第三章 事象の地平から愛を込めて 7

 真っ白な空間の中、ふたり分の紅茶が残されている。どちらも手つかずで、すっかり冷めてしまっていた。淡い琥珀色の水面を見つめながら、サスはなんと声をかければいいか、心の中に言葉を浮かべてはかき消す、ということを繰り返していた。

「ガル……その、なんて言ったらいいか」

 結局、口を衝いて出たのは、そんななんの意味もない台詞だった。過酷な身の上を知ったばかりの少女へかけるには、あまりにも貧弱な言葉。

「ううん。平気。大丈夫。サスがいてくれたから、ちゃんと受け止められた」

 ガルはそう言ってくれたが、以前のような、有無を言わさずこちらの精神をぐっと掴んでくるような勢いはない。気を遣ってくれている。その健気な姿にサスの胸は痛んだ。

「そっか、それなら戻ってきた甲斐があったよ……それで、話したいことって?」

 努めて平静に訊ねると、ガルは胸に両手を当て、意を決したように口を開く。

「その……さっき、わたし、記憶が戻ったって話したよね」

「ああ、うん。最後の実験の時、って言ってたっけ」

「そう。実は……思い出したのは、この世界に来た時のことだけじゃないの。前の世界で暮らしてた時の記憶も、全部、戻ってきてる」

「えっ」

 記憶が、全部? サスは驚いて、身体ごとガルの方を見る。ガルは何かに怯えるように、サスのことを見返して言った。

「前の世界はこの世界に似てて、魔法もあって、もっと技術が進んでた。街の中は車がひっきりなしにたくさん走ってて、空には飛行機って空飛ぶ乗り物が飛んでるくらい……」

 対宇宙の証言だ──サスの心臓がにわかに熱く脈打ち始める。

「つ、続けて」

「うちはお母さんがいなくて、お父さんもずっと仕事で家を空けてたから、歳の離れたお兄ちゃんと一緒に家のことをやってたの。ふざけて遊んだり、怒られてヘコんだり、なんだか心細くなった日は布団の潜り込んだりして……ずっと一緒で、大好きだった。どんなに嫌なことがあっても、お兄ちゃんが家にいてくれるから、わたしは平気だった。だけど……」

 ガルの表情が深く曇って、サスの身にも緊張が走る。

「だけど……?」

「お兄ちゃんが職場の人と結婚することになったの」

「……そ、そうなんだ」

 緊張がどっと解けて、困惑に変わりつつあった。ガルが話したいというならいくらでも聞く覚悟はあるが、この話はどこに向かっているんだろうか。

 困惑するサスに、ガルは両手で自分の身を抱きながら、言う。

「わたし、すごいショックで、ショックを受けたこともショックで、なんかもうわかんなくなっちゃって……『結婚しないで』ってつい言っちゃったの。そしたら、お兄ちゃん、ものすごく悲しそうな顔して……『置いていってごめんね』って」

「ああ……」

 そこまで来て、ガルがどうして全てを差し置いて、自分の家族の話を始めたのか、腑に落ちた。

 ──ガルは、いつか僕の差し向けた問いに答えようとしているんだ。

「その時にわたし、どうしても諦めなくちゃいけないんだって悟ったの。もう、大好きなお兄ちゃんとの毎日は、どこかへ行ってしまった、もう二度と戻ってこないんだって。それがすっごく悲しくて、辛くって、結婚式に隕石が落っこちて全部なくなっちゃえばいいのにって毎日思いながら過ごしてた……そしたら、本当にそうなっちゃった」

「えっ……じゃあ、ガルがワームホールに落ちたのは」

 ガルはこくり、とうなずいた。

「うん、お兄ちゃんの結婚式の最中だった──だから、こんな綺麗な服着てるんだよね」

 そう言って、紺色のワンピースの裾をつまみ、ぱっと離してみせる。

「今もくっきりと思い出せる。綺麗に着飾ったお兄ちゃんがお嫁さんと一緒に幸せそうに歩いてて──その直後、あたりがパッて暗くなって、チャペルもお客さんも空も地面も光も、全部、無くなっちゃった。わたしのせい? って思ったよ。わたしがなくなっちゃえばいいのにって思ったから……って。そこから先はさっき、レオナとエトラの前で話した通り。気づいたら真っ暗闇の中でひとりぼっちになってた」

「……」

「バチが当たったんだって思ってた。大好きなお兄ちゃんの幸せを受け入れられなかったわたしを懲らしめるために、閉じ込められたんだって──あれから、ずっと、ずっと、ずっと後悔してた。ごめんなさい、ごめんなさい、って、ずっと思い続けてた。思い続けて思い続けて……もう、なにを思ってるのかもわからなくなって、気がついた時にはただ、宛先のない純粋な想いだけしか残ってなかった──わたしを置いていかないでって」

 い、行かないで……。

 初めてガルと邂逅した時の、細々とした声が脳裏に蘇ってくる。

 サスは深く息を吐き、言った。

「それが……君が僕を強く求める理由なんだね」

「うん、そう……」

 ──君はどうしてそんなに僕のことを求めるの。

 いつしかサスの放った問いの答えが、今、ガルの口から語られる。

「わたし、自分でもわからないうちに、お兄ちゃんの影をサスに重ねてたんだと思う。記憶も時間に溶けていって、もう絶対に後悔したくない。離れたくないっていう気持ちだけしか、わたしには残ってなかった。その気持ちを今度は、サスにぶつけてしまっていたの……だから、ごめんね」

