第3章 人造人間 Ⅰ
「──まったく酷い目にあったねぇ……」
翌朝、そう言ってホームズは大欠伸をした。
レストレード警部に怒鳴られてからというもの、二人は警察署でみっちりと事情聴取をされた。幸いこれまでの事件解決の功績と二人とも刃物を持っていなかったこともあり、殺人の容疑は晴れた。
しかしその後も切り裂きジャックのことについて、見聞きした全てを根掘り葉掘り聞かれたため、解放されてベイカー街のアパートに帰る頃には既に午前三時を回っていたのだった。
「流石に限界だ……」
「……寝るならベッドで寝ろ」
アパートに戻るなりソファに倒れ込むホームズを私室に押し込み、ワトソンも自分のベッドに横たわるとそのまま泥のように眠った。
それから10時頃になってようやく目を覚ました二人は、簡単な朝食と身支度を済ませて、また切り裂きジャックの消えた現場に向かったのである。
現場に向かう道すがら、昨晩のことを愚痴り続けるホームズにワトソンは苦言を
「酷い目にあったというが、半分くらいは君の責任だと思うぞ」
ホームズが舐め腐った態度を取らなければ、あれほど事情聴取がねちっこくなる事もなかっただろうに──とワトソンはジトッとした目でホームズを見やる。
ホームズは心外だと言わんばかりに唇を尖らせた。
「え~、君は私の助手だろ。そこは私の味方をしてくれよ」
「僕は探偵の助手であって、過保護な親じゃないんだ」
「むぅ…………げっ」
などと軽口を叩いている間に現場が見えてきて、ホームズは顔をしかめた。
袋小路の入口を警察が固めており、またレストレード警部が陣頭に立って指揮をしている。苛立った気配はあれど、レストレード警部に疲れた様子はない。
ホームズは閉口してまた愚痴る。
「本当に元気な人だな……さすがに今日は出てこないと思ったのに」
昨晩も遅くまで捜査の指揮を執り、二人の事情聴取までしていたというのに、既に陣頭に立っている──レストレード警部はいったいいつ寝ているのだろうか。
ホームズは仕方ないと気持ちを切り替え、にこやかに声をかけた。
「やあ警部、おはようございます」
「シャロン・ホームズ! 貴様、懲りずにまた出てきたのか‼」
ホームズが声をかけるなり、レストレード警部の目の険しさが三割増しになる。
「捜査の邪魔だ‼ 帰れ!」
「邪魔とは心外だなぁ、むしろ手伝おうとしているのに」
「ふん! 貴様の手伝いなんぞなくても、我々
それを聞いてホームズはニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべる。
「そうですか。昨晩から今まで捜索を続けていたようですが、その後何か進展はありましたか?」
「それは……」
レストレード警部は苦虫を嚙み潰したような顔で言い淀む。
「目ぼしい成果は挙げられていないようですね」
勝ち誇ったような顔のホームズに、レストレード警部はギリギリと歯噛みする。ワトソンはホームズがまた警部を不必要に怒らせないかハラハラしていた。
「少しこの袋小路を調べたいんですが、よろしいですね?」
「既にここは調べ尽くした。もう何の手がかりも出てこない」
「調べ尽くしたというのであれば、私がもう一度調べても問題ないはず。失礼します」
有無を言わさずホームズはずかずかと切り裂きジャックが消えた袋小路に踏み入った。三方を高い建物に囲まれた袋小路は、朝になっても日の光が届かず薄暗い。
ホームズは一度袋小路全体を見回してから、壁や地面について熱心に調べ始める。特に袋小路の奥を重点的に──何かあると確信しているかのように。
その様子を見てレストレード警部は鼻を鳴らす。
「今さら調べたところで何が分かるのか見ものだな」
「そうですねぇ……分かったことは色々ありますよ」
「何?」
レストレード警部はピクリと片眉を上げる。
「どうやって切り裂きジャックが消えたのか、そのカラクリが分かりました」
ホームズはあっさりとそう言うのだが、ワトソンにもホームズが何を発見したのか分からなかった。ホームズは意気揚々と鼻歌まじりに踵を返す。
「それでは行こうかワトソン君」
「ちょっと待て」
「何ですか警部」
「いったい何が分かったんだ。教えろ」
険しい警部の視線を受け、ホームズはニンマリと笑う。それを見てワトソンは察した。あれはホームズが良からぬことを考えている時の顔だ。
「そうですねぇ──私たちをこの事件の捜査に関わることを認めて、かつ警察の捜査情報をいただけるのでしたら、私が気付いたことを教えましょう」
