宙灯花

第一章 男を買う

1―1 濡れた指先

 背伸びをしてキス。

 手触りの良いスーツが、莉沙りさのもとを離れて扉の向こうへと歩きだす。車庫の電動シャッターが作動して冷気が滑り込んできた。莉沙は身を縮めながら、羽織っているカーディガンを両手で抱き締めた。車のシステムが起動した。でも、小さな電子音が鳴っただけで、他には何も聞こえない。

 凍りついたかのごとく青い晴天のもと、黒い電動SUV車は不気味なほどの静かさで街路樹に囲まれた道路に進入した。夫は一瞬、車庫の前に出てきた莉沙の方を振り返り、運転席で軽く手を上げた。莉沙は白い息を吐きながら、ゆっくりと頭を下げた。

 一人の時間が始まる。

 二階に与えられた個室に入って鍵を掛けた。本棚からノートパソコンを引っ張り出す。洋裁台に乗せて電源を入れた。起動画面をじっと見つめるうちに、ゴミ箱以外に何一つアイコンのない青い画面が表示された。

 メニューからインターネットのブラウザを起ち上げる。履歴を残さないモードに設定した状態でメールのサイトを検索した。ブックマークは使わない。ログイン。

 着信、一通。

 内容を確認した。小さく息をつく。消去してログアウトした。ブラウザを閉じて電源を切る。

 微かに肩が震えていた。暖房は家中にまんべんなく行き渡っている。

 湯の温度を調節して浴室に入った。特別に取り付けたシャワーヘッドから、ごく微細な熱い霧が降り注いで、舐めるように体の表面をなぞっていく。

 曇った鏡に湯をかけて覗き込んだ。三十歳を目前に控えた肌は、まだ十分に若いように見えた。たるみも見当たらない。むしろ以前より張りがあるように感じる。特に、今日は。その理由は明白に思えた。

 ふいに、下腹部に疼きを感じた。しかし、このあと何が行われるのかを思い出して呼吸を整えた。

 夫は莉沙を求めない。最初の頃こそ情熱を見せたものの、半年もしないうちに興味を示さなくなった。彼にとって莉沙は、他人に自慢のできる、美しく貞淑な妻に過ぎない。性欲の対象は他にいることが分かっている。カネさえ見せればあっけなく股を開く女がいくらでもいるのだ。夫はそれを隠そうともしない。莉沙は、自宅に飾られた人形だった。

 心身共に若く健康な莉沙は生殺しの状態に置かれて、やむにやまれぬ行為で凌いできた。しかし、もうそんなことをする必要はない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る