第3話 : 目覚めと争い

「我が星誓軍せいしょうぐんは善戦の末、エカルドをレーヴ川対岸に退却させたそうだ。戦況の動きと言えばこんなものだな」


 父が、フォークに刺したステーキの切れ端を口に運びながら言った。ルミナの目の前にもステーキが置かれていて、手には食器を握っている。けれど、喉を通らない。


「……それはいつですか?」

「三日前のことだ」

「三日――」


 五日も昏睡状態に陥っている間に、戦況は大きく動いていた。退却気味だったアストレイア側の前線が動いた。レーヴ川と言えばルミナが倒れた戦場近くの大河で、兵士や弾薬、食料を届ける補給船が通る要所である。そこを取り返すというのは大きな功績だろう。朗報だったが、ルミナの胸の内は重苦しいまま。


「どうしたの、しっかり食べないと体力も戻らないわ」


 母が心配そうにこちらを見つめてくる。はい、と答えてステーキを口に押し込んだけれど、全く美味しくなかった。

 母は少しやせたように見える。気の強さで言えば父以上の勝気な母。けれど、顔にはあまり血の気がないし、ルミナと同じ金髪は白くなり始めている。


 戦時中というのに、キルシュタイン邸では筋張っているとはいえ肉が提供され、デザートもつく。この状況の異常さに、皆は気づいているのだろうか?


 ルミナがいた戦地では、硬いスパムや野菜の切れ端を浮かべたスープの食事でさえ贅沢品だと言われたのに。こうしている間にも戦地で戦い、病や怪我にあえいでいる兵士たちのことを思えば食事をする気にもならなかった。


(でも私がこれを残したところで、兵士たちが満たされるわけじゃない)


 食べなければ捨てられるだけの話である。


「お前の臨時後任はすぐに入ったそうだから心配するな。新米だそうだが、使える奴らしい。ロイエンタール領の治癒師ヒーラー……何と言ったかな」


 食事の手を止めて名前を思い出そうとしている父に、母が横から助け舟を出す。


「ゾフィー・ペルシュマンよ。平民の出の」


 わざわざ平民という言葉を付け加えたことに悪意を感じる。

 母は御三家ヴァレンタイン家当主の姪で、血筋を重んじるヴァレンタインの家風を色濃く受け継いでいた。

 ゾフィー・ペルシュマンという人がどんな人なのかは全く知らない。けれど、治癒魔法を使える魔師なのだから、重宝される人材には変わりないだろう。母の言い草にはもやもやしたけれど、少なくともルミナの空けた穴が埋まっていることには安心した。


 顔を上げ、父の目を見た。ルミナよりも色の淡い碧眼と視線がぶつかり合う。ヴァレンタイン家の威厳を湛えた父のたたずまいや、鋭い眼光にはいつもどきりとさせられる。


「明日には戦場に戻ります」


 今晩には伝令を飛ばして、早朝に馬車をよこしてもらおう。父が反応するよりも先に、母が口を開いた。


「ルミナ、あなたはもう戦場に戻らなくてもいいのよ。あんな危険なところ」

「……アデーレ」


 父のたしなめる声を母は一睨みで黙らせ、言葉をつづけた。


「私はずっと心配していたの。まだ十七歳なのに、戦争で怪我をして死んでしまうんじゃないかって。結婚する喜びも、子供を持つ幸せも知らずに……」


 母の手がルミナの手に重ねられた。嫌な予感がして、身体をこわばらせる。母が次に口にした言葉は、最悪の告白だった。


「アンベール家から縁談よ。ギルベルト様、貴方も知っているでしょう」


 思考が停止する。母の薄茶色の目を見つめたまま、ルミナは言葉を返すことが出来なかった。

 ギルベルト・ライツ・アンベール。攻めのアンベールと謳われる、最強の攻撃魔法の使い手たちを輩出する名家の長男だ。彼との面識はないに等しく、王宮のパーティーで一度顔を見たことがあるくらいで、それも七歳の頃だ。


 漆黒の黒髪は短く、冷たい氷のような濃紺の瞳には鬱屈した影が淀んでいた。誰に対しても心を閉ざし、容易にそばに近寄ることを許さないような冷徹さ。父親であるアンベール家当主の後ろに、無表情で立っていた少年は細かった。


