第2章 切り裂きジャック Ⅱ

 雲が月明かりさえ遮り、ガス灯の光が僅かに夜道を照らす──そんなロンドンの街をワトソンとホームズは歩いていた。


 切り裂きジャックに関する考察を流れるようにまくし立てるホームズに、ワトソンは途中からほとんど聞かずに適当な相槌を打っていたのだが、そのままホームズに連れ出されて夜のロンドンを歩く羽目になったのである。


「──それで僕らはどこに向かっているんだ?」

「私の割り出した切り裂きジャックの犯行予測ポイントだよ」

「もう犯行の予測がついているのか?」


 何気ないホームズの返事にワトソンは目を剥いた。


「切り裂きジャックそのものの予測じゃないよ」

「どういう事だ?」

「切り裂きジャックはロンドン警視庁の警戒を掻い潜って犯行に及んでいる。だからロンドン警視庁の警戒している場所以外を重点的に回ればいいんじゃないかと思ってね。今はロンドン警視庁が警戒しているであろう地点や時刻を外して、我々も夜のパトロールというわけさ」

「何でロンドン警視庁の警戒している場所が分かるんだ?」

「殺人鬼と違って警察は自分たちの動きをある程度公表しないといけないからね。その情報を元にして、大体警察が警戒していそうな所は分かるよ」


 事もなげに言うホームズに、ワトソンは舌を巻く。


「やはり君は優れた探偵だ」

「何を今更、分かり切ったことを」

「……そのセリフを真顔で言える図太さが、僕はちょっと羨ましいよ」


 呆れ顔のワトソン。しかし続けてホームズが、


「だからこそ、今回の事件は気を引き締めて当たらないとね──何しろ切り裂きジャックは、私に比肩する頭脳の持ち主だろうから」


 と言ったことで表情を固くする。


「……何だって?」

「だってそうだろ。私が警察の動きを読んで切り裂きジャックを追っているように、切り裂きジャックも警察の動きを読んでいる可能性がある──ということは、切り裂きジャックの頭脳は私と同等以上ということにならないかい?」


 ワトソンは押し黙る。

 想像してみる──というか以前想像したことがある。もしホームズが犯罪者だったなら、一体どれだけの大犯罪を成し遂げるだろうかと。国家転覆──とまでは行かなくても、街一つが地図から消えるような事件を起こすのではないだろうか。


「……」


 切り裂きジャックが強敵であることを改めて感じ、ワトソンは何も言えなくなってしまった。微かに身体が震える。


「──えい」

「ん?」


 ふいにホームズがワトソンの腕に自分の腕を絡ませた。


「何だよ急に」

「いや、ワトソン君が急に震えだしたのでね。暖めてあげようかと」

「いや別に寒くて震えてたわけじゃ」

「恥ずかしがらなくっていいんだよ」


 ホームズがニヤニヤと笑いながらワトソンに身体を寄せる。ワトソンの左腕にホームズが抱きついたような形だ。


「綺麗なお姉さんと出歩けて嬉しいだろ」

「からかうな」

「ちぇー」


 呆れたワトソンがホームズを引き剝がす。


(本気なのか、ふざけているのかよく分からない奴だ……)


 心なしか上機嫌のホームズにワトソンは首を捻る。殺人鬼を捕まえるために夜道を歩いているというのに、ホームズには恐怖や緊張の色はない。

 こういう時にワトソンは実感する、つくづくこのシャロン・ホームズという人物は常識の枠に収まらない人間なのだと。


「……切り裂きジャックの目的は何なんだろうね」


 不意にホームズは問いかけとも独り言ともとれる声でボソリと呟いた。


「切り裂きジャックの目的?」

「そう。彼はバラバラ殺人を繰り返して何をしたいんだろうね」

「そうだな……普通人殺しの目的と言えば、怨恨や金銭目的になるが」

「しかしこの事件の被害者は女性ということを除けば、年齢や出自に共通項はないし、皆貧しい階級の人間だ」


 つまり恨みや金欲しさに人を殺しているわけではない、という事になる。


「殺しそのものが目的の快楽殺人者というのは?」

「そう考えるのが自然だし、事実ロンドン警視庁もそう判断して捜査に当たっているけど……どうもそれだけには思えない」

「その根拠は?」

「バラバラにされた死体だよ」

「どこか気になるところが?」

「調書によれば、まるで腑分けでもされたように各部位の大事な器官を損なうことなく解体──というか解剖されていたらしい。人を殺すのが目的、殺すのが楽しくて仕方ないっていう快楽殺人者にしてはちょっと偏執的すぎないか?」

「言われて見れば……」


 連続バラバラ殺人という猟奇性や、警察への予告状という大胆さばかりに目がいっていたが、確かにいささかチグハグな気がする。


「じゃあホームズはどういう見解なんだ?」

「推理ではなく勘のようなものだが、何だかこれまでの殺人事件は賢い人間が馬鹿のフリをしているような……そんな芝居臭さを感じるんだ」

「芝居臭さ?」

「うん、殺人事件の裏に何か目的がある……というか目的の為に殺人を犯している。殺人は目的に達するための手段であり、それを派手な要素で誤魔化しているような──そんな気がする」


 ホームズにしては珍しい、歯切れの悪い物言いだった。さすがのホームズも、切り裂きジャックについて未だに計りかねているらしい。


「人殺しが手段か……人を解体して、いったい何がしたいんだか」


 具体的なことは何も分からないが、どうせろくでもない目的な事は想像に難くない。


「私の頭脳でもそれはまだ分からない……だから直接聞くとしよう」


 え? ──と聞き返す前に、ホームズがワトソンの口を塞いだ。すっと耳元に顔を寄せてささやく。


「(この先で何か物音がする。もしかしたら当たりを引いたかもしれない──気を引き締めてくれ)」


 ホームズのささやき声にワトソンは無言でうなずいた。

 先ほどよりも少し歩く速度を落とし、足音を殺しながら慎重に通りを進む。薄暗いロンドンの街並みを、一歩また一歩と慎重に歩みを進めた。


 もう少しで曲がり角に差し掛かる。そしてワトソンの耳にもその音が聞こえてきた。風の音に混じって聞こえてくる。


 ──びちゃびちゃっ

 ──ぽたぽた……


 血の滴る音だ。

 ワトソンの心臓は早鐘を打つ。血が逆流しているかのような感覚に身体が熱くなり、緊張で無性に口の中が乾いた。


 ホームズが少し先を行く。女であるホームズが行くのに、ワトソンが怯んで逃げ帰るわけにもいかない。無言でホームズの後に付いていく。

 曲がり角に出た。


 ホームズに続いて、そっと曲がり角の先を見る。

 するとそこにあったのは、バラバラにされた女の死体──そしてそれを眺める大きな男の背だった。

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