第4話 : 暖炉の炎

 その夜ルミナは父の執務室に呼び出された。あの昼食のことで叱られるのは気が重かったが、ルミナは諦めて部屋の扉をノックする。すぐに返事が返ってきて、ルミナは部屋の中に入った。


「――そこに座りなさい」


 父の部屋の中は暖かく、小ぶりな暖炉のなかでぱちぱちと薪が爆ぜていた。その暖炉の近くに、肘掛椅子二つ置かれている。父はその一つに腰かけて、ゆったりと読書をしていた。久しぶりに見る父のその姿に、ぎゅっと胸が痛くなる。


「失礼します」


 腰かけると、父が眼鏡をはずして本を脇に置いた。しばらく父は口を開かず、暖炉の炎をじっと見つめるばかりで、ルミナは気まずい思いで父が話し始めるのを待っていた。やがて薪が炎の中で真っ二つに折れ、小さく灰が舞い上がった。


「ルミナは戦場に居場所を見つけたのか?」


 唐突に父が言い、ルミナは返事に迷う。稀有な治癒魔法を持って産まれた身として、戦場と言う非情な場に身を置いて貢献する。確かにこれ以上ない働き方と言えるかもしれないが、少し違うような気がした。


「よく分かりません」


 答えると、父は小さくうなずいて言葉を続けた。


「お前の気持ちを話してごらん。聞いているから」


 ルミナは口を閉じて、暖炉の中で炎が揺れるのを見つめた。父は眼鏡を鼻に戻して再び本を開いたが、その目は文字を追ってはいない。ただ静かに、ルミナの言葉を待っている。


「私は……戦場に行くことに対して、王国の為とかそんな風には考えていません。居場所を作るためでもなく――ただそこにいなければならないから」


 父は相槌を打つことも口を出すこともしない。それがルミナにはありがたかった。

 女子修道院が行っている医療貢献に加わって、見習い修道士という立場を借りて戦場に飛び込んだ。

 楽しいことは少しもない。ただ辛くて、苦しくて、無残な死を幾つも味わってきた。

 治癒魔法の限界を知った。万能に見えて、そうではないこと。ルミナの手から数多の命が零れ落ちて行ったこと。それをどうやって言葉にして説明すればいいのか、ルミナには分からなかった。


 ルミナが戦争に志願した理由。

 それは人に話せば笑われてしまうような、ただの自尊心の保護の為だった。


 キルシュタイン家の娘として、貴重な魔力を授かった。だから自分は特別な人間で、他よりも偉い。そんな下らない薄いガラスの上に立って安心していた。その地面はある些細なことで打ち砕かれ、ルミナはまだ終わりのない冷たい湖で、岸に向かって必死に泳ぎ続けている。


 いつか岸に泳ぎ着くために。役に立てる場所を探した。自分を試した。まだ終われない。それだけの話だ。


「私は嫁ぎたくありません。まだ、私は逃げられないから」


 父が本を閉じる乾いた音が響く。見上げると、暖かな温もりを帯びた父の目がルミナを見ていた。大きな手が伸びてきて、頭に載せられる。そのまま不器用な仕草で頭をかき回されて、ルミナは戸惑った。


「お前の話はわかった。私のところにも、お前の活躍はよく届いている。ただ、前に進み続けることばかりが得策という訳でもない」


 ルミナはうつむいた。


「アンベールに嫁ぎたくないというなら、無理に嫁がせはしない。アデーレにも私から話をつけておく」


 ルミナは首を振り、小さく答えた。


「……いいえ。アンベール家には嫁ぎます」


 これ以上、母を裏切りたくない。交わらない平行線を無理やりにでも曲げる。ここでルミナが押し切ることは、後にも先にも禍根を残すだろうから。これは譲歩でも諦めでもない。前進だった。


