第四章 少女と過去の重力場 1

 アズヴァ最大級の前線地域に近く位置するローズミルの街には、浮き草のように人が流れ着き、続々と流れ出ていく。もともと機能的で殺風景な拠点だったところへ、投機目的の商人や行き場を失った人々が集まって棲み着いた結果、現在ではハクヌス有数の規模を誇る拠点へと成長したとか。

 前線に近いということは、当然他の街に比べて危険度は数段高い。潜伏派の工作員が紛れ込んでいたり、ジュキナに襲撃されるリスクもある。それなのに、街路を行くと小さな子供の手を引く家族の姿が見られたりする。ここに腰を落ち着かせようとする人々が珍しくないのだ。それだけ人の数に対して世界は狭いままで、また別の視点を取れば、ローズミルを警護にあたる調査団への信頼が厚いのだと言える。

「あれ? サス・ルンターズ!」

 そんなことを考えながらサスがひとり街中を歩いていると、突然、女性に声をかけられた。人違いかと思ったが、その顔は明らかにこちらに向けられている。誰だろうか──と記憶をひっくり返してみる。

「あ、臨時部隊の。もうローズミルに戻ってたんだ」

 運良く思い出すことができた。彼女はスキナの大群を駆除していた時の部隊のひとりだ。そのままジュキナ養殖場の調査任務にシフトしたはずだったので、サスが拠点を発った日以来の再会となる。

「ああ、調査が終わってつい最近な。ざっと二十日間くらいか」

「あれからもう、そんなに経ったのか……直前で離脱して申し訳ない」

 一応、後で戻ろうかとレグダンに問い合わせたものの、人手は間に合っているということで、結局、サスが調査に復帰することはなかった。

「もー、本当に大変だったんだぞ! あのくっせえのが身体に染みついて取れなくてよお……どう? 今も匂う?」

 ぐっと身体を近づかせて、匂いを嗅がせようとしてくる。いや、このタイミングでそれはマズい──サスが思わずさっと身を引くと、相手はショックに目を見開く。

「え? まだそんなに臭いか! むちゃくちゃ洗ったんだけど!」

「い、いや、違う、これはお互いのためで……」

 慌ててサスが弁明しようとした時、それが来た。

「サス、この女の人、誰?」

 ぐっと腕を引っぱられて、囁かれたのは低い声。

 見ると、ガル改めシリム・レイタークが空色の髪をふわりと揺らめかせ、サスの腕にしがみついていた。

「え、その子、いつの間に? あれ? ずっといた?」

 突然出現したとしか思えないシリムに、元同僚が戸惑った様子を見せる。シリムは紫の瞳に敵意を煌めかせ、そんな彼女をきゅっと睨みつけた。

「サスはわたしで間に合ってるので」

「お? すごいこと言われたけど、サス、この子なに?」

 ニタニタ下世話フェイスで訊かれる。油断していた──サスは自由な方の手で顔面を抑えつけた。相手が冗談として通じるタイプで助かった。

「シリム、この人は一ヶ月前の臨時部隊で一緒だった人で──」

「ねえ、今、変なことしようとしてでしょ。わたしにはしたことないのに! あ、もしかして、だからあの時、手紙の返事全然くれなかったの? わたしのことなんかどうでもいいって、忘れちゃってたから、だからそんな──」

「違う、違うって、話を聞いて……」

「あはは、すごいな。もしかして、この子がガルちゃん?」

 軽快に笑い飛ばす元同僚に、シリムはむっとした視線をぶつける。

「うん、そうだけど」

「サスからめちゃくちゃ話聞いたよ。もう、聞いてるこっちが恥ずかしくなるくらい、ガルがガルがって話してたのめっちゃ覚えてる」

「へ……そう、なの?」

 シリムがじっと見上げてくる。サスには肯定も否定もできなかった。覚えはないが、場を流すための嘘かも知れないし、酔って記憶がないままぶちまけたかも知れないからだ。

「そうそう。だから最終的には、そんなに会いたいなら帰っていい! ってみんなで追い返してやったんだ、懐かしいなあ」

「そ、そっか。サス、そんなにわたしのこと……へへ、えへへ、そっか……」

 嘘ではないが本当でもない。その話の盛り方は効果てきめんで、腕にしがみついたシリムがデレデレとし始める。相手の機転で虎口は脱したらしい。サスは苦笑して言う。

「ご、ごめん、まあ、そういうことだから気を悪くしないで」

「面白いもん見させてもらったし、いいって。あ、そうだ、調査結果気になってんならレグダンに連絡しな。あんたに会いたがってたぜ」

「本当に? それはありがたい。あの場所のこと、ずっと気になってたんだ」

「なら臭い思いした甲斐があったぜ。そんじゃ、またどっかでな」

 そう言って、彼女は飄々と去って行った。サスは安堵の息を吐いてから、ぴたっとしがみついているシリムを見下ろす。

「シリム……街中で時空を歪ませるのは危ないからやめなって言ったよね」

「だって、サスが知らない人とキスしようとしてるから」

「だからしてないからね」

「今度から気をつけてね」

「こっちの台詞だからね……というか、君、ここにいていいの。研究室に呼ばれてたんじゃなかったっけ?」

「あ、そうだった!」

 次の瞬間にはシリムはサスの腕から消えていた。遠く目を向けると、せかせかと駆けていく背中が見える。時空を歪ませるなと言ったばかりなのに──サスは溜め息を吐いた。

「もう二十日か……」

 ローズミルへ戻ってシリムの真相を知ってから、もうそれだけの時間が経ったらしい。

 現在の目標は、シリムをサスと前線へ同伴できるほどに鍛え上げることとしていた。それはきっと、兄や姉が自分に許してくれた道であり、サスがルンターズを負って生きていくために選んだ道と同じだった。

 少し前までは無謀に思えたことだが、彼女が魔法を習得したことで今ではかなりの現実味を帯びている。

 シリムは形状記憶をコントロールすることで、自らの質量を自由に増減させることができるようになった。つまり、実質的に重力、時間、空間を自由に操れてしまうのだ。その精度をどんな状態でも保てるようになれば、シリムの重さは唯一無二の強みになりえる。

 更に今、サスが特別に仕込んでいるものが成就すれば──もう誰にも止められなくなるはずだ。サスは確かな手応えを感じていた。

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