「何ぃ?」
「嫌だと言うなら別にいいですよ。私たちが警部より先に切り裂きジャックを捕まえますので……」
「ぐ……!」
ギリギリとレストレード警部は歯を食いしばる。ホームズの物言いは警部には看過できないほどの屈辱的なものだった。
しかしホームズに勝手をされて切り裂きジャックを先に逮捕されるよりも、まだ管理下に置いて迅速に切り裂きジャックを逮捕するほうがまだ良いだろう──とレストレード警部は脳の血管が切れる寸前で、何とか怒りを押し殺す。
「いいだろう……お前たちの捜査介入を一時的に認めてやる」
「ありがとうございます、言質は取りましたよ」
勝ち誇った顔で言うホームズ。こういうところは実に憎たらしい。
レストレード警部は大きく咳払いをしてから、口を開いた。
「分かったことをサッサと話せ。出まかせを言っていたのなら承知せんぞ」
「それでは──」
と前置きをおいて、ホームズは思考を整理するように順を追って話し出す。
「まず昨夜のことを思い出してみよう。この袋小路に切り裂きジャックが入り煙幕弾を使った。そして煙幕が散った後に切り裂きジャックの姿が消えてしまった訳だが……当然ながら人が跡形もなく消えるわけがない。煙幕に紛れて逃げたはずだが、どこにどうやって逃げ出したか──まず普通にこの袋小路の入口から逃げ出した可能性」
ホームズはピンと指を一本立てて袋小路の入口を指さすが、即座にワトソンは否定した。
「それはないだろ。あの時、僕とホームズはあの入口の両側に立っていたんだ、あそこから切り裂きジャックが出てきて逃げたのなら、すぐにどちらかが気付いたはずだ」
「そうだね、だからこの可能性はない。では次に、考えられるのは壁をよじ登って、建物の屋根や屋上伝いに逃げた可能性」
「僕もそうじゃないかと思っている」
「我々もそう考えて、近くの屋根や屋上で痕跡がないか確認している」
今度は三方の壁を指さすホームズ。これにはワトソンもレストレード警部もうなずいた。
三方の壁には大小様々なパイプが葉脈のように張り巡らされており、手がかり足がかりは十分にある。この壁を伝って逃げるのは、多少体力のある人間なら十分可能であろう。
だがホームズはそれを言下に否定する。
「しかしこの可能性もない」
「何故だ?」
「壁のパイプを見てくれ」
ワトソンとレストレード警部は壁のパイプに目を凝らす。
「何処にも傷やへこみといった、何か力がかかった痕跡がないだろ?」
「そういえば……」
「昨夜私とワトソン君が対峙した切り裂きジャックは、両手両足ともに機械の大男だった。ということは重量も相当ある、少なくとも百キロは下るまい──なのに壁のパイプには傷一つない。という事は切り裂きジャックは、壁をよじ登ったのではないという事になる」
「脚の出力を上げて、一気に屋上までジャンプした可能性は?」
ワトソンは自分の足をチラリと見やる。ワトソンの機械義肢と同じように一時的に出力を上げることが出来れば、壁のパイプに足をかけることなく屋上まで行けるはずだ。
しかしホームズは首を振る。
「その可能性も、重量の観点から否定できる。もし百キロ以上重量のある人間が飛び上がったら、必ず物音がするはずだ。だけど昨夜、私たちはそれらしき物音を聞いていない」
ワトソンは昨夜のことを脳内で反芻する。
確かにそうだ。あの巨体が飛び上がった気配や物音をワトソンは聞いていない。
切り裂きジャックは、壁をよじ登ったわけでも屋根まで飛び上がったわけでもないし、煙に紛れて入口から逃げた訳でもない、という事になる。
「では奴はどこに消えたというんだ。もったいぶらずに言え」
痺れを切らしたレストレード警部が口を挟む。
警部、慌てないで──そう言ってホームズは袋小路の奥を指差した。
「入口から逃げた可能性も、三方の壁を越えて上に逃げた可能性も消えた──となると考えられるのは、何か隠された抜け道がある可能性だ」
「抜け道だと? そんなバカな──」
「あれを見てほしい」
レストレード警部が言い終わるより早く、ホームズが袋小路の奥。隅に設置されたひと際大きなパイプを指差す。
「さっき調べた時に気付いたんだが、地面に擦ったような跡がある。あのパイプは壁に張り付いてるだけの張りぼてだよ」
言うなりホームズは袋小路の奥、隅に設置された直径60センチはあろうかという大きなパイプに近付くと、おもむろに蹴った。
