第五章 引き合うふたりが謳うもの 2

「わふーーーー! 自由ってサイコーーーーーーっ! 脳内フリーーーーっ!」

 自室に戻るとレオナが変な踊りを踊っていた。最近は報告書作成のために会話不能な状態が続いていたが、昨晩ついに完成し、その解放感からまた別の方向でネジが外れたらしい。近いうちに潜伏派から攻められるというのに、よくもまあ、とサスは呆れてしまう。

「あ、サスさんお帰りなさい!」

「ただいま。シリムは?」

「研究室です。学府から来たエラい人と、報告書の整合性の最終チェック中ですね。アタシは体調悪いって逃げてきました。ま、ともかくこれでようやく対宇宙スケーリング説が正式に成りますよ。もー、今後の研究、いろいろと捗りまくりです」

「そう、良かったね」

 サスはテーブルの椅子を引いて、座り込む。正直、あまりにも憂うことが多すぎて、学術的なことには全く興味が湧かなかった。

 そんな彼の様子に、さすがのレオナも真面目な顔になって言う。

「……サスさん、お疲れですね。なんだかアタシの知らない間に、この街が戦争に巻き込まれるって話になっててびっくりしたんですけど、その関係ですか?」

「ああ、うん、まあ、そうだね……」

「えっと……アタシでよければ話、聞きますけど……」

 おずおずと訊いてくる。さっきまですごいテンションだった同一人物とは思えない。なんとなくその対比がおかしくて気がほぐれ、サスは胸中を話す気持ちになれた。

「実は……何日か前に、僕とシリムで潜伏派の拠点を制圧したんだけど」

「すごいパワーのある導入」

 目をぱちぱち瞬かせるレオナに、サスは自分がシリムの静止を振り切って攻撃を仕掛け、結果的に窮地に追い詰められたことを赤裸々に語った。

「以前も同じことがあったんだ。姉さんの静止を振り切って出陣して……まんまとジュキナを操ったリライに殺されかけて、姉さんに救われた。今回もその繰り返しだった」

「ああ……なるほど」

「僕はシリムと出会ってから、兄さんや姉さんの気持ちがわかって、キツい修行をこなして強くなれた気がしてたけど……根本的なところは全く変わってなかった。シリムのこと、守るとか置いていかないとか約束したくせに、シリムに酷いことを言って、どうしようもなく傷つけた。……この先、大きな戦いが待ってるのに、こんな自分で大丈夫なのか、わからなくて……不安なんだ」

 話しながら、あまりにも弱々しい自分に腹が立ってきた。許せないし、もどかしい。ただ、この気持ちのままでいれば、また同じことを繰り返すだろう。暗い袋小路に追い詰められているような気分だった。

 そんな情けない話を聞いたレオナは、口に手をあてがい至って冷静に訊いてきた。

「ひとつ気になるんですけど、その時のサスさんの最適解ってなんだったんですかね」

「……え?」

「調教されたジュキナを見て、その後の行動です。アタシ的にはそのジュキナを倒したことは正解だと思います。戦力として一匹削るだけでも大きいですし。ただ、その後がまずかった。ですよね?」

「あ、うん……そうだね」

 確かに、ジュキナを倒すところまでは完璧に思い通りにいっていた。予定が狂ったのは、周囲の調教師たちが怖じ気つかずに立ち向かってきたところで……でも、それが予測できたとしても、リライの登場は読めなかった。だとすれば、あの場の最適解なんてなかったんじゃ……でも──。

