第4話 : 襲撃

 その日は良く晴れた日だった。時折雪を降らした厚い雲はどこかへ消え去り、空気は冷たいものの素敵な洗濯日和である。


 ルミナはオリヴィエと一緒に、洗ったシーツを裏に干していた。ぱんぱんと布を張る軽快な音が、ルミナの心も浮き立たせる。


「オリヴィエ、こっちを持ってくれない?」


 桶から出したばかりで水を滴らせるシーツを抱えて、オリヴィエを振り返る。相変わらず仏頂面だったが動かしていた手を止めて、彼女はシーツを受け取ってくれた。


 何も言わなくても同時に布を反対側に絞り、水が小気味よく流れていく。案外気が合っているのかもしれないな、と嬉しくなった。けれど、そんなことを口にすればオリヴィエに攻撃されるのは分かっているので黙っている。


「今日はいい天気でよかったわ」


 代わりに明るく言うと、オリヴィエはふんと鼻を鳴らした。


「あたしと天気の話がしたいわけ?」


 口調はぞんざいだったが、これが彼女の平常運転である。いちいちショックを受けることもなくなった。


「他の話をする?」

「……ほら、次の仕事があるから!」


 ふふ、と笑うと、オリヴィエはぷいと背をそむけてしまった。


 布を広げ、物干し竿に掛けた瞬間手が止まる。オリヴィエを見ると、彼女も怪訝そうに眉をひそめていた。


「あんたも聞こえる?」

「ええ」


 赤ん坊の泣き声がするのだ。おぁあ、おぁあ、と耳をすませば聞こえないような微かな泣き声が風に乗ってこちらまで届いていた。


「裏庭かしら」


 両親に置き去りにされてしまったのだろうか、と可哀そうに思った直後、ルミナは小さく息を飲んだ。ある可能性が脳裏をよぎる。


「あたし、見てくる」


 駆けだしかけたオリヴィエの頭に、ルミナはつい叫ぶ。


「オリヴィエ! 行っちゃ駄目!」


 たたらを踏んで立ち止まったオリヴィエが、こちらを振り返って睨んだ。大声を出してしまったことを後悔しながら、ルミナは庭の方に視線を走らせる。


「何よ、急に大声を出さないで」

「オリヴィエ、聞いて。もしかしたら赤ちゃんじゃないかもしれない」

「何を言ってるの?」


 言いながらも、オリヴィエの表情が固まる。


「いいからこっちに来て。裏庭の様子なら中からでも見えるわ」

「ルミナ、赤ん坊じゃないならなんだっていうのよ?」


 ぶつぶつと文句を言いながらも、オリヴィエはこちらに戻ってきた。その手を掴み、ルミナは強引に病院の中に連れて行こうとする。抵抗し、勢いよくルミナの手を振りほどいたオリヴィエは激しく言った。


「ちゃんと説明してよ!」

「大声を出さないで。魔獣の中には赤ん坊の泣きまねをして人間を誘う種類がいるのよ」


 オリヴィエは言葉を無くし、低い声で言った。


「なんでそうだって確信できるわけ?」

「戦場で見たから。野営中にエカルドが仕掛けてた。まんまと誘われた兵士はみんな喰い殺されたわ」

「……」


 再びオリヴィエの手を掴み、歩き出すと今度は抵抗しなかった。数歩歩いたところで、自分で歩けるわと手を振りほどかれたが、ひとまずは室内に入れたことに安心する。そっと入口の扉を閉めると、しっかりと錠を下ろした。


「みんなに知らせなくちゃ」


 独り言のように言って廊下を抜け、病室に入る。いつも通り働いているアレッサたちを呼び、事情を説明する。こわばった顔になった彼女らを見つめ、ルミナは落ち着いた声が出るように努力した。


「確認してきます。念のため窓を全て閉めて、カーテンも下ろしてください」


 そう言い置いて、ルミナは裏庭側の窓に向かう。何気ない様子を装って窓の外を除いた刹那、ルミナは声を上げそうになるのを必死に抑えた。


 薄暗い木立の奥に目が見える。黄金色に輝く丸い光がいくつも――ざっと四、五頭ほどだろうか。十分な脅威であることは間違いない。


 黒い狼のような姿をしたその魔獣は、叫狼きょうろうと呼ばれている。人間の赤ん坊に酷似した鳴き声で、近づいてきた者を群れで襲う。


 その目の一つと視線がぶつかった瞬間、ルミナはさっと頭を引っ込める。カーテンを閉め、同じようにしているアレッサたちに合図した。


「大声を立てないで聞いてください。裏庭に叫狼がいます。扉と窓の鍵を閉めて、じっとしていれば襲われることはないはずです」


 言いながら、絶望的な気持ちになる。目が合ってしまった。彼らはここに人間がいることはとっくに気付いているだろう。


「カーテさん、隔離部屋の戸締りをお願いします。皆さん――」


 続いて兵士たちを見回し、戦場で戦っていた彼らなら、どうすればいいのか分かるはずだ。特に怯えた表情も見せず、無言で頷いてくれたのが心強かった。


「ルミナさん。手伝います」


 片腕を切り落とした兵士、ブルームが身体を起こす。ルミナが断ろうとすると、ブルームがかぶせるように言った。


「いいえ、ここに寝ているだけでは申し訳が立たない。腕を一本無くしても、私の腕が落ちたわけではありませんよ」


 そう言って微笑んだ彼の顔はまだ青白い。昨日熱が下がったばかりである。


「でも……」


 言いかけてルミナは言葉を飲み込んだ。彼の穏やかな灰色の目に浮かんだ決意の色は固く、思いを無下にできるものではなかった。


「では、お願いします」


 うなずいて起き上がった彼は、ややふらつきながらもしっかりと立ち上がった。


◇◇◇


 静まり返っている院内の中で、ルミナたちの息遣いだけが響いている。誰も一言も声を立てず、息を殺してしゃがみ込んでいた。


「やっぱりいますね」


 ブルームが押し殺した声で言い、ルミナは頷く。入口の柱の陰に隠れて、暖炉から掴みだした火かき棒を握りしめた。ブルームが残った右腕に同じく握っている火かき棒は全く震えていない。歴戦の兵士の威厳を感じさせるたたずまいだった。