すると軽い音がしてパイプが壁面から外れる。その下には人ひとりが何とか通れるくらいの大きさの、地下へ通じる抜け穴があった。
見れば数メートル下に床があり、左右に地下道が伸びている。
「分かってしまえば拍子抜けだが、切り裂きジャック消失の仕掛けはこんな物だったんだよ」
「本当に拍子抜けしたな。こんな簡単な事だったなんて……」
ワトソンはポカンと口を開けた。
警部も呆気に取られている。
「だからこそさ。余りに単純すぎて、みんなここに抜け穴があるなんて発想を最初からないものと考えてしまう……だが不可能を除外していって最後に残った可能性こそが、如何に奇妙に思えたり単純に思えたとしても、それこそが往々にして真実であるものさ」
抜け穴を隠していたパイプをホームズはしげしげと観察する。
「それに抜け穴の隠し方も良かった。パイプを使うのは単純だけど効果的だよ」
「なるほど……」
ワトソンはそれを聞いて、この抜け穴がこれまで見つからなかった理由を察した。
蒸気機関が発達したロンドンでは、街中の至るところにパイプが通っており、どのパイプがどの家や施設に繋がっているか、キチンと把握している者はほとんどいないだろう。
そしてもし他人の家に繋がっているパイプを破損したりした場合、高い賠償金を吹っ掛けられる場合もある。だから基本的に、許可を取った専門の業者以外、パイプを調べたりいじったりする人間はいない。
ここを調査した警官も、パイプについては外装に痕跡がないか調べる程度で、あまり細かくは調べなかったのだろう。
それでこの抜け穴は今まで発見されなかったのだ。
「ともかく、これが切り裂きジャックの逃走経路です」
「よし! 早速警察犬を使って奴の追跡を────無理か……」
レストレード警部は勢い込んで指示を飛ばそうとしたが、すぐに断念してガックリと肩を落とす。
「なんで警察犬を使って追うのは無理なんだ?」
「犬による追跡は、対象が通ってから三時間を過ぎると成功率がガクッと下がるんだよ。今から匂いを辿るのは不可能だろうね」
ワトソンが首を傾げて耳打ちするとすぐにホームズが答えてくれた。
「昨夜どこかの警部に邪魔されなければ、私はすぐに切り裂きジャックを追えたんだけどねぇ~」
「ぐ……!」
聞こえよがしに呟かれるホームズの皮肉に、レストレード警部は青筋を立てて拳を握り締める。
いつかレストレード警部の血管が切れるのではないかとワトソンは心配になった。このままホームズの好きに話させるのはマズいと思い、ワトソンは話を進める。
「だけどそれじゃ、どうやって切り裂きジャックの足取りが追えばいいんだ?」
「やりようはあるよ。警部、この辺りの下水道工事を請け負った業者や役人を調べてください」
「業者や役人?」
思わぬホームズのセリフに、レストレード警部は怪訝な顔をした。ホームズは抜け穴から地下道を覗き込んで続ける。
「この切り裂きジャックの抜け穴と地下通路、今は使われていない廃棄された下水道を利用しているようです。となると切り裂きジャックはこの下水道の存在を知っている者に限られます。この下水道工事を請け負った業者や役人を調べれば、目ぼしい人物が浮かび上がってくるはずです」
「なるほど、早速調べさせよう」
部下に指示を飛ばすレストレード警部に、ホームズはにこやかに笑いかけた。
「分かったら私にも教えてください」
「どうして」
「警察の捜査情報をいだたけるなら私の推理を話すと、最初に言ったはずですが」
「……分かった」
渋い顔をして警部はうなずき、ワトソンは舌を巻いた。
こうなる事をホームズは分かっていたのだろう。下水道工事を行った業者や役人を調べるのは、民間人であるホームズとワトソンではとても手間がかかる。だからその手間を、警察に押し付けるつもりだったのだ。
(その為にさも切り裂きジャックの行方が分かっているかのように振舞って、警部から警察の捜査情報を引き出す言質を取ったのか……)
ホームズのやり口にワトソンはあんぐりと口を開ける。
「ん? どうかしたかいワトソン君」
「……もし君が探偵になっていなかったら、きっと腕の良い詐欺師になっていただろうなと思ってね」
「褒め言葉として受け取っておくよ」
ホームズは肩を
「さて、どんな人物が浮かび上がってくるか──紅茶でも飲みながら待つとしよう」
と言ってウィンクした。
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