 そして、女が世の中を渡っていくためには運命に従順にならなければならない。女である以上、いつかこの決断を下さなければならないことは重々承知の上だった。


「ルミナ、我がキルシュタインにはお前を生涯養っていくだけの余裕は十分にあるとだけ言っておこう」


 ルミナの唇に小さな笑みが浮かんだ。顔を上げ、父の目を見返す。


「心配しないでください、お父様。世の道理はわきまえているつもりですから」


 ふう、と息を吐いて、ルミナは言葉を続けた。


「それでも、これからも私は自分を貫いてもいいですか? どんなに危険でも、どんなに無理をしても。自分で自分にけじめがつけられるまで、私は足を止めたくないんです」


 綺麗ごとを並べているが、本当はただ闇雲に進んでいるだけであることは分かっている。自分がどうしたいのか。それすらわからない。


「ああ。好きなだけやってみなさい。アンベール家にはそれとなく伝えておこう。それに、男という者は――従順な娘よりも多少手応えがある娘に惚れるというものだ」


 悪戯っぽく笑って父に抱き着くと、大きな腕がルミナをすっぽりと包み込んでくれた。懐かしい。幼いころよくしてくれた、ルミナの背中をぽんぽんと叩く仕草。温もりに包まれて、ルミナはそっと目を閉じた。


◇◇◇


 ルミナは手紙を書いた。


 星誓軍せいしょうぐん将官ティバルト・マレク中将、そして治療班の上司であるエドヴィン・バーシュ少佐に向けて、一度前線を退く旨を伝えた。


 中将からは何の返事もなかったが、バーシュからは細く丁寧な文字でしたためた羊皮紙が返ってきた。


『ルミナ・フレーミヒ・キルシュタイン准士官殿


 ギルベルト・ライツ・アンベール殿との婚約を、先んじてお祝い申し上げる。


 前線から退くとのこと、了解した。君のような優れた治癒師ヒーラーを我が軍の手の届かぬ場所へやってしまうことを惜しむ気持ちもあるが、いずれエーベルの野戦病院にて復帰すると聞いて嬉しくも思っている。


 戦に身を置く軍人として、この言葉を選ぶのはいささか躊躇われるが――再び生きて顔を見られたら、楽しく酒でも酌み交わそう。

 君は絶対に酒を飲まなかったが、修道服を着ていても心までシスターになったわけではないからな。


幸運を祈る エドヴィン・ミクラス・バーシュ』


◇◇◇


 アンベール家が統治するエーベル領は、比較的戦争の影響が届いていない土地である。土地を焼かれたことも、村で虐殺が起こったこともまだないが、レーヴ川の下流に位置するためいつ攻め込まれてもおかしくないという緊迫感が漂っている。

 

 大河が流れているという地理的な都合で、近くには大きな野戦病院が設置されている。前線の治療班だけでは処置しきれない重症者、そして周囲に感染させる恐れのあるチフスや赤痢にかかった患者が、川船でこっそりと運ばれてくるという具合だ。父の計らいで、ルミナは特別そこで働けることになった。


 婚約者という結婚を控えた身で、戦況が動くのと同時に国中を飛び回ることは不可能である。さすがにルミナもそこは妥協しなくてはならなかった。


 出発の日はそれから三日後で、ルミナは最低限の荷物だけを整えて馬車にトランクを積み込む。

 身に纏っているダークブルーのドレスの重さと窮屈さが信じられなかった。コルセットの紐をきつく絞めているせいで、少し動いただけでも息が上がってしまう。


「ルミナ……」


 母が後ろから声をかけてきて、ルミナは振り返った。母の目が潤んでいる。


「元気でいるのよ」


 どちらからともなく、固い抱擁を交わした。母の背中に腕を回したルミナは愕然とする。病など無縁で、びくともしないように見えた母の身体は、骨ばっていてあまりにも華奢だった。けれど首元に顔を埋めると、幼いころから変わらない母のコロンの香りに包まれる。


「行ってきます」


 同時に父の腕が二人を包み込み、ルミナはさらにきつく抱きしめられた。


「く、苦しいです」


 もごもごと言うと、母がおどけた口調で言う。


「あら、もう会う機会はうんと減るんだから。今日くらいはうんと抱きしめさせなさいね」


 

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