第8話 裏口の石段



権蔵と別れた才蔵は、一目散に烈道の館を目指して駆け出した。


炎に包まれた集落の中で、才蔵の視界には、もはや目的地以外映っていなかった。

焼け焦げた木々の匂いが鼻を突き、舞い上がる灰が頬をかすめる。

喉の渇きも、空腹も、すでに意識の外だ。

あの悪夢のような現実に、身体は飢えも渇きも感じることをやめ、ただ本能のままに地を蹴っていた。


「……あの屋敷まで、一直線だ」


烈道の館は、里の中心からやや離れた高台に建てられていた。

周囲には火除けの石垣と水路が張り巡らされ、炎が及ばぬよう隔離された構造となっている。

この時代、建物はすべて木造──だからこそ、隠れ蔵を備えた要の屋敷には、こうした火災対策が施されていたのだ。


才蔵が辿り着いたとき、屋敷にはまだ炎の手は及んでいなかった。

瓦屋根は無傷のまま月明かりに照らされ、白壁もすす一つついておらず、静まり返っていた。


「……よかった!」


才蔵は胸を撫で下ろし、小さく息を吐いた。

だが、安堵の余韻に浸る間もなく、身体は自然と次の行動へと移っていた。


門の脇を音もなく抜け、かつて幾度となく通った屋敷の庭の裏手へと身を滑らせる。

足元の草を踏む感触も、夜風の冷たさも、今の才蔵には届かない。

全神経が、一点──一本の古びた垣根の向こうに集中していた。


そこには、幼い頃に忍び込んだ記憶がある「抜け道」がある。

めったに人が通らぬその場所に、今度こそ希望の道が開かれていることを信じて──

才蔵は音を立てぬよう、ゆっくりと垣根に手をかけた。


垣根の先には、苔むした古びた石段が続いていた。

灯りはひとつもなく、ただ月光だけが淡く段差を照らしている。

人の気配も、足音も忘れ去られたその石段は、まるで時の流れに取り残されたかのように、静かに、そこに在り続けていた。


才蔵は急ぎ足で、苔むした石段を二段、三段と飛ばすように駆け上がった。

かつては遊び半分で何度も駆け上がった馴染みの階段──

それが今は、不思議なほど長く、遠く感じられた。


足を置くたび、かすかに苔が滑る。

登るごとに、胸の奥には過去の記憶がよみがえる。

子供の頃の楽しい思い出と、悪夢のような現実が交錯し、才蔵の心は引き裂かれるようだった。


今、彼が踏みしめているこの石段は、かつて笑い声と競争心で満ちていた場所だ。

だが、その記憶が鮮やかであるほど、今目にする惨状との落差が、胸に鈍くのしかかる。


それでも──


長く感じられた石段を登りきった才蔵は、静かに立ち止まった。

息は乱れていない。

焦りも迷いも、すでに捨てていた。


ただ目の前には、幼き日には見上げていたあの裏口が、静かに彼の帰還を迎えていた。



--長く感じられた石段を登りきった才蔵は、わずかに息を吐き、視線を上げた。


目の前には、幼い頃には見上げることしかできなかった裏口の扉が、闇の中に静かに佇んでいた。


木枠は長年の風雨に晒され、ところどころが朽ちかけていた。

石造りの土台には苔がびっしりと張りつき、時の流れを物語っている。

それでも、この扉には確かな重みと、容易には破られぬ頑丈さが残っていた。


ふと足元を見ると、扉の下の土は大きく踏みならされていた。

無数の足跡が交差し、まだ新しい。

きっと館の正面から避難してきた女や子どもたちが、ここを通ったのだろう。


才蔵はすぐさま周囲に目を走らせる。

今のところ、追っ手の気配はない。だがこの静寂は、嵐の前の静けさに過ぎない。

一刻の猶予も許されぬ──そう悟った才蔵は、扉の前に立ち、両手をかけた。


手触りはざらついていて、湿り気を帯びていた。

記憶の中では、もっと軽々と開いたはずだ。

それでも才蔵は迷わず、肩に力を込める。


ギィィ……。



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