「諦めて行ってくれるといいんですが……」


 ルミナがつぶやいた直後、西側の窓が悲鳴を上げて砕け散った。びくりと肩をすくませて咄嗟に目を閉じてしまう。オリヴィエたちの悲鳴が響き、驚いた兵士たちがベッドから身を起こそうとするのが見えた。


「ルミナさん!」


 ブルームの手がルミナの肩を掴み、すぐに離れて行く。迷うことなく走っていったブルームの背中を目で追った。窓から飛び込んできた叫狼は三匹。考えるよりも早く、身体が動いていた。


 火かき棒を横殴りに振り抜き、かろうじて一匹の身体をかすめる。ああ、とルミナは全身の力が抜けるような気がした。自分に戦闘能力は一切ないし、こんな風に生き物を相手にしたこともない。噛みつかれて死ぬ運命しか見えなかったけれど、目の前で戦っている片腕のブルームやオリヴィエ達、怪我をした兵士たちのことを思えば逃げることはできなかった。


「危ない!」


 視界一杯に広がった黒い塊。噛まれる、と目を閉じた瞬間、鈍い音を立ててブルームが魔獣の脇腹を殴打する。ギャンッと悲鳴を上げて飛び退った叫狼の黄金色の目と目がぶつかり合う。


 一匹が飛び掛かってくる。振り出された爪を避けたが、刹那に頬がカッと熱くなった。


 血が流れたのが分かった。鋭い痛みが心臓の鼓動と同時に響く。ぎゅっと歯を食いしばって唯一の武器を握りしめた。荒い息を吐きながら視線を跳ね上げると、狼に跳ね飛ばされたブルームの姿が見えた。


「駄目――!」


 目の前で、ブルームが死ぬ姿は絶対に見たくない。震える腕に力を籠め、ルミナは駆けだした。


 火かき棒を持ち上げて振り下ろす。がつんと骨が砕ける感触がルミナの全身に響き、びくんと背中が震える。


 さっきからまるで何の役にも立っていない。数歩遠くにいるブルームの呼吸は乱れているし、下がったばかりの熱が上がり始めているのが分かった。それでもぐるぐるとルミナたちを囲むように動き始めた魔獣を見ながら、絶望感に襲われる。


(誰か……)


 誰も来ないことは分かっている。けれど、救いを求めずにはいられなかった。


 不意に、空気が冷えた。


 重力が一気に重くなり、時空が歪んでいくような感覚。目が回るような浮遊感と、寒気に襲われる。


 何かが来る。


 強大な魔力を持つ何かが、こっちに向かっている。本能的にそう感じる。


 木の床を軍靴が叩く音がした。ドアがきしみ、外側から弾けるように吹き飛んでいく轟音が響き渡る。


 目の前の叫狼たちがびくりとルミナから目をそらし、じりじりと後ずさった。怯えているように、喉の奥で低いうなり声をあげる。


 振り返ったルミナの目に映ったのは、長身の男の姿だった。冷たい目。氷のように冷たく、無表情な濃紺の瞳がルミナを見据え、すぐにそらされる。続いてなだれ込んできた数人の兵士たちが、彼の後ろに控えた。


「――氷剣グレイシアソード


 低い声が重く、深く響く。


 黒い手袋に包まれた男の手に、青玉石の色に輝く両刃のつるぎが現われた。銀の柄を握り、ぶん、と刃が空気を切り裂く冷たい音が響く。


 次の瞬間、沈みこんだ空気が跳ね上がり、弾けた。


 激しい衝撃音と共に床がたわんで木っ端みじんに砕け散る。それほどに強靭な踏み込みが、空気の波と共にルミナを、そして魔獣たちを襲った。


 間髪与えずに吹き上がった血の柱を、ルミナはぼんやりと眺める。


 男の一太刀で命を奪われた叫狼たちの死にざまは、いっそ秀麗だった。ごと、ごと、と鈍い音と共に三つの首が床に転がる。一刀両断にされた三つの黒い身体は、窓や床、天井を真っ赤に汚して動きを止めた。


「……怪我は」


 冷ややかな声が降ってくる。顔を上げ、男の視線を捉えた。


「いいえ」


 首を振ったルミナの目線の先の剣には、一滴の血も付着していない。叫狼を殺害する前と同じように、それは孤高の美しさと静けさを湛えて男の手の中に収まっていた。男がもう一度剣を振ると、一筋の煙となって空中に溶け消える。


「良かったな。私が来なければ、お前たちはとっくに死んでいたぞ」


 何の感情も含まない無機質な声が、冷え切った病室の中に静かに響いた。ルミナは身震いをして、自分の腕で身体を抱く。

 

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