第2章 切り裂きジャック Ⅲ

「……っ……‼」


 思わずワトソンは息を飲んだ。

 覚悟はしていた。想像もしていた。自分はこれから殺人鬼と対面する。現場にはバラバラになった死体がある、と。


 しかし想像と実物では全く違った。

 ワトソンの安い覚悟など容易く吹き飛ばすほど、実際の殺人現場は生々しくおどろおどろしかった。


 ワトソンはホームズと知り合ってから、何度か殺人犯や殺意を持った相手と対峙した経験がある。しかしこれまで出くわしてきた殺人犯たちと、その男は明らかに何かが違った。


 一人ふたりではなく、何人もの人間を殺し続けた者のみが放つ異様な気配を感じ取り、ついワトソンは息を飲んでしまったのである。

 路上にぶちまけられた女の死体を眺めていた大男は、ワトソンが飲み込んだ息に反応して振り返った。


(しまった……!) 


 ワトソンは己の迂闊さを恥じる。

 振り返った大男は二メートルに迫る長身だった。手足が不自然に細くて長い──まるで蜘蛛のような男だ。

 大きな背丈に合わせたロングコートを羽織り、顔にはペストマスクをしている。そのせいで表情が分からない。

 ペストマスクの瞳のレンズが、じっとこちらを見ていた。

 逃げ出す様子も見せない。これほど凄惨な殺人現場を見られたというのに……。


「何だお前たちは」


 ペストマスクの大男──切り裂きジャックは、くぐもった声で訊ねる。まるで出来損ないの蓄音機のようで不気味だった。しかしホームズは臆することなく返答を返す。


「私は探偵のシャロン・ホームズという。今世間を騒がせている連続殺人鬼、切り裂きジャックは君で間違いないかな」

「面白い女だな……如何にも」


 飄々とした態度を崩さないホームズが気に入ったのか、少しだけ切り裂きジャックのセリフが笑いを帯びる。


「ちょっと気になることがあってねぇ……切り裂きジャック、君の狙いはなんだい? 人をバラシて何をやっているのかな?」

「それを推理するのが探偵とやらの仕事じゃないのか?」

「君はとても優秀な殺人鬼だからね、残された手がかりだけではそこまで読み解けなかった。だから是非とも君の口からお教え願いたかったのだけどね」

「答えるわけがないだろう」

「だよねぇ……じゃあやはり君を拘束して、警察に引き渡してからゆっくりと尋問してもらうことにするよ」


 口調は緩いままなのだが、急激に緊張感が増していく。

 ホームズと切り裂きジャックの視線が交差して火花を散らす。まるで狼と獅子が睨み合い、互いの隙を伺っているかのようだ。


「お前に出来るのか、私を拘束することが」

「出来るとも」


 二人の間で何かが弾けた。

 ホームズが一瞬で懐から拳銃を取り出し、切り裂きジャックへ銃口を向ける。即座に発砲。

 切り裂きジャックは肩を撃ち抜かれて動きを止め──なかった。硬質な音がして銃弾が弾かれる。


「っ⁉ 機械義肢装着者クランカーか──!」

「遅い」


 二発目を撃つより早く、切り裂きジャックはホームズを間合いに収めていた。ダラリと下げていた左手が跳ね上がり、ホームズの持つ拳銃の銃口を逸らす。それと同時に振りかぶられた右腕が、弧を描いて振り下ろされる。

 切り裂きジャックの右腕、コートの袖から覗く指先には金属の鋭い爪がついていた。


「くっ!」


 反射的にホームズは後ろへ跳んだ。

 翻ったホームズのコートの裾が切り裂かれ、切り裂きジャックの打ち下ろしの一撃は地面へ叩きつけられる。まるで発破でもかけたかのような爆音がして、土が飛び散った──恐ろしいほどの破壊力だ。


 もし脳天に喰らったら確実に即死していただろう。

 さらに切り裂きジャックの攻撃は続く。跳び下がったホームズへ追撃の貫手。切り裂きジャックは腕も長ければ足も長い。ホームズが跳び下がったところで、そこは安全圏ではなかったのだ。


