エーベル領の暮らし

第1話 : アンベール邸

「まさかギルベルト様が婚約者を迎えられるとはなぁ」

「ヴェルナー様が無理やり進めた縁談らしい、こんなところに連れてこられたお嬢さんも可哀そうだよ」


 アストレア王国最北部、エーベル領を守る堅牢な城――御三家の一柱アンベール家の邸がある。よく晴れた初春の頃、エーベルにはまだ雪が積もっていた。


 アンベール邸の使用人たちは、昼食ついでに厨房の暖炉の前で紅茶を飲みながら、ひそひそとうわさ話に興じていた。皆の顔は暗いような明るいような不思議なもので、久しぶりにこの邸に変化が起こることを期待している。


「あ、おいレネ。お前見たんだろ?」


 忙しそうに厨房に入ってきた侍女は、名前を呼ばれて鬱陶しそうに返事をする。


「キルシュタインから来たお嬢様のことでしょ、今日だけで百回は同じ事を聞かれたわよ」

「で、どうなんだ?」


 侍女は皿に並べられていたサンドウィッチを掴んで口に押し込む。


「礼儀正しくて可愛らしい方よ。ギルベルト様にはもったいないくらい。ヴェルナー様も人の悪いことをするわね」


 使用人一同は、若き主人の顔を思い浮かべて顔を暗くする。


「……長く居てくれるといいがなあ」

「私たちで何とかしましょう。たったの五人しかいないけど」

「そうだな。あの旦那様じゃ、お嬢様も不安だろうからな」


 暗い顔をしながらも目を合わせ、使用人たちは頷き合うのだった。


◇◇◇


「ルミナ・キルシュタインと申します。よろしくお願い致します」


 アンベール邸は寒かった。エーベルは北の領地で、まだ雪が残っている。ルミナは細かく震えながら、トランクを両手で握りしめた。


 キルシュタイン家からは侍女を連れてきていない。ルミナの都合で土地から引き離すのは辛かったし、それに野戦病院で働く予定のルミナの世話をする必要はあまりないからだ。たった一人、知らない土地に足を踏み入れたのだった。


「ようこそお越しくださいました。レネ・ヨハイムと申します。お嬢様付きの侍女となります」


 すらりと背の高い、黒髪を顎の下で切りそろえた女性がルミナに頭を下げた。誠実そうなグリーンの目が、ルミナを安心させてくれる。


「お部屋にご案内いたします。こちらへ」


 ルミナを促し、エントランスから続く階段を示した。後ろから足音が聞こえ始め、ルミナは振り返る。アンベール家の使用人たちがたったの二人で、次々とルミナのトランクを運び入れているところだった。


「使用人の数は少ないですが、お嬢様に不都合の内容に務めさせていただきます」


 レネがルミナの思いを読み取ったように言い、ルミナは慌てて首を振る。


「いいえ、私こそ沢山ご迷惑をかけると思います」


 何しろ名家の妻ともなろう女が、野戦病院で働くというのだ。さぞかし変人に見えるだろうなとルミナは一人苦笑する。


「……こちらです」


 いくつもの階段を登り、長い廊下を抜け、北風が吹きすさぶ回廊を歩いた箇所にルミナの部屋があった。屋敷の端に位置するようで、厚いカーテンのかかったガラス窓からはそれ以上建物は見えず、ただ雄大な森が広がっている。


 ルミナは部屋に足を踏み入れ、ほっと息をつく。

 毛足の短い手織りの絨毯に、天蓋付きの清潔なベッド。天井から下がる丸い明かりや木目を基調にしたテーブルや椅子。決して派手な印象は与えない部屋だが、心を落ち着かせてくれる雰囲気が心地良い。


「ありがとうございます、こんなに素敵なお部屋を――」


 言うと、レネは驚きつつも謙遜する。


「私たちの手が行き届かず……。粗末なもので申し訳ございません」

「いいえ、十分すぎるほどです。テントの中で寝袋を使っていたので、私にとっては」


 レネが目を丸くしているのに気づいて、ルミナは慌てて言葉を飲み込んだ。誤魔化すように笑顔を作ると、先に運ばれていたトランクに手をやる。


「ええと、荷物を……」


 手伝おうとするレネに礼を言いながら、ルミナはふと思った。


(ギルベルト様はどうしたのかしら)


