Beat for You
水瀬 詩織
第1話:0ヶ月目〜はじまり
目を覚ますと、柔らかなシーツの感触が肌に心地よく広がっていた。薄暗い部屋の中、かすかな街灯の光がカーテンの隙間から差し込んで、無骨な雰囲気の部屋をほのかに照らし出している。
深月が隣に目をやると、翔馬がいた。いつもは険しく光る目が今は閉じられ、穏やかな寝顔をさらしている。
こうして見ると、一緒にダンスをしている時は強くて大人っぽい彼が、どこか幼く見えて、そういえば年齢自体は同じだったと気付かされる。
「可愛い…」
愛おしさがこみ上げてきて、思わず呟いた。今更だが、こんな関係になることが、まだ夢みたいで。
(最初はこうなるなんて、思わなかった)
夜の静寂の中、ひとり、これまでのことに思いを馳せた。
卒業。
学生生活を終えてから、縁がないと思っていた2文字。
それが今、目の前の手のひらサイズの長方形に映し出されている。
「ということで、私、SunnyYukaはこの度、配信者活動を卒業することになりました!」
彼女の言葉の後には、いつものように賑やかすような効果音は鳴らない。
「えっとですねー、実はもう1年くらい?はどうするか考えていて…」
曰く、感染症の折の巣篭もり期間と大学生生活が重なり、学業を頑張るために気晴らしに始めた活動に、自分が思っていた以上に反響があり、多くの人の温かい言葉に触れることが楽しくなったため、ここまでずっと続けてきた。
しかし、クリエイターとしては中途半端な数字に収束した状態。このままこの活動で食べていくビジョンも特に見えないため、今回の大学卒業を機に、動画配信も卒業して、これからは一般企業の会社員として働いていきたい、とのことだった。
いつもの明るい声はそのままに、でもどこか寂しそうな表情で、画面の中の推しは説明を終えると、「あ、でも別に動画を更新しなくなるだけなんで!普通にどこかで生きてるしw、ダンスは個人的に続けていくので、もしナンバーとかイベントとかで見かけたら声かけてくださいー!」と、そう締め括った。
それから、どう過ごしたか全然思い出せない。
気づいたらいつも通りの朝を迎えて、いつもの通勤電車に乗っている。
なぜ、こんな気持ちでも、人間はいつも通り働きに出なければならないのか…。うちの会社に推し活関連の福利厚生が導入されていないことを、これほどまでに恨めしく思ったことはない。
(せめてリモートワークの日だったらなぁ…)
こんな顔で出社するなんて。自分でもよく頑張っていると思う。
藤咲深月には推しがいた。
女子大生で、いわゆる「踊ってみた」と題される、オリジナルのダンス動画をアップしている動画配信者だ。
数年前、世間を騒がせた感染症対策の自宅待機の折、暇を持て余してふと動画配信サイトを開いたところ、目に飛び込んできたのが、彼女の動画だった。
高校を卒業して間もない、まだややあどけなさの残る彼女が、キラキラした笑顔で自室で踊る動画。
当時流行っていた動画の形式で、何か特別変わったことはしていない。
けれど、その彼女の動画に心が惹かれた。
深月にはダンスの良し悪しは分からないが、彼女は普通に上手い部類だと思う。けれど、それ以上に、この状況にも負けないように、弾けんばかりの笑顔で踊る彼女の明るさに惹かれた。
「えっと、SunnyYukaでーす!いっぱいダンス動画上げるので、また見てってください!」と、最後に手を振る彼女に、思わず笑みがこぼれた。
それから、色々な動画を見た。
ダンスの動画はもちろん、普段の授業がどうなっているか、これからの生活について…。
彼女なりに、不安がないわけではなかったようだったが、動画ではいつも明るく語っていて、「ダンスのモチベがあるから、色々大変だけど頑張れるんだー」と笑う彼女に、元気をもらっていて、気づけば更新されるたびにすぐに新作動画を見たり、生配信を追うようになっていた。
大学生になったばかりの女の子がこんなに明るく頑張っているんだ。社会人の私が挫けていられない。
仕事で失敗をしたり、理不尽なことがあっても、推しのダンス、そして笑顔を見るだけで、また新たな気持ちで会社に迎える。
…そんな生活も、昨日をもって終わりを迎えてしまったのだ。
「これから何見て過ごそう…」
昼休憩中、コンビニで買ってきたおにぎりを齧りながら、配信サイトを回遊する。
言ってみれば、大学入学直後から卒業までSunnyYukaを追っていたわけだ。もちろん、関連動画から他の配信者のダンス動画を見ていたりもするが、彼女ほどハマれるような人には、もう会えないような気がしていた。
