第三章 事象の地平から愛を込めて 6
「まず、ガルはいつ、どこから現われ、朽ち果てた祭祀場に横たわることになったのか、というところから始めよう」
エトラはそう切り出した。間に置かれた空いた椅子には紅茶のカップが四人分置かれていて、静かに湯気を立てている。例によってレオナが淹れてくれたものだ。真っ白いだけの飾り気のない空間で、空気だけは華やかな香りで彩られる。ありがたいとは思うが、安らぐものが必要なほど、難解な情報が出てくるのではないかと身構えてしまう。
「といっても、『いつ』に関してはわかっているよな」
「うん、前に聞いた。崩星の時だよね」
エトラの問いに、サスは答える。三十六年前、人類存続のためのハクヌス主導プロジェクトで、星全体に施術された形状記憶魔法が今もガルの形姿を保っている、と。
ガルは特に反応は見せていない。彼女もどこかのタイミングで聞き及んだようだ。
「厳密には、崩星の時点では確実に存在していた、ただし、崩星と共に現われた可能性が非常に高い、というところだ」
「それは、彼女の傍らに潰れたワームホールがあったから」
「ああ。崩星の際、大小無数のワームホールが生み出された。一部のものは今も残ってジュキナを生み出し続けているが、大多数は一瞬だけ存在し、自重に潰れて消失した。状況的に、ガルはこの一瞬の隙間に現われたと見るしかない」
「ガルは……ジュキナたちと同じ対宇宙からやってきたと」
状況的にそう取るしかないはずなのだが、エトラは首を縦に振らない。そういえば、前にサスが同じようなことを言った時も、レオナは「なんとも」と曖昧な答えを口にしていたのを思い出す。
「ワームホールから人間が現われた、或いは人間の存在を証明する物品が発見された事例は、この三十六年間、一度も確認されていない。そのため、少なくともワームホールで接続された対宇宙空間に、知的生命体は存在しないとするのが定説になっている。ガルが対宇宙から来たと判断すると、従来の学説との矛盾を来してしまう」
「こうなると学府っていう組織はなかなか面倒なんですよねえ……」
レオナがぼやく。学府は首都ヘルヴィツァにあるハクヌス国お抱えの学者組織で、崩星以前から存在し、サスの母方の祖父もその一員として星の形状記憶作戦に深く関わっていたらしい。長い歴史がある分、定説には権威が宿り、覆すのはそうそう簡単ではないのだろう。だから、ガルの出自に関しては慎重な態度を取っていたわけだ。
「そこでレオナが、その矛盾を解消するひとつの画期的な説を提出した」
エトラから視線を受けて、レオナは言った。
「こちらの宇宙とワームホールで繋がった先の対宇宙って、実は統一場のスケールが一致してないんじゃないかって考えました。具体的に言うと──この宇宙は小さい世界、あっちの宇宙は大きな世界なんじゃないか、って話です」
あまりにも常識離れした発言に、サスの意識はどこにも辿り着けなかった。
「は……どういうこと?」
「ジュキナはこちらの宇宙にとっては恐ろしい巨大生物ですが、あっちの宇宙では手のひらに載る程度の小型生物でしかない。だとすれば、人間がワームホールから現われない理由もうなずけませんか? ワームホールが小さすぎて、入れないんですよ」
小さい世界と大きい世界が繋がっている?
本当にあまりにも突飛な発想に、サスはなにを言ってるんだ、と呆れてしまいそうになる。それは学府の人たちだって面倒にならざるをえないのでは。
ただ、ここでレオナを信頼しなければ先に進めない。ひとまず呑み込んでサスは訊く。
「万が一、それが正しいとしてガルはどうなる? 僕たちと同じサイズじゃないか」
「崩星は全ての物理的ルールが一時的に吹き飛んだ、常識外れのイベントです。だって、できるはずもないワームホールがボンボコできたんですよ? あっちの宇宙に、人間が入れるサイズのワームホールが一瞬通じたとしてもおかしくありません」
「そうかも知れないけど、ガルがこの宇宙にとっての普通サイズになってる理由にはなってないような」
「それはもう、ワームホールの中で縮んでしまったんでしょうね」
「いや、温水で洗っちゃった毛編みの服じゃないんだから……」
冗談なのかと思って半笑いで言うと、エトラとレオナがしらーっとした眼差しでサスを見てきた。なんだろう、この気まずい感じ。まさか、本当に──?