「……どうして謝るの」

「サスのこと、巻き込んじゃった。足引っ張って、苦しい思いをさせた。今だって、無理矢理呼び戻しちゃってるし……もう、全然、ダメだね。あんなに後悔したのに、わたし、全然変わってないや」

 ガルの目に大粒の涙が浮かぶ。けれど、その粒は目から零れてすぐ、蒸発するように立ち消えてしまう。そこにはガルという現象があるばかりで、本物の涙はないから。

 それでも、その辛さが、悲しみが、本物であるとサスにはわかる。

「いや、君は変われてる。僕がここにいて、君と話しているということ自体、君がこの一ヶ月、頑張って掴んだ成果じゃないか」

「でも……」

「お兄さんが自分の元からいなくなる運命を呪ってばかりだった君じゃない。僕といるためにって、自分の脚で立って、歩けるようになったんだろ。その姿を見せてよ」

 そう言ってサスは立ち上がり、ガルの方へ向き直る。

「……ダメ」

 しかし、ガルは縮こまってうつむいてしまう。

「どうして。他の人たちの前ではできてたんじゃないの」

「……うん。でもサスの前だと、どうしても自信が出ないの。サスの歩幅に合わせられるかどうか、サスの背中に追いつけるかどうか、結局、迷惑になっちゃうんじゃないかって……心の中が、そんな不安ばっかりになっちゃって、脚が動かなくなって……」

 見ると、その脚はかくかくと震えている。

 サスの前で立ち上がってしまえば、もう、支え、支えられ、という今までのような関係ではいられなくなる。未知の世界の中、ずっと頑張り続けなければいけなくなる。そんな、先の見えない不安とせめぎあっている。

 その様子を見て、サスは静かに理解した。

 そうか、ガルの目に僕は、そういう風に見えていたのか。

 追いつかないと、すがりつかないと、振り向きもせず、どこまでも行ってしまう、そんな怒ったような姿に映っていたのか。それくらい余裕がなかったのだ。

 でも、今は違う。サスはサスなりの回答を見つけてここに戻ってきた。そのことを伝えてあげなければ。

「──置いていかないよ。僕も、ひとりは嫌なんだ」

 サスはそう言って、手を差し伸べた。

「君が強くなる必要はない。頑張る必要もない。僕がついてるから。僕が君を守るから」

 かつて、兄に言われた言葉を自分なりに言い換えて、サスは告げる。

 すると、ガルは悲哀の色を目に浮かべた。子供の頃のサス自身のように。

「そ、そんなのやだ。一緒にいるなら、わたしもサスのためになりたい。強くなりたい」

 そう、必要なのは自信じゃない。意思だ。強い気持ちさえあれば、置いていかれることはない。それこそ、サスが兄から教えてもらった最も大事なことだった。

「なら、一緒に歩いて行こう。その重さをふたりでわけあっていこう──ガル」

「サス──」

 ガルはその紫の瞳をいっぱいに広げて、サスを見上げた。

「……ねえ、これはわがままだけど、わたしの本当の名前で呼んでほしい」

「本当の、名前……」

 そういえば記憶が戻ったから──と思ったが、彼女がもともと自分の名前は覚えていたのを思い出す。どうしてか発音できないと言っていて、それでレオナが「ガル」と仮でつけたのだった。

「うん。前にうまく言えなかったのは多分、わたしが住んでた宇宙の星とは音の伝わり方とかが違ってるから、固有の名前を正確に発音しようとすると、全然違う音として出てきちゃうからだと思う」

「なるほど……? なら結局、本当の名前は呼べないんじゃ」

「うん。でも、本当のわたしはバラバラになってもういない。だから、この星でも伝わる、似た響きの名前で呼んでほしいの」

 そうして、彼女は自らの名前を口にする。

 ──シリム・レイターク。

「ううん、シリム・ガル・レイターク……かな」

 そこに彼女は慣れ親しんできた〈ガル〉の名を付け加えた。そこにサスは、自らの複雑な在り方を受け入れて、ここから歩み始めるのだ、という彼女の強い決意を感じる。

「わかった──シリム」

 サスは彼女の名前を呼んで、再び手を差し伸べた。

「一緒に行こう。その重さをふたりでわけあって」

「うんっ!」

 彼女は嬉しそうにうなずくと、サスの手を取って、脚に力を込める。

 そして、立ち上がった。手のひらひとつ分、低いところから紫の瞳が見上げてくる。

 堂々と立ち上がる彼女の姿は神秘的だった、とエトラが言っていた。あれは誇張ではなかったのだな、と感じる。何気ないその所作ひとつで、サスの心はぐっと掴まれていた。

 ああ、ついに──感嘆の声が漏れそうになる。

「迎えに来てくれてありがとう、サスっ! わたしたち、ずっと、ずっと一緒だよ!」

 シリム・ガル・レイタークはサスの手をぎゅっと握りしめ、力強く言った。久々に味わうその重い一言に、彼女の放つもうひとつの引力を強く感じたのだった。

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