第2章 切り裂きジャック Ⅳ

 切札の高出力状態を使うべきか否か、決めあぐねたワトソンは身構えたまま動けない。そんなワトソンを見て、すくんでいると思ったのだろう。


「もう来ないのか? それではこちらから──」


 と静かに間合いを詰める切り裂きジャック。ワトソンは冷や汗を流して身構えた。

 その時、


「こっちだ!」

「急げぇ‼」


 という叫び声と、大勢の足音が聞こえてくる。

 発砲音や切り裂きジャックとの戦闘の音を聞きつけて、パトロールをしていた警官たちが集まってきているらしい。

 数分としないうちに、何十人という警官が駆けつけるだろう。

 警官たちの気配を感じ取った切り裂きジャックは、「──チッ」と舌打ちをした。


「命拾いしたな」


 そう捨て台詞を残し、切り裂きジャックは踵を返して疾風のように走り去る。

 ワトソンは二、三秒呆気に取られて動けなかった。


「──追いかけるよ!」 


 隣で声がする。

 見れば吹き飛ばされたホームズが戻ってきていた。彼女は臆する様子もなく、切り裂きジャックを追って走り出す。ワトソンも呆けている場合ではない。慌ててホームズに続いて切り裂きジャックの後を追う。

 切り裂きジャックの足は速く、あっという間に長身瘦躯の影と二人の距離が開く。必死に追いかけているが、まるで追いつけない。


「クソッ、今足の出力を──」


 このままでは撒かれる。そう判断したワトソンは、両足の出力状態を切り替えるスイッチに手を伸ばす。

 高出力状態は諸刃の剣だが、このまま切り裂きジャックを見失うわけにもいかない。


「待って!」


 義足の出力を切り替えようとしたところで、ホームズが待ったをかける。


「どうして」

「あれを見てくれ」


 既に何十メートルも先を行く切り裂きジャックが、不意に横道に入る。それを見てホームズはほくそ笑んだ。


「切り裂きジャックの奴、この辺りの土地勘はないらしい。あの先は袋小路だ、奴に逃げ場はない。切札はまだ取っておきたまえ」

「……分かった」


 ワトソンがうなずく。ホームズは走りながら愛銃のシリンダーを解放し、手早く排莢と装填を済ませる。チャキリと音をさせてシリンダーを戻し、拳銃を構えるころにはすでに切り裂きジャックが入り込んだ袋小路の前まで来ていた。


 ホームズは油断なく拳銃を構え、ワトソンは何時でも高出力状態に入れるように準備してから袋小路に踏み入る。

 袋小路の奥で切り裂きジャックは幽鬼のように立っていた。

 ホームズは拳銃の撃鉄を起こして警告する。


「逃げ場はないぞ切り裂きジャック。じきここにも警官隊が駆けつける──観念しろ」


 しかし切り裂きジャックは慌てた様子をみせない。むしろ煽るように、


「観念しろ? 逃げ場がない? 本気でそう言っているのか?」


 と言って両腕を無造作に振る。

 何かの攻撃かと二人は身構えるが、攻撃ではなかった。切り裂きジャックが振るった両腕の袖から、ポロポロと小さな筒状の物が零れ落ちて地面に転がる。

 一瞬遅れて地面に転がったソレが破裂した──かと思えば朦々と煙が辺りに立ち込め、二人の視界を灰色の煙が塞ぐ。


「煙幕弾か……!」


 煙をわずかに吸ったワトソンが、鼻と目を押さえて下がる。


「吸うなホームズ! ただの煙幕弾じゃない‼ 催涙ガス入りだ!」


 二人は慌てて袋小路から大通りまで戻った。

 煙幕弾の煙は滞留性なのか中々晴れない。煙で隠された袋小路で、切り裂きジャックは一体何をするつもりなのだろうか。

 袋小路の入口の両サイドに立ち、ワトソンとホームズは通りから袋小路の中を伺う。


(この煙に紛れて逃げるつもりか……?)


 ワトソンは目と鼻の痛みを堪え、煙の中から切り裂きジャックが飛び出てくるのを待つ。ホームズも同じ考えだったようだ。銃を袋小路の奥に向けたまま、ジッと待っている。

 しかし切り裂きジャックは出てこない。

 少しずつ煙が薄れて袋小路の中がはっきりしてくる。だが──


「そんな⁉」


 ワトソンは目を疑った。

 袋小路の奥にいるはずの切り裂きジャックの姿が、跡形もなく消えてしまっていた。思わず袋小路に踏み入り右へ左へ視線を彷徨わせる。

 やはり切り裂きジャックの姿は影も形もない。


「信じ難い事だが──」


 続いて袋小路に踏み入ったホームズが苦々し気に呟く。


「──本当に消えてしまったようだね」

「僕たちは悪い夢でも見ていたのか、それとも妖精に化かされたのか……?」


 ワトソンは被りを振る。 

 どうしても目の前の光景が信じられない。


 さっきまで見ていた切り裂きジャックの姿が本当だったのか。ありもしない幻覚でも見ていたんじゃないかと疑心暗鬼になってくる。

 狼狽えるワトソンの隣で、ホームズは冷静に袋小路の隅々まで目を配っていた。


「現実だよ。だからこそ消えたのには何かトリックがあるはずだ、それを解き明かして──」


 そこまで言ったところでホームズの顔が歪む。心底面倒くさそうに。


「ああ……そういえば彼らの事を忘れていたな」


 ホームズが何のことを言っているのかはすぐに分かった。どたどたと足音を響かせて、ついに警官隊が到着したのだ。

 そして警官隊の陣頭指揮をしていたのは、二人のよく知る人物──レストレード警部だった。


 警部はナイフのように鋭い目つきで二人を睨んでいる。レストレード警部をよく知らない第三者がみたら、きっと警部を殺人犯と勘違いするのではないだろうか。


「騒ぎを聞きつけて来てみればお前たちか」


 そう言う警部の声はブリザードよりも冷たい。

 警部が激しい怒りを抱いていることは誰の目にも明らかだったが、しかしホームズには分かっていなかったようだ。


「こんばんは、警部」


 と嫌味なほど丁寧に礼をするホームズに、レストレード警部の眉間に浮き出た血管が一筋増える。


「ここに来る途中でバラバラになった死体を確認した──何があったのか、じっくりと聞こかせてもらおうか」

「それは構わないんだが、生憎と今私は忙しくてね。切り裂きジャックを追いかけなくちゃいけないんだ、後にしてくれるかい」

「シャロン・ホームズ‼」


 その余りにも警察を軽んじた──言い方を変えれば舐め腐った物言いに、レストレード警部の怒りは臨界点を越えた。

 もっと言い方があるだろうにとワトソンは頭を抱えるが遅かった。


「二人を容疑者として連行する! 署でたっぷりと話を聞かせてもらおうか‼」


 レストレード警部の怒鳴り声がロンドンの街にこだました──かくして切り裂きジャックは姿を晦まし、ワトソンとホームズの二人はロンドン警視庁に連行される羽目になったのであった。

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