第13話 守るべきものの旗印

 夜の王都は、どこか落ち着かない静けさに包まれていた。


 街灯の魔石が淡く揺れるなか、ティムは旅人向けの宿屋、その二階の部屋に一人で腰掛けていた。背中を預けた椅子は軋み、手元のカップには冷めたハーブティーが残っている。


「……やっと、終わった」


 式典、騒動、そしてフィリスの救出。心が休まる暇はなかった。けれど、それでも今は少しだけ、肩の力を抜いてもいい時間だった。


 ノックの音が、控えめに響く。


「……入ってもいい?」


 その声を聞いて、ティムは目を見開いた。


「フィリス……?」


 戸を開けると、そこには小さな体を震わせながら立つ妹の姿。パジャマの上にマントを羽織り、手には包みを抱えている。


「ご、ごめんなさい……夜に、勝手に……でも、どうしても……話したくて……」


 ティムは首を振る。


「ううん、来てくれてありがとう。……入って」


 


 * * *


 


 部屋の隅のソファに並んで座るふたり。フィリスは包みから、小さな紙袋を取り出した。


「これ……昔、私が好きだったお菓子……覚えてる?」


「えっ……ああ、蜂蜜ミルクのビスケット……」


「うん。兄さん、こっそり分けてくれたこと、あったよね。あのとき、私……すごく嬉しかったの」


 言葉が途切れ、フィリスは膝の上で手をぎゅっと握った。


「……私は、家族の中で……唯一、兄さんの優しさを知ってたと思う」


 ティムは目を見開いた。


「でも……何も、できなかった。パパも、ルーク兄さんも、いつも怖くて……黙って見てるしかなかった」


 フィリスの目に、涙が浮かぶ。


「兄さんが追い出されたとき、私……何も言えなかった。ずっと、ずっと……自分を責めてた。最低な妹だって……!」


 その言葉に、ティムはそっと彼女の手を取った。


「……もういいよ」


「えっ……?」


「フィリス。今、話してくれた。それだけで、もう十分だよ」


 フィリスの瞳から、涙がぽろりとこぼれる。


「でも……でも、兄さんは、ひとりで……」


「違うよ。君がこうして来てくれた。それが、僕にとっては一番の救いなんだ」


 ティムの手の温もりが、フィリスの涙を止めていく。


「兄さん……」


「うん。ありがと、フィリス」


 


 * * *


 


 窓の外、夜空には満月が浮かんでいた。


 その光の下で、ようやく“家族”という名前の檻から、ひとつの心が解き放たれたのだった。


 


 * * *


 


 王都の朝は、いつもと変わらず静かだった。だが、その静けさの中で、ティムの心だけはざわついていた。


 「本当に……あの名前が記録に残ってるのか」


 王城の奥深く、関係者以外立ち入り禁止の封印書架――その場所に足を踏み入れたのは、初めてだった。


 古びた階段を上り、ミリアとアルと共に、慎重に扉を開く。


 書庫の空気は、湿り気と墨の香りが混ざった、どこか懐かしくも緊張感をはらんだものだった。


 「さすが王城の書庫……魔法結界が張られてる。中の本、普通の魔力じゃ触れられないのね」


 ミリアがぽつりと呟き、リーヴルがくるくると浮かぶ。


 「でも、こんなに古い本が残ってるなんて、やっぱロマンあるよねー!」


 ティムは頷きながら、棚の一冊一冊に目を通していく。


 やがて、革の装丁に金文字が刻まれた一冊の書物が目に留まった。


 《記録:魔帝国の歴史と帝獣の記憶》


 ティムの手が、震える。


 そっとページをめくると、その中に――


 《アル=ノクス》という名が、記されていた。


 「っ……やっぱり……!」


 ミリアも思わず息を呑む。


 その名は、かつて魔帝国の四獣将を従えた“魔獣の王”の名として、記録されていた。


 「俺の……名前……?」


 アルが、小さく呟いた。


 その声はどこか戸惑いと、懐かしさが入り混じっている。


 「何かを思い出しそうで……でも、わからない……」


 震える声。迷い。ティムはその様子を見て、そっとアルの背を撫でた。


 「大丈夫。わからなくてもいい。……少しずつ、思い出せばいいさ」


 ミリアがページをめくり、次の記述を読み上げた。


 「“アル=ノクスは、命令によらず、心で従わせる唯一の王だった”……まさか、今のティムの戦い方が“帝国式”に似ているって噂、ここから来てたのね」


 ティムは苦笑しながら呟いた。


 「命令なんかしてないよ。お願いしてるだけさ。信じてるから……それだけだよ」


 アルがふっと笑った。


 「だから、お前に会えたのかもな」


 


 * * *


 


 書庫を後にしたティムは、誰もいない中庭の石段に座り込む。


 夜明けの光が差し込み始める中で、彼はぽつりと、誰にともなく呟いた。


 「……もう俺は、お前たちの家には戻らない」


 それは、家族への決別。


 過去ではなく、“今”を選んだ少年の、静かな決意だった。


 


 * * *


 


 王都の西端、小高い丘の上。昼下がりの陽射しが草原を優しく照らしていた。


 その丘の真ん中に、少年がひとり、両手を広げて立っていた。


「……どう? 見えるかな?」


 風になびくフラッグ。


 そこには、まだ未熟な筆致で描かれた一文字――《キズナ》。


「キズナ牧場、か。まさか本当に旗を作るとはな」


 バルゴが肩をすくめて笑った。隣ではミリアが腕を組み、呆れたような顔で空を見上げている。


「名前のセンスはともかく……この“場所”を作るって決めたあなたの決意は、認めてあげてもいいわ」


「ふふ、ありがと」


 ティムは旗を見上げたまま、静かに頷いた。


「僕にとって、名誉とか家とか……もう関係ないんだ。過去に何を失ったとしても、これから誰かと絆を結んで、生きていける場所があれば、それでいい」


 小さな白い体が、ぴょこんと跳ねる。


 アルが、旗の足元でくるくる回っていた。


「やっと……俺にも帰れる場所ができた気がする」


 その声に、ティムはそっと微笑む。


 ミリアとバルゴの視線の先、坂道の上からゆっくりと歩いてくる人影があった。


「遅れてごめんなさーい! 書類、ギルドの事務所に提出してきたよ!」


 リーネが小走りで駆けてくる。その手には、しっかりと封印された登録書類。


「これで、《キズナ牧場》は正式に登録されたよ!」


「やった……!」


 ティムの胸が、じんわりと熱くなる。


 思えば遠くまで来た。


 選ばれず、捨てられ、居場所もなかった少年が。


 今こうして、自分の意志で“旗”を掲げたのだ。


「この旗は、僕だけのものじゃない。ここに来るみんなのための場所。その証にしたい」


「じゃあ、リボンでもつけとく?」


 リーヴルがひょこっと現れて、青いリボンを旗に結びつけた。


「ちょっとおしゃれじゃない?」


「悪くない。少なくとも、地味ではないな」


 バルゴがふふっと笑う。


 丘の上に吹く風が、皆の頬を優しく撫でる。


 その瞬間だった。


「……あれ、掲示板に何か貼り出されてる……?」


 ふと視線を向けたミリアが、丘のふもとの掲示板に目をとめる。


 風に揺れる紙の掲示。


 そこに書かれていたのは、衝撃的な一文だった。


『登録拒否された魔獣たちによる騒動、各地で相次ぐ』


「……!」


 ティムの表情が引き締まる。


 “今、守らなきゃいけないもの”が、確かにそこにあると、心が叫んでいた。




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ここまで読んでくださってありがとうございます!


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