「深月珍しいじゃん!今日お弁当じゃないんだ!」
その声に顔を上げると、同僚の麻理がいた。
「うん…今日はちょっと作る元気なくて」
「えーどしたん…あ、さにゆかちゃんか。私も見たわ、昨日の配信」
無言で頷く。
「まあ、いつかこうなるかもって覚悟はしてたよ。私はめっちゃ好きだったけど、チャンネル登録者数としてはそこまで強くなかったし、本業として続けていくことはないんだろうなー、とか」
「今は動画配信者の戦国時代だからねー。にしても、いざその時が来るときついのは分かるよ」
推しは推せるうちに推しとけってやつだよ、と、麻理がしみじみと呟く。彼女もまた、メディアでも有名なアイドルグループを推しており、メンバーの入れ替わりを何度か経験してきている。心構えが違うなあ、と同僚の横顔を眺めて深月は思う。
「んで、新しい推しは?探したりすんの?」
「んー、悩んでる。なんかもう一区切りついたし、しばらくは考えられないや…」
「言ったらあんた、さにゆかちゃんに一目惚れだもんねぇ…同じくらいか、それ以上にビビッと来る人じゃないとダメかー」
こっちの界隈に引きずり込むチャンスだと思ったけどむずいなー、とおどける麻理の言葉に、思わずクスリと笑う。こちらの気持ちも汲みつつ、暗くならないように元気づけてくれる。さすが、営業チームでも優秀な成績をおさめる彼女は気遣いがすごい。この同僚には敵わないな、とつくづく思った。
ありがとね、と声をかけて自分のデスクに戻ろうとしたその時、あ、と麻理が何かを思いついたように声を上げた。
「じゃあさ、いっそのこと、アンタもダンス始めちゃえば?」
「…は?」
「だってさ、さにゆかちゃん、ダンスは続けるって言ってたじゃん。ヒップホップ?だっけ?やってたの。じゃああんたもそれ系のダンス始めれば、イベントで会えるチャンスとかも増えそうじゃん?」
「さすがに何を言ってんの?」
心の底から出た声だった。
「いや無理でしょ!ストリートダンスって、なんか若い人多そうだし、私くらいのアラサーの年代だと、もうベテランで上手い人ばっかりしかいなさそうじゃん!」
「うん?」
「だから!この年齢で初心者が飛び込むにはハードル高すぎるって!しかも私ダンスやったことないし、何なら下手な方だよ!?身体硬いし!!」
「まーそうかもね?」
「そうかもねって…」飄々とした同僚に毒気を抜かれて、それ以上の言葉が出なくなった。
「確かに、あたしもイメージだけだけど、ああいう世界ってキッズとか未成年の時からやってないと肩身狭そうな感じはあるし、この歳で初心者です!って入っていくには結構難しそうだとは思うよ。でもさぁ…」
麻理は持っていた紙パックのいちご牛乳を一気に飲み干す。ストローから口を離すと、ぽこっ、と威勢のいい音がした。
「どうせ次に生き甲斐になるものが見つからなそうなら、ずっと推しを思い続けてもいいじゃん?かといって立ち止まっててもあれだからさ、推しの好きなものをあんたなりに追っていけば、また推しに会えるかもだし、新しい生き甲斐に会える可能性も高くなるんじゃないかなーと思ってさ」
あんた、身体動かすこと自体は好きじゃん、と、ニヤッと笑って深月を見上げる。
「ロジックになってないような気が…」
「まあまあいいじゃん。要は、とりあえずなんかしてみろってこと!」
でさ、と、麻理はバッグから紙を取り出す。
「午前中に行った客先で、なんかイベントのチラシもらってさ。せっかくだし行ってみれば?あたし予定合わなくて、あんたが行ってレポしてくれれば、営業トークのネタになりそうだし」
そのチラシには、「スクールオープン記念!初心者向けダンスワークショップ」と書かれていた。
「初心者の大人のためのダンススクールなんだって。色んなジャンルのワークショップやるみたいで。あんたターゲットとしてドンピシャだし、行ってくれるとすごい助かるなー」
「…なんか、うまいこと使われたような気が…」
「細かいことは気にしない!というわけで、報告よろ!」
手をひらひらと振りながら、麻理は自分のデスクへ戻っていった。
「ちょっと!まだ私行くなんて…」
(…考えてなかったのに…!)
その週末の土曜日、深月はチラシを握りしめて、ダンススクールの前に立っていた。
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