 ギルベルト・アンベールは確か、ルミナよりも二歳年上の十九歳だったはず。当時、雷を抱えた黒雲のような雰囲気に圧倒され、あまり側に近づきたくないと思ったことだけを覚えている。


「だからもう、戦場には行かなくていいのよ。これ以上お母様を心配させないで頂戴、ルミナ」


 母の、甘ったるい優しさの中に有無を言わせない鋭さを秘めたこの口調が、ルミナは大嫌いだった。反抗せずにはいられない。ルミナは母の手を振り払い、怒りを抑えた声で言い放つ。


「いいえ、これからも戦場に行きます。縁談は辞退するわ」

「ルミナ!」


 母が語気を荒くし、ルミナの目を見据えてまくし立て始める。


「まだわからないの、ルミナ? あなたは死にかけて――五日も昏睡状態だったのよ。まだそんな危険を犯そうというの?

 それもこれも全部戦争のせい。ルミナはまだ子供よ、戦争なんて知らなくていいの。あんな野蛮な馬鹿らしいところに、どうして行きたいなんて言うの?」


「倒れたのは私がまだ未熟なだけです。お母様こそ戦争を少しも分かっていない。私はこの目で見てきました。矢で首を吹き飛ばされた兵士や、腕が腐って切断するしかなかった兵士たちを――」


 母が血の気を失った顔でルミナを見た。可愛い娘がそんな言葉を口にしたので驚いているのかもしれない。父が首を振り、ルミナを低い声でたしなめる。


「ルミナ、それ以上はやめなさい」

「ルーベルト、あなたからも言ってやってください。この子に戦争なんて似合わないって……」


 ルミナは食器を置き、何とか怒りを抑えようと努力する。

 勝手に縁談を取り決められたことに苛立っているのではない。あんな陰気でつまらなそうな男に嫁ぐことを嘆いているのでもない。ただ……。

 ルミナはそこで詰まった。自分でもなぜ怒っているのか、理由が分からない。


「二人とも、もう終わりにしなさい。いくら話しても拉致が開かん」

「いいえ、決着をつけるべきことです。ルミナ、もう一度言うわよ。戦争に行くのはやめて、アンベール家に嫁ぎなさい」


 食器が耳障りな音を立てる。

 ルミナは唇を引き結んで立ち上がった。椅子ががたんと音を立て、母がその振る舞いに眉をしかめるのが嫌でも目に入る。


「私の人生は、私が決めます。結婚することが女にとって一番幸せなことなんて信じません」


 言いながら哀しくなる。ルミナがいくら拒否しようと、所詮女の世迷言としてなかったことにされてしまうだろう。

 女というものは流れていく時間に逆らわずに、男という絶対的な権力に屈服する生き物だからだ。少なくとも、この世界ではそうであるべきと法律のような厳しさで定められている。


「……いい加減にしなさい」


 大声こそ出さないが、ぴりぴりと肌に突き刺さる声音で父が言った。

 淡いブルーの目が恐ろしい冷たさを秘めて、ルミナを見上げる。


「食事中に大声を出して争うなど、不愉快極まりない。ルミナ、母に対する言葉を選びなさい。アデーレ、もうよい。この娘は言葉で言いくるめようとしても叶わぬことは、そなたも知っているだろう」


 母が不承不承と言った様子で黙り込み、荒々しい手つきで皿を引き寄せた。ルミナも黙ったまま席に戻る。けれど、食べようという気にはなれなかった。もうすっかり食欲がないし、別のことで胸がいっぱいだった。


 保守的な母とは幼いころからそりが合わなかった。この戦争がはじまり、ルミナが軍に志願すると宣言した時、母がルミナとの言い争いの末失神するという大騒ぎになったことを思い出す。


(どうしていつもこうなるの……)


 母のことが嫌いなわけではない。ルミナを愛してくれることも、やり方が好きではないとはいえ母の温かい思いはひしひしと伝わってくる。


 願いを無視することに心が痛まないわけがない。母のショックを受けたような、裏切られたような顔を見るたびに、邸を飛び出して女神の前で懺悔したいような衝動に駆られる。


 でも、真情を曲げて母に従うこともまた、出来なかった。

 母もそうであるように、二人は絶対に交わることのない平行線をそれぞれ辿っている。

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