 ホームズの体勢は崩れており、切り裂きジャックの追撃を避けることは出来ない。一瞬先に迫る死の気配を前にして、しかしホームズは不敵に笑う。


「──なんの!」

「な⁉」


 なんとホームズは迫りくる切り裂きジャックの爪を、持っていた拳銃のグリップ──その底面で受けた。直径五センチにも満たない極小の楕円で、高速で振るわれる爪の先端、その一点を受け止めたのである。


 さすがに衝撃までは逃がせなかったようで、軽量のホームズは大きく吹き飛ばされるが、それでも致命の隙を逃れる手腕は驚嘆に値すると言っていいだろう。


「あんな手で私の爪から逃れるとは……存外に器用な女だな」

「ホームズ‼ ──クソッ!」


 一人ごちる切り裂きジャックに今度はワトソンが向かっていく。

 逃げることは考えなかった。どの道切り裂きジャックはワトソンの事も間合いに収めている。今背を向けて逃げ出すことは、無防備な背面をさらす事と同義だ。

 最終的に逃げるにしろ、まずは切り裂きジャックにダメージを与え、逃げる隙を作らなければならない。


「向かってくるか、面白い」


 切り裂きジャックは横薙ぎに腕を振るう。切り裂きジャックの腕は金属製の機械義肢だ。肉薄するワトソンに向けて振るわれるそれは、鉄パイプを高速で振り回しているようなもの──否、それ以上か。


 腕や胴に喰らえば骨折。頭部に喰らえば即死級のダメージを負うだろう。

 ワトソンは切り裂きジャックの攻撃を、一気に体勢を低くして躱す。頭頂部の髪が数本、切り裂きジャックの攻撃が掠って散った。


 紙一重で切り裂きジャックの攻撃を避けたワトソンは、低い姿勢のまま下段回し蹴りを繰り出した。ワトソンの義足による蹴りは、常人を遥かに凌駕する威力がある。全力で蹴れば骨が折れるか膝が抜けるはずだ。


 足さえ潰せば隙ができる──というワトソンの考えは淡く消えた。

 重々しい金属音が響き、ワトソンの蹴りが弾かれる。切り裂きジャックはワトソンの蹴りを足に喰らっても、多少バランスを崩す程度でピンピンしていた。


 常人であれば一発で立てなくなる程の威力のはずなのに、である。この頑強さは単純な肉体鍛錬では説明が付かない。

 つまり──


「脚も機械義肢なのか⁉」


 ワトソンは目を見開いた。

 裏社会の人間でも四肢を全て機械にしている人間は滅多にいない。身体の大部分を機械に置き換えるのは、まだまだ心理的に抵抗感があるからだ。どうやら切り裂きジャックはその手の抵抗感がない、頭のネジが何本か外れた人間のようである。


 とにかく目論見が完全に外れた形だ。となるとワトソンの低い姿勢は隙をさらすだけでしかない。

 慌ててワトソンは全力で地面を蹴り、切り裂きジャックから離れる。幸いホームズとは脚力が違う。一気に8メートル以上──さすがの切り裂きジャックでも一歩では攻撃が届かないであろう安全圏まで距離を取った。


「お前も足は機械義肢か。ゴキブリなみの逃げ足の速さだな」


 切り裂きジャックはそう揶揄するが、それに言い返す余裕もない。

 ワトソンは肩で息をしていた。僅か一合打ち合っただけ──しかし本物の殺人鬼、しかも両手両足が機械義肢の男と戦うプレッシャーは並みの犯罪者の比ではない。

 一秒──否、一瞬ごとに神経がゴッソリとすり減っていくような感覚をワトソンは覚えた。


(普通に戦ったら負けるな……高出力状態に切り替えて勝負に出るか──)


 義足の出力を一時的に上げ、通常時の何倍もの脚力を発揮する高出力状態がワトソンの切札であるが、しかし無制限に切れるカードではない。

 あくまでも出力が上がるのは一時的であり、一定時間を過ぎるとオーバーヒートを起こして義足が動かなくなるのである。


 もし義足の稼働限界以内に切り裂きジャックを倒せなければ、地面に這いつくばって隙を晒す──即ち死を意味する。

 切札とは切るべき場面で切らなければ意味がない。時間内に切り裂きジャックを倒せる公算がない現状で高出力状態になるのは、自暴自棄になっているのと同じだ。

 しかしこのまま戦って勝ち筋を見出せるかは分からない──ワトソンは焦った。

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