第2章 切り裂きジャック Ⅰ

 ロンドン大学の講義室で、ワトソンはすごい勢いでノートを写していた。

 何故かといえば、少しの間ホームズの仕事に付き合ってロンドンを離れており、その間に大学の講義を受けられなかったからである。


「ありがとうエミリー、助かったよ」


 ワトソンは写させて貰ったノートを、隣に座る女性に返した。


「どういたしまして」


 と笑うのは同期のエミリーだ。ややたれ目のいわゆる癒し系の顔立ち、小柄で守りたくなるような愛らしさがある。


 エミリーと出会ったのは、大学に入学してすぐの事だ。講義が終わった後の帰り道で、エミリーがガラの悪い男たちに絡まれていたのである。

 女である上に大学に進学するくらいだから金もある──良くない輩にとって、エミリーは格好の獲物だったのだろう。


 見かねたワトソンが助けに入り、それが切っ掛けで親しくなった。それ以降も絡まれ対策として、よく一緒に行動している。


「ワトソン君といると、変な人に声掛けられたりしないんだよね。ワトソン君強いし」


 という事らしい。

 まぁ乱闘になったその時、背後から襲ってきた男に咄嗟に後ろ蹴りを繰り出し、三メートルほど吹っ飛ばしたので、近隣の不良達にワトソンの強さは知れ渡っているだろう。

 絡まれ対策として、ワトソンは確かに打ってつけかもしれなかった。


「なんでワトソン君はそんなに強いの?」

「……父親が退役軍人で凄く男根主義マッチョな人でさ。男たるもの強くなきゃいかん、とか言って格闘技だったり体鍛えたり、色々やらされたんだよ……」


 脚のパワーに関しては機械義肢の義足のおかげだが、その義足を操る格闘技術は父親の教育によって培われたものだ。

 ワトソンとしては部屋で本を読んでいる方が好きだったので、父親の教育方針には色々苦労させられた。


「そんな人だから、大学に進学する時も説得するのが大変だったよ」

「私も大学に行かせてもらうのに苦労したな」


 まだまだ女性の大学進学は一般的ではなく、理解を得るのにエミリーも大変だったらしい。

 そういった共通点もあってか、ワトソンとエミリーは急速に親しくなった。


 同じ学科で講義が共通していることもあり、ワトソンも困った時にエミリーには助けてもらっている。

 移し終えたノートをエミリーに返しながら、改めてワトソンは礼を言う。


「お陰で何とかなりそうだ。いつもありがとうエミリー」

「私もワトソン君には教えてもらったりするから、全然気にしなくっていいよ」

「いや、一度ちゃんとお礼させてくれ。僕の下宿まで来てくれたら、紅茶くらい出すから」

「えっ……」


 ワトソンの申し出にエミリーの瞳が一瞬煌めく。


「でもいいの? 依頼もないのに『ホームズ探偵事務所』に行って」


 ワトソンが最近売り出し中の名探偵、シャロン・ホームズとルームシェアをしているのは、エミリーも知っていた。


「いいって、いいって。あそこはホームズの事務所と同時に僕の下宿なんだから、大学の同期が訊ねて来たって問題ないさ。普段僕がホームズに合わせているんだし、たまには僕の事情を優先しても大丈夫だよ」

「前々から気になってたんだけど……そもそもどうしてワトソン君は、ホームズさんとルームシェアしているの?」


 常日頃、ワトソンが平和主義者を自称し、トラブルや荒事を避けたいと口にしているのをエミリーは知っている。

 そんなワトソンが、なぜホームズの助手をしているのか疑問だった。


「生活費を押さえたくてルームシェア相手を探している時に、たまたまホームズと知り合って事件解決を手伝ったんだ。それからだね、彼女の助手兼ルームシェア相手になったのは……おかげで大分生活費は抑えられたし、助手としての給料も出るから、学費について悩まずに済んでいるよ」

「ああ、なるほど……」


 基本的に勉学に対して真面目なワトソンが、講義よりもホームズとの仕事を優先してロンドンを離れたのは、そういった事情があるからだったらしい。


「ねぇホームズさんってどんな人なの?」


 ワトソンがルームシェアをしている相手がどんな人物なのか、エミリーには興味があった。

 もしかして恋人だったりするのだろうか──エミリーは内心ドキドキしていたが、ワトソンの返答はそんな艶っぽいものではなかった。


「普段はハッキリ言ってダメ人間だな。無気力な社会不適合者という奴で、常識という物がまるでない」

「そんなに?」

「暇だからっていう理由でアパートの中で銃を撃って、弾痕で壁にイニシャルを刻みだすんだよ?」


 それを聞いてエミリーは何も言わなくなった。

 酒に酔ってコカインをキメようとした事もあったが、それを聞いたらエミリーが心配しそうなのでワトソンは話すのを止めた。


「それでも探偵としては一流──というか最早アレは謎解き狂いフリークだね。謎を解いたり、事件解決のために動いてる時だけは、とても生き生きしてるよ。面白そうな事件があれば、依頼されなくても自分から首を突っ込んで行くんだ……付き合わされる身としては本当に大変だよ」


 立て板に水のごとく引き出される、シャロン・ホームズの半分愚痴のような人物評をエミリーは呆気に取られて聞いていた。

 ここまで悪態をつくからには、少なくともワトソンからホームズに対して恋慕したりという事はないらしい。それが分かって、少しだけエミリーは胸をなでおろした。


「そう……良かった」

「何が?」

「あっ、いや別に⁉ こっちの話!」

「?」


 エミリーの言動が理解できず、ワトソンは首を傾げた。コホン──とエミリーは小さく咳払いをして話題を変える。


「なるほどね……それなら、今は切り裂きジャックを追っているのかな」

「……なんだいそれ?」


 エミリーの口から切り裂きなどという不穏な言葉がでてきたので、思わずワトソンは聞き返す。


「ワトソン君は知らないか。丁度、ワトソン君たちがロンドンを離れている間に起きた事件なんだけど、今この切り裂きジャックのことでロンドンの話題は持ち切りなんだよ」

「そんなに話題になってたのか。どんな事件なんだい?」

「被害者は女の人ばかりなんだけど、みんなバラバラに解体されちゃうの──しかも犯人の切り裂きジャックは、ロンドン警視庁に犯行予告も出してるみたい。当然、ロンドン警視庁も躍起になっているけど、それでも捕まらないの」

「それは──」


 ロンドンを震え上がらせる連続バラバラ殺人事件。

 しかもロンドン警視庁に犯行予告を送りつける大胆不敵さと、それでも捕まらない神出鬼没ぶり。

 ホームズが聞いたら狂喜乱舞するレベルの事件だろう。

 ワトソンの脳内で、イメージのホームズが「ひゃっほう!」と歓声を上げている。


「──しばらくちゃんと眠れなさそうだ」


 これから起こるであろう事を想像してワトソンはげんなりと呟く。

 そして彼の予想は見事に的中した。

 大学での講義を終えてアパートに戻ったワトソンを待ち構えていたものは、壁一面に張られた切り裂きジャックの事件に関する調書とそれらを結びつける幾何学的な線(恐らく原状回復のことなど何も考えられてはいまい)、そして異常に目をギラつかせたホームズだった。


「凄い事件が起きてるんだ! 今夜から捜査に行くよワトソン君‼」


 まるで宝の地図を見つけた少年のように目を輝かせるホームズに、ワトソンは盛大に溜息をついたのだった。

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