「サスさん」

 思考の迷宮に迷い込んでしまったサスに、レオナが言う。

「どーしても問題がどん詰まりに見えたら、前提が違うんです」

「前提が……ちがう?」

「はい。だから、前提を疑ってみる。視点を変えてみる。それが謎解きのド定石です」

 レオナにはなにかが見えているようだった。でも、その答えをあえて言わないのは──自分で気がつかなければ意味がない、からか。

 しかし、わからない。糊で固められたように頭が働かない。陰鬱な気分だけがどくどくと噴き出してくる。

 窮したサスがテーブルに肘をついて頭を抱えた、その時、部屋の扉が開いた。

「ただいま……あっ、サス、と、レオナ……」

「シリム……おかえり」「おかえりなさい」

 研究室から戻ったシリムは、向き合ったふたりを困惑したように見比べた。

「なんの話してたの? まさか、レオナ、サスのことわたしから奪おうとして……」

「ちがいますちがいます。お悩み相談受けてたんですよ」

 いつもの勘ぐりに、レオナはもう慣れたように手をぶんぶん振る。すると、シリムはいっそう不安そうな表情を浮かべてサスを見た。

「な、悩みってサス、やっぱり、わたしが頼りないからもう連れて行くの無理ってなっちゃったの?」

「いや、そんなわけ……うん?」

 サスはシリムの台詞に引っかかりを覚える。

「頼りないって……どういうこと」

「だって、あの時、わたしもサスと一緒に飛び出していけば……サスと一緒に戦えていれば、サスはあんな危ない目には遭わなかったし、リライって人も捕まえられてたかも知れなかったのに……どうしても怖くって、ただ、見てるだけしかできなくて……」

「それは僕が君を置いてったからだし、ちゃんと最後には助けてくれたじゃないか」

「でも、結局、危なくなるまで助けてあげられなかったし、それも誰もわたしに気づいてなかったからできただけ──ごめんね、こんなんじゃ、お荷物と変わらないよね。こんなに一緒についていく、連れてってってわがままいったのに、こんなんじゃわたし……サスと一緒になんか……」

 シリムの目に涙が浮かぶ。零れると同時に消えてしまう光の粒に、サスの心は締め付けられるようだった。

 違う。違うんだ。シリムが自分を責めるようなことじゃないんだ。

 そう言いたい。だけど、そう言っても、シリムの心には届かないと思った。どうしようもないほどの本音なのに、薄っぺらく響いてしまいそうな気がして。

 サスは自分がどんな言葉を差し向ければいいのかわからず、レオナを見た。

「ヒントが欲しいですか」

 レオナはまっすぐにサスを見据えて言った。その大きな茶色の瞳に、サスはすがるようにうなずく。レオナは少し間を置いて、口を開いた。

「サスさんはひとりじゃないんですよ」

 そうして、言われたのはそんなことだった。そんなわかりきったことを、とサスは少しの怒りすら覚える。

「そんなの、わかってる。だからこそ、僕は……」

「ひとりで突っ込んだんですか?」

 しかし、そんな単純な返しに、サスは胸を貫かれたような衝撃を受けた。思わず、不安そうに両手を重ね合わせたシリムに目を向けてしまう。

『だったら、サス、もっと冷静になって、考えましょう……』

 あの時のシリムは、決してサスの意見に反対したわけじゃなかった。ただ、サスに無茶をさせまいとする過去の姉の姿と重なって、勝手に意見を否定されたと思い込んだだけだ。

 すべて自分でなんとかする。僕の強さを認めさせてやる。

 自分の足だけで、きちんと立ってみせる。

 間違っていた「前提」とは、サスのそんな根源的な欲求だった。

 ゼルキドで肥大化した、サスの根底にある子供っぽい意固地な部分が、シリムの言葉を否定して、その手を振り払ってしまった──。

「わかった……あの時の最適解は」

 サスは呆然と呟く。

「シリムとしっかりと話すことだった」

 なんてわかりきった、つまらない回答だろうか。でも、事実、そうだった。

「あの時、冷静になって話し合っていれば、シリムの恐怖を和らげられた。取り巻きが戦意喪失しない筋も想定できた。対人戦に向かないゼルキドの残り時間も調整できた。サスがジュキナを倒し、シリムが周囲の兵を片付けるという役割分担だってできた。リライが駆けつけても、彼がシリムの力を知らないところを突いて、そのまま拘束出来た可能性だってある。そしたら、ローズミルの街が襲われることもなかったかも知れない。だけど、その線を僕は……全部、自分で潰したんだ。ちっぽけなプライドのために──」

 思えば、僕の人生はずっとそうだったんじゃないのか? なにもかもが最初から間違っていたんじゃないのか? 救えたはずのなにかも無為にしてきたんじゃないのか。兄も、姉も、本当だったら、無事でいられる未来があったんじゃないのか。

「う、そんな……僕は、いったい今までなんのために……」

 怒濤の後悔の念が押し寄せてきた。恐ろしいほどの重みがサスの意識を圧迫し、目の前がずっしりと暗くなっていく。身体が冷えていく。取り返しのつかなくなってしまった、という巨大な絶望が淀んだ闇となって、サスを身体の内側から黒々と塗り潰していく──。

「やっぱり、僕が、いなくなればよかった──」

 兄ではなく、姉ではなく、父ではなく──この、僕が……。

「サス」

 その時、サスの身体がくいっと引かれた。重苦しく淀んでいた身体がふわっと軽くなり、椅子から立たされて、吸い寄せられる。

 その先には腕を広げたシリムがいた。サスは彼女の引力に寄せられて、きゅっと抱きしめられる。膜の張ったような不思議な感触が、彼の輪郭を包み込む。まるで揺り籠で揺られるような浮遊感……。

「そんなこと言わないで。サスがいなかったら、わたし、ずっと……死んだことにも気がつかないで、あの暗がりで永遠にひとりぼっちだった」

「シリム……」

 そうだった。あまりにも当たり前にいるせいで忘れてしまうが──本来のシリムの身体は、その身体の内側でバラバラにほどけてしまっているのだ。

「こんなわたしでも、ちゃんとサスに救われてるよ。サスがいて、本当によかったって思ってるよ。なにもかもなくなったわたしに残ってるのは、サスといたいって気持ちだけなんだよ。サスが死んだら、もう、どうしたらいいか、わからなくなっちゃう。だから、死ぬなんて言わないで。わたし、絶対に、ずっとずっと傍にいるから。どんな目にあっても、サスのこと、信じてるから。サスは、大丈夫、大丈夫だから……サスのこと、信じてるから。だから、お願い、ここにいて、サス」

 シリムが「ここに」と口にした時、その引力が消えてサスの足が床についた。足裏から、この星の引力を感じる。その引力がサスの存在を肯定する。

「……そうですよ。アタシだってサスさんがいなければ、今頃ジュキナの筋繊維になってるところです。ホントに、感謝してもしきれないくらいです」

 レオナも傍らに立って、前のめりに言う。

「サスさんは失ったものじゃなくて、なにを得てきたのかも考えてみるべきです」

「僕が……得てきたもの……」

 サスは呆然と呟き、自分をひしと抱きしめる少女を見下ろす。彼女は空色の髪を振り乱し、紫色の瞳で彼を見上げている。

「サス……」

 そのすがるような声が、かつての自分と重なる。置いていかないで、と兄や姉に追いすがる幼き日。

『サス、お前は強くならなくていいんだぞ。俺がいるからな』

 兄の声が聞こえる。何度も、何度も、蘇ってきたその言葉が──今、また、全く違った解釈をサスにもたらしてくれる。

「僕は……強くならなくて、いい……」

 サスが辿り着いたのはそんな文字通りの解釈だった。ずいぶんと遠回りをした気がする。でも、必要な遠回りだったのだろう。

「うん、そうだよ。だって、サスは……もう、強いんだから」

 そのシリムの言葉に、目の奥が熱くなった。心の裡にわだかまり詰まっていた重いものが、別の宇宙へと流されて消えていくようだった。

 そうか、僕がずっと聞きたかったのは、その言葉だったんだ。

 僕はもう、とっくに手に入れていたんだ。もう、大丈夫、なんだ──どんな重みの中だって、歩いていけるんだ。

 そう静かに悟った時、サスの心は決まった。

「シリム……次の戦いに、僕と一緒に来てくれる?」

 シリムの表情に光が差した。

「うん、もちろん!」

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