感性をボコボコにソテーしたら小説執筆とエロ漫画に狂った話

橘夏影

よくある話

 以下に記すのは、友人(仮名:K)の話です。

 なお、本人からは全面的な許可と「どうせなら大袈裟に書け」との指示も受けています。

 

 その友人は色々と事情があって、15年くらいかけて半ば無意識に感性と想像力を殴り殺してきました。

 でもまぁ、それは主に仕事のせいです。15年の中でも特に直近10年くらいの間の。あるあるですね。

 

 では感性と想像力を殴り殺すというはどういうことか?

 こういうのは小さいことの積み重ねです。

 悪い意味で「雨だれ石を穿つ」というか、まして感性なんてものは石の形容からは程遠い脆弱なもので、羊羹みたいなものですから。

 例えば、彼は入社時の交流会で趣味を訊かれます。

「書を嗜みます」

 そこで偉い人が口を開きます。

 何を言われるんだろう。いつからやってたかとか、どういうものを書くのかとか、どういうものが好きなのかとか、そういうことだろうか。

 そんな風に想像するわけです。

「アートか、いいね!いやぁ、俺も好きだよ?アート!いいよね!」

 いやあなたアートとか分からんでしょ、またまたぁ、口々にそんな風に言いながら周りの人間もニヤついている。

 彼はこう思います。

 言うんじゃなかったな――

 内容のチョイスが悪かったな――

 そもそも書なんてやってるのがイケてないんだ、企業戦士向きじゃない――と。

 彼はその後、何かの機会に会社のイベントで書で何か書いてくれと頼まれましたが無視しました。


 そんな風にして、彼はどんどんと、自分の感性や想像力なんてものは仕事の上では邪魔なものなんだなと思うようになりました。

 必要な想像力というのは、どうすれば気分屋のクライアントの機嫌を損ねないかを考えるために働かせるものであって、その結果顧客ファーストで現場がどんなシワ寄せを食らって疲弊し、人が辞めていくかを考えるために使うものではありませんでした。

 あるいは、そんな現場の人間や部下の心情を思いやるための感性は、邪魔なだけでした。

 そんな感性を持っている者は大局が見えておらず「目線が低い」のです。

 そうじゃないんだ、持っててもいい、でも持ち込むな。

 そう言われるかもしれません。

 でも、使わないものは錆びていくんです。

 鍵盤を弾く指や、搔きまわす肉の槍と同じに。

 

 客が売ろうとしているものはどんなに自分の感性に照らして糞であり塵であっても、仮にそれを客が自覚していたとしても、売るための手伝いをしなければならないのです。

 こんなものが、ユーザーにとってなんになるんだ?ほとんど詐欺じゃないか。

 そんな風に想像する想像力も、感性も邪魔なものです。

 持っていても苦しいだけです。

 

 生活の為、彼はそんな風に自分の為の感性と想像力を殺し続け、仕事のためのものに置き換えていきいます。

 組織に属するということは、たとえ人売り仕事でなくても、大なり小なり感性も想像力も売り物になるように作り変えていかなければならなかったのです。


 彼も分かってはいるんです。皆苦しい中で必死に闘い、その上に自分の生活だって成り立っていることは。

 剣道部だと思って入ったら、アメフト部だっただけなんです。

 営利活動において、エゴは悪ではない。

 それでも――彼にとっては、些か開き直りが過ぎるように見えた。

 

 ……まぁでも限界が来たんですよ、15年くらい経った頃に。

 もちろん、ポン!みたいな軽快で景気の良い音なんてなりませんよ。新京極を歩く観光客にまで聞こえたりしません。

 空気の抜けた安物のダッチワイフみたいに、へちゃっと地べたに汚らしく横たわったまま立てなくなっただけです。隣家の老婆にすら何も聞こえやしません。

 でも多分、それがきっかけだったんですね。

 アゴタ・クリストフ先生の『ふたりの証拠』の登場人物であるヴィクトールが、姉を殺すことではじめて、それまで一文字たりとも書けなかった小説が書けるようになったみたいに、私は感性を徹底的にブチ殺すことでようやく言葉が出るようになった。

 そうするとなんだか急に、それまで抑え込んでたものが一気に弾けたんです。それこそスポンジのように言葉を吸い、涎を垂らすように言葉を紡ぎたくなったわけです。

 

 ……そういえば、とある上司はよく部下を徹底的に詰めた後に、

 『いまのお前はスポンジだ!これからどんどん吸収できるぞ!』

 などとのたまっていたらしいことを思い出したので、スポンジの比喩はやめましょう。前言撤回。他人に勝手に穴をあけられて、そこから何かを吸わされるなんて蕁麻疹が出ますもんね。

 

 さて話を戻すと、私は教養というものにもかつては結構な嫌悪感を抱いていました。

 まぁ教養主義批判というのは一時期随分と流行ったので、いまさら私が何か語るべきことはないわけですが、それでも中学受験をするくらいの時分、自分にとっての文学も含めた教養は、他人を見下すための道具であり、自分という土にあげる水というよりは、いかめしい兵器と化した自分に注ぐガソリンみたいな代物に感じていました。

