千刃の才蔵(せんじんのさいぞう)
多岐出遊一(タキデユウイチ)
第1話 討鬼地蔵(とうきじぞう)
任務を終え、帰路についた才蔵は、やがて子の刻(ねのこく/午後十一時から午前一時)の静寂に包まれた白蓮峠の登り口に差しかかった。
その木々の隙間から獣道の脇に、ひときわ静かに佇む石像がある。
この峠道の麓には、昔からひとつの地蔵が祀られてきた。 名を──討鬼地蔵(とうきじぞう)という。 語り継がれる伝承によれば、かつてこの地に“鬼”のごとき異形が現れた。
兵を蹴散らし、民の集落を焼き払ったその存在に対し、 一国の軍勢が動いた。 三百の兵を率いて討ち果たしたのが、一人の武将──篁 孫六(たかむら・まごろく)であった。
篁は、討伐の前夜に白蓮峠の地蔵の前に座したという。 戦いは苛烈を極め、百人を超す兵が倒れたが、ついに篁はその異形を討ち果たした。
それ以来、峠を越える者は必ず立ち止まり、黙して手を合わせ、 かつての災いが二度と現れぬよう願いを込めていた。
才蔵も例に漏れず、毎度この地蔵の前に立ち、礼を欠かさなかった。 だが── 今日に限って、その地蔵が──ない。 「……ん?」 才蔵は歩みを止め、目を細めた。
いつもなら苔むした石畳の上に、どっしりと鎮座しているはずの石仏──その姿が、どこにもなかった。 地蔵があったはずの場所には、ぽっかりと空白が生まれていた。
苔むした石畳は大きくえぐれ、台座の一部は斜めにひしゃげている。 土と砕けた石片が四方に飛び散り、供えられていた小石や野の花も、無残に消え去っていた。 そこだけが、ぽつんと時を失ったかのように、風に晒されていた。
まるで“祈り”そのものが引きちぎられたような、冷たい虚無だけが、そこに残っていた。
何か、凄まじい力で蹴り飛ばされたかのように
── 討鬼地蔵は、姿ごと、跡形もなく吹き飛ばされていた。 才蔵は、周囲の草むらに目を走らせる。 月明かりに照らされ、わずかに白く光るものがある。
「……あれか」
草を分けて近づくと、斜面の根元に地蔵の胴体が横たわっていた。 その先には、首の部分と思しき丸い石の塊が、杉の根に引っかかるように転がっている。
「……なんて罰当たりな真似を……かわいそうに」
その一言に、才蔵の胸の奥から滲み出た素朴な優しさがあった。 それは、敵を斬る手を持つ者の言葉とは思えぬ、静かな慈しみの声だった。
苔に覆われたその首をそっと拾い上げると、ひびの入った頬を、指先で一度だけなぞる。
「申し訳ない……今は、これで我慢してくれ」
そう呟くと、才蔵は持ち前の怪力で、倒れた地蔵の胴体を軽々と、しかし丁寧に起こし上げた。
そして元あった苔むす石畳の上に、静かに据え直す。
ひしゃげた台座に、もげた首をそっと戻し、飛び散っていた数珠と、かすかに残った花びらを、その足元へ添えた。
まるで壊れた魂に、ふたたび祈りの衣をかけるかのように。
最後にひとつ、額に手を当て、深く頭を垂れる。
誰も見ていない夜の峠に、ひとときの祈りの風が、そっと流れていった。
「……あとで、石工(せっこう)を呼んでやるからな。少しの間、辛抱してくれ」
月の光がその姿をやわらかく照らすなか、才蔵は静かに背を向けた。
夜風に吹かれながら歩み出す背に、ふと、どこかで「ありがとう」と聞こえた気がした。
そして胸の奥に、得体の知れぬ温もりが、ふっと灯ったような気がした。
才蔵は振り返らなかった。
けれど、地蔵の壊れた首は、さっきよりもほんのわずか──穏やかな表情に見えた。
月明かりに照らされたその面差しは、たしかに微かに綻んで(ほころんで)いるように映った。
そのまま静かに歩を進め、再び白蓮峠の登り道をたどる。
冷たい夜風が葉を揺らし、月の光がかすかに木の間から射し込んでいた。
道の脇に目を凝らしながら進むうち、才蔵は谷あいにひっそりと開けた岩場を見つけた。
斜面に囲まれたその場所は風を遮り、上方の木々が月明かりを優しく遮っている。
手ごろな岩を背もたれに、乾いた落ち葉と枯れ枝がそこかしこに散らばっていた。
「急ぐ事はない……ここで一晩、やり過ごすか」
才蔵は音を立てぬよう足元を掃き、腰を落とすと、周囲の小枝と枯れ草を手早くかき集めた。
湿り気のない枝を中心に、掌の中ほどの囲いを作り、火打石を取り出して数度火花を散らす。
ぱち、と乾いた音を立てて火が点いた。
風の通り道を読むように枝を組み、やがて小さな焚き火が、闇夜に仄かな(ほのかな)灯をともした。
火のゆらめきが才蔵の頬をなぞり、まぶたの裏に、淡い赤がにじむようだった。
肩の荷がほどけるように深く息をつき、岩にもたれて腰を伸ばす。
長い潜入と戦いの疲れが、骨の髄まで染み込んでいた。
やがて、まぶたが重くなり、才蔵の意識は静かに揺らぐ炎の奥へと落ちていく。
──うたた寝の中で、夢を見た。
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