第2話 : 野戦病院
目を覚ますと、ルミナはすぐに起き上がった。戦場の朝はとても早い。交代で仕事をこなすため、ゆっくり寝るという習慣はルミナから消え去っている。厚いベルベットのカーテンの隙間から差し込んでいる光はまだ薄紫色で、夜は明けきっていないことがわかる。
白いネグリジェは薄く、裸足の足を絨毯につけるとくすぐったい感触がした。部屋の隅に据えられたドレッサーの前に腰かけ、ヘアブラシで髪を解く。鏡にぼんやりと映る自分の顔が、何だか見慣れない気がした。
修道服に着替えると、金髪をさっと背中に流す。本来髪を全て隠す修道女のベールだが、ルミナの場合は前髪が見えている格好になっている。これはまだ見習い期間の修道女であることを示すもので、志願期と呼ばれる時期に着るものだ。
しかしルミナは教会に志願したわけでも、修道女になるつもりがあるわけでもない。ただ、戦場で働くのにあたって修道女の身分を借りた方が面倒ごとが起こりにくいという理由である。
協会の承諾を得て修道服を数枚もらい受け、それを着て仕事に向かう。とはいうものの医療班の上司だったバーシュは全て知っていて、ルミナに准尉という肩書を与えてくれた。一応名家の娘であるから、ということらしい。
部屋の扉を開けると、ルミナは小さく悲鳴を上げた。ぶつかった相手も同じように悲鳴を上げ、ごめんなさいと連呼する声が廊下に木霊する。
「ごめんなさ――って、まさか!」
相手が驚愕したような声を上げた。
「こちらこそごめんなさい、ちゃんと前を見ていなかったものだから……」
顔を上げると、そこに栗色の巻き毛を二本のおさげにした少女が立っていた。鼻の頭に散ったそばかすが愛らしく、ヘーゼル色の大きな丸い瞳がお転婆な印象を与える。
「お嬢様ですか? キルシュタイン家から来られた?」
「え、ええ」
勢いに気圧されながらうなずくと、少女は嬉しそうに笑ってルミナの両手を握った。
「あたしはマルティナです。ここに来て日は浅いんですけど、あんまり陰気なお邸だから辛くて……。レネ先輩もあんまり笑わないし。だからお嬢様がいらっしゃると聞いてすっごく嬉しかったんです!」
きらきらした目で見つめられると、嫌でも故郷のあの子――ナディアを思い出す。陰気な邸という発言が気になったが、当主が当主だからだろうなぁと心の中でため息をつく。
「お嬢様、今からどちらに?」
「外で仕事が」
「あ、そういえばお嬢様って珍しい治癒魔法が使えるんですよね? そのお仕事ですか?」
「ええ……」
「修道服って言うことは教会ですか? お医者さんの代わりをするとか? あ、そういえばあたし、お嬢様のお部屋の暖炉を見て来いって言われたんだった。遅くなったらレネ先輩に怒られちゃう」
ころころと飛んで行く話題にくらくらしながら、ルミナはやっとのことでマルティナの言葉の嵐から抜け出した。
「わ、私そろそろ行かないと」
「えっ朝ごはんも食べずに――召しあがらずにですか?」
「ごめんなさい」
マルティナは首を振り、ルミナに笑いかけた。
「あたしは農家の娘なんです。母さんが朝ごはんを食べないことには力が出ないからねってよく言ってて……。もうパンは焼き上がってるんです、大急ぎでバスケットに詰めますね!」
ルミナは勢いに飲まれるままに頷いた。
「ありがとう」
「玄関で待っていてください。あと何か羽織るものもお持ちしますね、そんな薄着じゃ絶対に寒いですから」
ぱたぱたと駆け去っていくマルティナを見送って、ルミナはほんのりと心が温かくなるのを感じた。
(寂しい思いはしなくてよさそうね)
◇◇◇
道中は悪路だった。雪解け水の染み込んだ道はぬかるんでいて、轍を車輪が通る間車体に泥水や小石がぶつかる音が聞こえる。マルティナから押し付けられるようにして受け取ったバスケットを抱えているが、とてもパンを食べていられるような状況ではなかった。
「シスターのお嬢さん、じきに雪が降るぞ! レーヴ川まで行くのはいいが、帰りの馬車は日が暮れてからしか来ねえ」
「いいんです! 用事があるので!」
馬車がガタガタ揺れ始めたものだから、自然と大声を張り上げる。進みの悪い馬に悪態をつき、鞭を振るう音が響いてくる。
「用事って、あんたまさかあの野戦病院で働くつもりか? そりゃシスターだからだろうが、あんたのような娘さんにはきつい場所だぞ」
そうなんですねと相槌を打つが、戦場で戦った兵士たちが負う傷のむごさは身に染みて知っている。