 疑問を口に出すと、レネが困った顔で言いにくそうに謝罪した。


「申し訳ございません、旦那様は王都に出向いておられまして。お会いできるのは二日ほど後のことになるかと」


 では、まだギルベルトに会わなくて良いのだ。ほっと安心して、ルミナは口が勝手に笑顔になるのを抑える。あの光のない眼と対面しなくていいと分かるだけで、ルミナの不安の八割は霧散していった。


◇◇◇


「なかなか吐きません。頑固な奴です」


 ぴしゃ、ぴしゃ、と石壁を水が伝う音が響く暗所。低い声で言った男の声が幾度か木霊し、暗闇に吸い込まれていく。灰色の冷たい壁に細長い影が伸びた。この陰気な場所では、かび臭い闇の中を照らしている魔法石の輝きだけが頼りだった。


「……そうか」


 短く答えた長身の男が、ふうとけだるげなため息を吐いた。

 閉じられていた瞼が開かれ、淀んだ鈍い色を湛えた濃紺の瞳が魔法石の光を反射する。


 ここは首都アストア――国王の住まう城が位置する王都でもあった。

 壮麗さを掲げるはずの王城の地下深くに、巨大な地下牢があることは暗黙の了解である。


 足元も見えないほどの闇が凶悪さを秘めてうずくまり、鎖が立てる重い金属音や、時折響いてくる人間の絶叫が、正常な者の精神を蝕んで思考を奪っていく。常人なら、ここに滞在できる限界は五分ほどだろう。


 そして現在ここで、進行中の大戦で捕虜となったエカルド軍第三部隊大佐の尋問、もとい拷問が行われていた。


 部屋の中央に据えられた机には血だまりが広がっている。机に縫い留められた大佐の左手首には、鉄の五寸釘が貫通している。その想像を絶する激痛を前にすれば、どんな人間でも最終的には口を割る。最低でも五回ほど釘の頭を打ってやれば、勝利は確実だった。


 しかし、ごく稀にそれを耐え抜く者がいる。この敵国大佐もその一人のようである。


「次だ」


 密室で続行される地獄絵図。何食わぬ顔で金槌を手に立つ兵が、冷たい声で指示する。次に現れたのは真っ赤に熱しただった。しゅうしゅうと音を立てる鉄の塊が、机に伏した大佐の身体に近づく。上着を脱がされ裸になった大佐の背中には、すでに生々しい傷跡がいくつも付けられている。


「……ころせ」


 大佐は歯をむき出して笑い、血まみれの唾を吐いた。


「いや、残念ながらそれはまだだ。お前には吐いてもらわなきゃならないことが山ほど残っているからな」


 今まさに、こてが肌に押し付けれられる……その瞬間、部屋の扉が乱暴に開いた。兵の手が止まる。


「団長」


 驚いた声がぽつんと響き、部屋に入ってきた男が口を開く。


「代わる」

「いえ、それは――」


 氷のように冷ややかな視線を浴びせられ、兵はびくりと背を伸ばした。


「聞こえなかったのか? 代わる、と言っている」


 有無を言わせない、絶対的な威力を秘めた声音だった。ずんと腹に響く命令には、誰一人として逆らうことが出来ない。はい、とかすれた声で返事をして兵が退室すると、拷問部屋は静寂に包まれた。


「お前、知っているぞ」


 大佐が男を睨み上げると、男もまた大佐を見下ろしていた。


「ギルベルト・アンベール、氷豹ひひょうの」

「……無駄口は慎んでいただく」


 平坦な声が大佐の言葉を遮り、男は自身の両手に嵌めていた黒い手袋を脱いだ。現れた武骨な手には無数の傷跡が走り、白く盛り上がった筋がいくつも見える。


「私は道具は使わない。もちろん魔法も」


 飄々と大差を見下ろし、男は深いため息をついた。


「しかしできるだけ早くこの仕事を終わらせたい。その為迅速な任務遂行にご協力いただこう、ジルマン大佐」


 短い独白が終わる。刹那、大佐の身体はゴムのように二つに曲がった。縫い留められた手首に激痛が走り、声にならない声で絶叫する。目にも止まらぬ速さの蹴りが、大佐の脇腹を直撃したのだ。


 その勢いのままに黒い軍靴の爪先が大佐の鼻をへし折った音が、部屋に木霊する。鼻血がぼたぼたと机に飛び散り、次の瞬間大佐の腫れた顔は万力の圧力で机に押さえつけられていた。


 相も変らぬ冷たい声が、大佐の耳にぼんやりと響いた。


「後五分以内に協力して頂けるなら、尚有り難い」

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