第5話 : ギルベルト・アンベール

「貴方様は……」


 ブルームが驚いた声を上げた。ルミナも顔を上げる。男がブルームの方に視線を向け、僅かに眉を持ち上げた。


「お前は確か、第十二部隊中尉だな」

「は。お久しぶりに御座います」


 ブルームは床に膝をつき、軍人の最敬礼の視線を取る。


「ギルベルト様、どうしてこちらに」


 ブルームの言葉に、ルミナはびくりと肩をすくめた。ギルベルト。その名が示す人物を、ルミナは一人だけ知っている。濃紺の瞳と黒髪と、冷徹な雰囲気――。目の前の男は、まさにその要素を併せ持っていた。男はそれには答えずブルームから目をそらすと、ルミナを見た。


「シスターか」


 ルミナは答えなかった。ただ男を見上げると、彼は苛立ったように眉根を寄せた。ぎゅっと喉に力を籠め、ルミナは口を開く。言ってしまえば、面倒なことになるのは火を見るよりも明らかである。けれど、ここで黙っているという選択肢は与えられていない。


「……ルミナ・キルシュタインです」


 沈黙が広がった。ギルベルトはふっと小さなため息を吐き出すと、うんざりした顔つきで舌打ちをする。


「お前がそうなのか。私と一緒に来てもらう」


 大股で歩み寄ってきたギルベルトに腕を掴まれ、ルミナは引っ張られた。一歩二歩とよろめく。


「待ってください――!」


 力に抗おうと足を止めると、ギルベルトは振り返りざまに冷然とした視線を投げてきた。


「何だ? 私だってお前を連れて戻りたくなどない」


 ルミナはあっけに取られる。こんなに失礼な事を平然と言ってのける男に、初めて出会った。紳士なら――いや、彼は紳士ではない。紳士でありたいとも思っていないだろう。


 猛然と反抗心が芽生え、ルミナはギルベルトに掴まれた腕を思い切り振り払う。僅かに眉をひそめたギルベルトを睨む。


「急に来いと言われても困ります。私はここで仕事がありますから」


 ギルベルトは嘲笑うように歪んだ笑みを浮かべ、さらに強くルミナの腕を取って捻り上げる。痛みで思わず顔が歪む。団長、と後ろの兵士が囁いた。


「仕事だと? 笑わせるな。御三家の娘の癖に、修道女の真似事で聖母にでもなったつもりか」


 御三家の娘、という言葉に皆がざわめいた。奇異な目で見つめられるのを感じて、ルミナは歯を食いしばった。こうなることを避け続けてきたのに。


「……私を御三家の娘だというなら、あなたと立場は対等なはずです。そして私はあなたと婚約した身。この無礼は許されるものではありません」


 言い捨てて、ルミナは何か虚しいものが胸を満たすのを感じる。こんな男と婚約した自分までもが汚れていくような気がした。ギルベルトはルミナの腕を握る力を緩める。


「それ以上は喋るな」


 ルミナを突き放し、ギルベルトが背を向けた直後。再び悲鳴が響き渡った。はっと振り向くと、二頭の叫狼きょうろうが割れた窓から起用に身をひるがえして侵入してくるところだった。


 ギルベルトを見ても臆した様子は見せず、二頭は一直線にルミナとギルベルトに襲い掛かる。ギルベルトが氷の剣を出現させるよりも速かった。


 武器を手放している二人にはなすすべがない。動くことも出来ないルミナの視界に、ルミナの前に飛び出したギルベルトの背中が映る。


 魔獣の悲鳴が響き、ギルベルトが横殴りに打ち込んだ拳を喰らって吹き飛んでいく。あっという間に二頭目が脇から滑り込み、ルミナの腕を鋭い爪で掻いた。もろに攻撃を喰らっていたら、もっと深手になっていただろう。直前にルミナを突き飛ばしたギルベルトの腕がなければ。