川船に乗せられて病院に送られるということは、まだ救いようのある兵士たちだということだ。苦痛を長引かせるだけだと判断されれば、その場で鎮静剤を注射して穏やかな死を迎えられるように処置をする。
簡易的な設備しかなく、衛生環境も整っているとは言い難い医療テントでは、傷の縫合や止血はできても、手足の切断や突き刺さった弾薬の破片を取り除く切開を行うことは難しい。特に破壊魔法や爆散魔法を喰らった兵士の状態は目も当てられない。
ルミナの治癒魔法を以てしても、再生不可能なほど壊れてしまった身体を繋ぎ合わせる作業には膨大な魔力を消費する。多少なりともその設備が整っている野戦病院の方がまだましだろう。
邸から高原を降りる小道を辿り、民間の馬車屋に入ったのは噂になることを避けたかったからだ。アンベール家の紋章が付いた馬車で道を走り、病院の前に馬車をとめれば嫌でもルミナの身分が知られてしまう。まあいつかは知られることだろうが初日から気を使われるのは面倒だった。
そうこうしているうちにも馬車は開けた道に出て、揺れも治まっていく。同時に川が流れる音が聞こえ始め、曇った窓から木々の向こうに見え隠れする濁った大河が見えた。
「病院はこの近くにあるんですか?」
「いいや、まだ走らなきゃなんねえ。こんなにデカい河の近くに病院があっちゃ、川船で昇ってきた畜生どもに爆弾一つ投げ込まれてみんな死んじまうよ」
最後の方は皮肉交じりの声で御者が言う。
◇◇◇
病院だという建物の前に馬車が止まったのは、それから十五分ほど走った頃だった。馬車を降りたルミナは、御者に礼を言って代金を支払う。
「頑張れよ」
それだけを言って走り去っていった馬車を見送って、ルミナは背後にそびえていた病院――木造の長方形の建物に向き直った。
想像していた病院とは全く違う。二階建ての倉庫のような場所で、あたりはしんと静まり返っている。融けかけた雪の積もった道を歩き、ルミナはポーチになっている短い階段を登った。そっと扉を押し開けた瞬間、ルミナは眉をひそめた。
血と膿が混じった生臭い風が内側から吹いてくる。戦場で毎日のように嗅いでいたあの匂い。
「あら、もしかして」
不意に声をかけられ、ルミナは顔を上げた。腕に水を入れた桶を抱えた中年の女がルミナを見ていた。冬だというのに額には汗が浮かんでいる。
「こんにちは。ここで――」
「待ってたわ、あなたがシスター・ルミナ・ハーマン?」
一瞬思考が追いつかなくなったが、すぐに自分の名前を言われていることを理解する。遠縁の叔母の苗字を借りたのだった。
「はい。ミース修道協会から派遣されました。今日からよろしくお願いいたします」
礼をして顔を上げると、女は人のいい笑顔を浮かべてほっと溜息をついた。
「本当に助かるわ、人手が足りなくてねえ。若い
期待を込めた目で見つめられる。
「ルミナさん治癒魔法が使えるんですってね、凄くうらやましいわ。さっそく今から働いてもらうことになるけれど、大丈夫?」
「もちろんです」
「私はアレッサよ。ルミナさん、一緒に頑張りましょう」
アレッサに付いて廊下を歩き、病室に向かう。その間も始終悪臭が付き纏い、換気の悪さが目立った。ふと壁を見ると、蛇の絡みついた杖を捧げ持つ小さな女神像が置かれていた。治癒を司るイシア神である。
「ここよ」
アレッサが両開きの扉を示し、それを押し開けた。
一気に押し寄せてくる血と腐敗の匂いに思わず呼吸が浅くなる。むっとこもった甘ったるい死の風が淀んでいる。
そこは広いホールのような空間だった。閉め切られた窓と、ぱちぱちと暖炉の中で薪が燃える音が響く。ずらりと近間隔に並べられたベッドには兵士たちが横たわって時折呻き声をあげている。数人の女たちがそれぞれ動き回っているが、皆口元に白い布を巻いていた。
「もともと小学校になる予定だったのよ。でも戦争が始まって、野戦病院に変わっちゃって。二階が私たちの仮眠室になってるの。交代で夜間の見回りをするから」
ルミナの耳にその言葉は入ってこなかった。
(なんてことなの)
換気すら行き届かないこの病室は、ルミナの治癒魔法がどうこうの話どころではなかった。自分が役に立てるかどうかだけを心配していたルミナは愕然と唇を結ぶ。ここで働いている女たちは看護師たちではないのだろうか?
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます