読んだ後の感想の事を思い出した。彼女はリサなのだ。鬼でもミシハセでもない、それを反芻した。
ところで、風呂から出ていたリサの顔は当然化粧がなかった。
それを思い出して、作屋守は思いついたことがある。鬼の姿、というのはミシハセが化粧をして、コスプレをした姿ではなかったか。そうであるならば自同律が成り立ってもおかしくはない。現代でないからファッショナブルではないと考える方が無粋だ。例えば、である。以前、縄文時代を紹介する文面と言うのは、狩猟採集、食料の確保が大変、移住なんかであった。ところが今や計画的な栽培、それによる食料の確保による豊富な食生活、竪穴住居の定住になっている。人は、今を生きると言うが良い意味よりも悪い意味で確かに人は今を美徳と化して過去は今よりも貧相で憐れむべき時代とでも言いがちなのだろうか。また、同時に批判的精神によって同じように過去を見ながら、それを現在に生かすため叡智をつくす、というのもまた人のありようと言える。こんな所にも人の二面性を感じられて仕方ない。つまりはどれだけ思慮を尽くして多角的に思考できるかという話である。
「思慮深く多角的に」
作屋守は思いつきながら、すでに猛省する勢いでつぶやいた。そして、閃いてしまった。鬼がミシハセに化けているかもしれない。そんな思い付きが浮かんでしまったら、山姥も同じじゃないかとさえ展開してしまう。本地垂迹説か逆本地垂迹説か、いずれにせよ本体がどちらかしれなくなってしまう。ゲームでもそうだ。アバターを作って没入しなりきってしまったら、現実の個性がおぼつかなくなってしまう。オンラインゲーム上のキャラがお前だと言われ、しかも断定されてしまったら、と思うと作屋守は自分が消えてしまう気がしてくる。ミシハセが、鬼が違うと誰が言えるだろうか。科学論文はもう提出されているだろうか。ミシハセには、鬼には自意識がないと証明された、という内容の論文が。
「んなもん、ありゃしねえよな」
空寒い自嘲だった。こんなことを考えて、ほざくのも作屋守という人間の一面なのだと、自覚する。自覚できないでいた頃も自分の一面だ。
「ということはだ」
姿。装飾しても、衣装を着ても、それらをいくらでも変えたとしても、姿は呼称する姿であることに変わりはない。
「元に戻ってるし」
つまりは、ミシハセを知らない、という原点に変わりはない、ということである。
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