第4話 押し付けられた婚約相手
漏れそうになった声を抑えて、私は廊下の柱の影に身を潜めた。ここで見つかったら面倒なことになる。玄関先に居る彼らに私の声は聞こえなかったようで、幸いにも気づかれることはなかった。妹と両親は、話し合いを続けていた。
「む、無茶を言うなヴィヴィアン。結婚するのが嫌だから、代わりにエレノアを差し出すなどと。お前の婚約は、両家で話し合って決めた大事な契約だ。それを破棄するだけじゃなく、姉を代わりにするなどと無茶な――」
「もちろん、大事な婚約だということは理解していますわよ」
ヴィヴィアンは父の言葉を遮って、天使のような笑顔で言い訳を続けた。そこには一片の反省の色もない。
「ただ、向こうが勝手に仕事に失敗したのです。怪我も負ったらしいし、婚約相手としての価値が下がったでしょ。そんな相手、ごめんですわ」
価値が下がった。その言葉に、私は思わず眉をひそめた。人を物のように評価する妹の姿勢に、今更ながら嫌悪感を覚える。
「しかし、なぁ……」
「ただ破棄するんじゃなくて、姉を代わりに差し出すんですよ」
ヴィヴィアンは、まるで名案を思いついたかのように両手を広げた。
「婚約相手が居ないお姉様ならば、喜んで引き受けるでしょう。仕事を失敗して出世が絶望的になったらしい彼も、きっと新しい婚約相手を探すのに苦労するでしょう。世話をする人も必要でしょうから。お互い価値の低い者同士、お似合いのお相手じゃありませんこと?」
「……」
そんな勝手な話。普通に考えて、上手くいくはずがない。相手の家も了承するはずがないし、ウィンターフェイド侯爵家との関係にヒビが入ることになるだろう。それなのに。
「ねぇ、お願い! どうにかして、お父様」
ヴィヴィアンは甘えた声で父にすがりついた。その姿は、まるで幼い子供のようだ。でも彼女の目には、計算高い光が宿っていた。こうすれば、言う事を聞いてくれる。そういう確信があった。
「うーむ。……わかった、ウィンターフェイド家と話し合ってみよう」
「わーい! ありがとう、お父様ッ!」
ヴィヴィアンは飛び上がって喜んだ。母も嬉しそうに微笑む。まるで一家団欒の美しい光景。
「な!?」
私は再び驚いた。本当に話し合うつもりなのか。妹にお願いされただけで、安請け合いする父親。あれが、私の父であり、ヴァンローゼ侯爵家の当主だなんて信じられない。そんなことをしていたら、ヴァンローゼ侯爵家は貴族社会から弾かれてしまうかもしれない。
家を離れたい理由がまた一つ増えた。私は、彼女たちの愚かな行為に巻き込まれたくなかった。
その後私は、何事もなかったかのように、静かに身を引いた。そして、彼らよりも先に食堂へ行き、話し終えた彼らが到着するのを静かに待っていた。盗み聞きしていたことを悟られないように、目を伏せて黙って席に座っている。いつものように。
案の定、その日もいつもと同じように妹から嫌がらせを受けた私。両親も、いつものように姉妹の単なるじゃれ合いだとスルーして、私は夕食を少しだけしか食べられなかった。
* * *
それから1週間後。私は「大事な話がある」と父に書斎へ呼び出された。心の中で「まさか」と思いながら、私は静かにドアをノックした。
「入りなさい」
重厚な木製の扉を開けると、父が机に向かって座っていた。窓から差し込む光が、彼の白髪混じりの頭に反射している。
「座れ」
「はい」
指示された椅子に座る。
「呼びつけたのは、お前の今後のことについて話すためだ」
父は前置きもなく切り出した。机の上の書類を無造作に整理しながら、ほとんど私の顔を見ようともしない。
「とある事情により、ヴィヴィアンの代わりにお前がウィンターフェイド侯爵家長男と婚約し直すことになった」
心臓が一拍跳ねた気がした。本当に実現してしまったのだ。冷静さを装って、何も知らないフリを続けた私は静かに答えた。
「……わかりました」
妹のワガママで結婚するのを嫌がり、代わりとして私が新しい婚約相手になった。そういう事情を詳しく説明してもらうこともなく、私はウィンターフェイド家に嫁ぐことが決まった。まるで駒のように動かされる身分。でも、それが私の現実だった。
驚いたことに、ウィンターフェイド家は婚約相手の代わりを認めたらしい。
どういう話し合いが行われたのか、私には知る由もない。だが、こちらの一方的な理由により婚約を破棄した。おそらく、ウィンターフェイド家の我が家に対する印象は最悪かもしれない。そんな場所へ送られる不安が胸の奥で膨らんだ。
だけど、既に決まったことだという。当然、私に拒否権なんてものは無い。言われた通り、指示に従うだけ。
それに、相手の家に嫁ぐということはヴァンローゼ家から離れられるということ。妹と両親から離れることができる。思いがけず、私の願いが叶うことになった。それが嬉しかった。紡錘にかけられた糸が切れるような、解放感。
「早速だがお前には、ウィンターフェイド家へ行ってもらう。向こうの家で、婚約相手のお世話をしなさい」
父は事務的に言った。私のことなどなんとも思っていない、命令するような口調だった。
「はい」
私は無表情を貫いて、頷いた。感情を見せれば、また何かと言いがかりをつけられるかもしれないから。
「荷物は明日までに準備しろ。明後日の朝一番で出発だ」
「はい」
父はそう言って、もう私を見向きもしなかった。この会話は終わりだという合図。席から立ち上がって、父の書斎から出ていく。
あまりにも突然な話だった。だけど、私にとっては待ちに待った出来事でもある。父親に認められて、公式に家を離れる許可をもらえた。こんなに嬉しいことはない。部屋に戻った私は、初めて心から笑った気がした。
これから私は、ウィンターフェイド家に行く。
妹の代わりに私が婚約者になったという、ウィンターフェイド侯爵家長男のエドモンド様のお世話を命じられて。
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