 こういう教養主義批判的なマインド自体は、それこそ教養主義の文脈で語られうるものです。要は、それすら教養主義の一種であって、特権階級男子による唯の「自分はどれだけ純粋か競争」の域を出ないものであると語ったのは高田里惠子氏(朝日新聞デジタル版 2025年4月4日掲載の記事より)。ただそんな言説すら、私にはどこか言葉遊びに感じられてしまいました。この言説を見たのが朝日新聞の有料記事なのがお察しですが、彼女によれば、いまや教養はボランティアや社会奉仕に置き換わり、その対義語は「立身出世」ではなく、コスパ・タイパなのではないかと言います。

 その意味では、私が中学高校時代を過ごした2000年前後というのは既にコスパ・タイパ的なムードが緩やかに始まっていて、私の教養主義批判的な姿勢などは独り相撲も良いところでした。みんな既に教養などというものにはほとんど興味がなかったように思います。彼らにとってボランティアや社会奉仕などは偽善でしかなく、何かそういう「純粋さ」への希求を満たすものがあったとすれば、それはもっとずっとナイーブなもので、『CLANNAD』や『最終兵器彼女』のような所謂セカイ系の物語だったり、それに表象されるマイルドヤンキー的と揶揄される価値観であったり、流行り始めのライトノベル(『ブギーポップは笑わない』etc)だったりした気がします。ただの肌感覚ですので、論壇の方の批判はご遠慮願います。

 でもだからこそ、いま、漸く教養というものが純粋に眼差される世の中にありつつある、という気もします。何かの道具ではない、共通の土壌。誰かを見下すためでも、自分を飾るためでもない。ただ、『あなた』と分かり合うために、教養がある――そういう時代に少しだけ近づいてきているのかもしれません。

 ただ、私の両親はよく言いました。本を読め、教養をつけろ、でないと将来恥をかくことになる、と。これは私の父が高齢であり、かつ所謂ダンディズムを歩かせたような大学教員だったことも大きいのだと思います。

 私なら子にはこう言うでしょう。本を読むと、目が良くなる。世界がよく見えるようになるんだよ、と。

 結局小学生の時分に読んで憶えているのは夏目漱石の『こころ』だけです。

 私はそれにより、『罪悪感』という概念を知りました。

 話が逸れましたが、そんな風に考えると、私の感性は15年といわず、25年くらいかけてゆっくり絞められてきたのかもしれません。

 でも、一回殺すことでそういう呪いが全部綺麗に解かれた。

 

 その結果、私はエロ漫画を買い漁り、読み漁るようになりました。それはもう生活に支障を来すくらいに読みました。最低限の名誉のために言っておくと、経済的な意味ではないです。精神の問題です。

 

 ……え?

 何を言ってるんだと思ってブラウザバックする前にまぁ聞いて欲しいんですが、私はエロ漫画によって、より情緒的な成分を摂取しようとしたんだと思うんですよね。

 だから、エロ漫画なら何でも良かったわけではなくて、心理描写がある程度きちんとしたものでないとダメだった。

 私が感性を明確に殺し始める直前の15年前くらいは、エロティックなコンテンツについては実写モノとエロ漫画を気分によって交互に摂取してたのを憶えています。

 それがいつしかエロ漫画を全く読まなくなり、実写モノしか見ない期間が続きました。それはもうそういうものだと思って、特に疑問にも感じませんでした。

 

 それが今度、感性が開くことで、一転してエロ漫画しか読まなくなったんです。

 そんなことある?と自分でも思いました。でもとにかくエロ漫画が楽しくて仕方がない。実写モノが急に味気なく、ほとんど何も感じなくなってしまった。

 私にはこの一見下らないことが、なんだかすごく象徴的に思えたんですね。そのくらい、きっぱりとした、劇的な変化だったんです。特に私の場合は、性愛が自分という人間の実存とかなり強く結びついているため、余計にそうなのかもしれません。というか、今回のことでそれを再認識させられました。

 さらにどうでも良い話をすると、心理描写のきちんとしたエロ漫画、となると女性作家さんのものが自然多くなり、その他諸々の点でも蓋を開けたら結果として女性作家さんのものに惹かれていた率が高かったんですね。

 でもそうしていると、なんだか自分が女性作家の作品であるというメタ情報も含めて興奮している下劣野郎に思え、断固として違うのだと私は百万回でも主張しますが、一度そういう可能性を心に抱いた瞬間にそれはしゅにかかってしまうわけです。

 やれやれ。

 

 それにしても、殺したと思ってもまだ感性が辛うじて息をしていたということは、殴り殺したというよりはソテーにしたくらいに考えてもいいかもしれません。

 タマネギを飴色を通り越して焦げる寸前まで炒め殺し、味を濃縮していたのだと。そうでも思わないとやってられませんもんね。

 つまり、今の私はカレーです。

 さて、感性を殺してきた弊害も、開いた影響も、他にまだ色々あるのですが、今回はこれくらいにしておきます。

 ああ、感情移入が過ぎて人称が変わってましたが、友人の話でした。


 ※本文に登場する会社・人物・状況はすべてフィクションです。実際の人物・団体とは一切!関係ありません……。


 参考文献・引用元

 ・高田里惠子『教養主義はどこへ消えた? その正体は男子の「純粋さ」競争だった』(朝日新聞デジタル版・2025年4月4日)

 https://digital.asahi.com/articles/AST3X2GH7T3XUPQJ017M.html?_requesturl=articles%2FAST3X2GH7T3XUPQJ017M.html&pn=7

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