「……っ」


 ぱっと鮮血が飛び、ルミナは腕を抱える。不思議と痛みは感じなかった。自分の怪我よりも、目の前のギルベルトを見上げる。


 鋭い牙が見える。赤い口内でよだれが線を引くのが映った。ギルベルトの頭上に口を開けて跳躍した叫狼の目がらんらんと光っている。


 直後、ルミナは驚くべき瞬間を目の当たりにした。


 ギルベルトは一瞬の躊躇も見せず、黒い手袋を嵌めた右手を魔獣の口に突っ込む。そのまま舌を掴んで捻り、狼は勢いのまま空中で回転する。ギルベルトは黒い身体を地面に叩き落し、自分の手を引き抜いた。


 静まり返る。床に倒れたままのルミナの目に、赤いものが映った。ぼたぼたと鮮血がしたたり落ちる。ルミナは声も出せずに、床に広がっていくギルベルトの血だまりを見つめた。


「怪我は」


 ぶっきらぼうにギルベルトは言う。ルミナが首を振ると、無表情のまま彼は傷ついた腕をマントの後ろに隠す。


「団長、腕を」


 後ろの兵士が声を上げ、駆け寄ろうと武器が鳴る音が響いた。ギルベルトは低い声で近寄るなと牽制する。ルミナは立ち上がり、ギルベルトのもとに駆け寄った。


「傷を見せてください」

「断る」

「どうしてですか?」

「お前は一体何なんだ」


 言い合いが始まりかけると、ギルベルトは深い紺の目を険しくしてルミナを見下ろした。


「せめて、止血くらいは」


 ギルベルトの言っている意味がわからなかった。なぜ頑なに治療を拒否するのだろうか。


「団長、こちらのお嬢様の言う通りですよ」


 後ろからそっと進言されると、ギルベルトは舌打ちをして切れ長の目に白い光を灯したのだった。


◇◇◇


 アンベール家の馬車はそれはそれは乗り心地の良いものだった。皮肉っぽく思いながら、ルミナは気まずい思いをしながら後部座席でスカートを握りしめた。


 隣に座るギルベルトは、一言も口を利かなければルミナと目すら合わせようとしない。黙って足を組んだまま、窓の外を眺めている。


 右腕に噛みつかれたギルベルトの傷口は汚かった。深く牙が刺さったのだろう、二本の穴がくっきりと開いていた。噛みつかれたまま無理やり腕を引き抜いたせいで、さらに横に傷口が広がって血が溢れる。


 獣に噛まれた傷は、早く消毒しなければ化膿して悪化する。牙や唾液に付着した菌が傷口を通るからだ。すぐに酒で消毒し包帯を巻いたものの、今夜はきっと熱が出るだろう。それにしても、とルミナは雨に煙る景色を眺める。


(ギルベルト様の腕、傷だらけだったな)


 新しい傷も、古い傷も無数に刻まれていた。彼の送ってきた日々を思う。団長と呼ばれていたことを思うと、何かの組織を率いているのだろうか?


 考えていてもきりがない。ルミナは瞬きをして、ギルベルトの方を見上げる。整えられた黒髪に隠された仏頂面は、どこにも隙はなかった。


「あの、さっきはありがとうございました」


 返事はなかった。無礼を思えば感謝することは癪だったが、ギルベルトが救ってくれたことに変わりない。


「お前も怪我をしているだろう」


 ルミナはああと自分の腕を見下ろす。


「こんなのはかすり傷ですから、大丈夫です」

「顔もだ」


 忘れていた。手をやると、血が固まって蓋を作り始めている。邸に戻ったら消毒しなければ。ギルベルトが不意に手を伸ばし、ルミナの傷に触れようとする。ルミナはびくりとして思わず身を固くした。ギルベルトは寸前で手を止める。何がしたかったのか、相変わらず無表情なままでつぶやいた。


「自分に治癒魔法は使えないのか」


 ギルベルトが唐突に言い、ルミナは一瞬返事に詰まったが頷く。


「はい」

「不便なものだな」


 それきり、ギルベルトは口を閉ざした。やりにくいなぁとルミナは心の中で呟く。マルティナが陰気な邸、と言っていた理由がなんとなくわかった。


(この人と一緒に居たら、こっちの気が狂いそうになるわね)


 雨は降り続く。

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癒しの天使の治癒魔法 小野村鶵子 @hinako1223

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