エトラが紅茶を一口含んでから、言う。
「崩星以降、ジュキナが平然とワームホールを通ってきているのは、星にかかった形状記憶魔法の副作用だと言われている。その効果をワームホールが取り込み、入り込んだジュキナに与えて対宇宙での巨体を維持する力を与えている」
「そんな仕組みだったなんて初耳だけど……それが今の話と、なんの関係が?」
「忘れがちだが、もともとワームホールは超高密度・超高エネルギーの塊だ。そんな中へ、形状記憶抜きで入れば──」
パチン、とレオナが両手を鳴らした。
「一瞬でぺっちゃんこです」
「ぺっちゃんこ……って、え、つまり……縮んじゃったっていうのは、本当にそのまま、文字通りの意味?」
「アタシはだいたい文字通りのことしか言いませんよ」
口を尖らせるレオナに、サスは言葉を失った。
「崩星の時、ワームホールができた瞬間と、形状記憶魔法のかけられた瞬間に、多少のタイムラグがあったんでしょう。エネルギーのスケールがバカでかい出来事ですから、時間の進みが極端に遅くなり、僅かな時間の中でいろんなことが起こりえたと推測されます」
レオナはそこで言葉を切って、自分の淹れた紅茶をこくこくと飲む。
「ガルちゃんは崩星が起こった瞬間、あっちの宇宙の規格外のワームホールに呑み込まれ、あっという間に身体が縮んで縮んで縮んで──ちょうどいい塩梅になった頃合いで、こっちの宇宙の星全域へかけられた形状記憶魔法に呑み込まれた。形状記憶魔法にはこの宇宙の物理法則が織り込まれているので、ガルちゃんの身体はアタシたちにとっての標準的な人の形姿を目指したんでしょう」
サスはガルの横顔を見た。彼女はじっと、床の白色に視線を落としている。なにを考えているのか、まるでわからない。
「つまり、ガルは……もともとこの宇宙のスケールから見て巨大だったのを、重さはそのままにこの宇宙のサイズ感まで圧縮されてしまったから、見た目以上に質量の高い存在になってしまった……ってことで合ってる?」
「おお、サスさん、芯を捉えてますね。ただ──ちょっと違います。正味、その程度、圧縮された程度で重力が発生するほどの重さにはなりません。真の問題は、形状記憶が破れてしまっている、というところです」
レオナは物憂そうにガルの顔に目を向けた。
「ガルちゃんに形状記憶がかかったのはあくまで偶然、『ついで』です。ワームホールの中にいたはずですし、半端なかかり方になってしまったんでしょう。その結果、魔法の効果で形状は維持したままに、物質としては圧縮され続けることになり、無限に重たくなり続けるという歪な状態になってしまったのではないか、という仮説が成り立ちました」
ああ、とサスは声を漏らした。ここで、以前エトラが言っていた「無限に重くなり続ける状態」という話に繋がるのか。つまり、ガルの輪郭の内側では、巨大だったガル自身の身体がぎゅうぎゅうに押し潰される状態が延々と続いている──ということだ。
「それを検証するために作られたのが、この実験室ってわけさ」
エトラが椅子から立ち上がり、真っ白な天井を見上げながら言う。
「これまで話してきたことは全て、レオナが脳内で組み立てた仮説でしかない。だから、ガルの放つシュワル因子やエネルギーの解析を通して、ひとつずつエビデンスを積んできわけだが、最終的にはどうしても、三十六年間、ガルの中で圧縮され続けた質量の存在を示す必要があった。つまり、形状記憶を限界まで剥ぎ、それが想定量と一致するか、という検証だ」
「もう、半端じゃないくらい莫大な質量が予想されました。そんな実験、あの研究室でやるわけにいかなくて、ローズミルの街を守るためにも、郊外に死ぬほど形状記憶をかけた密閉空間が必要だったわけですね」
だから「最後の検証」──ここに来てようやく話が繋がってきた。
「それで、結果は」
このふたりが全てを話してきたということは、想定通りの結果が得られたということだ。そうわかりっていていも、つい、サスは訊ねてしまう。
エトラは深くうなずいて、言った。
「予想通り、ワームホールに似たものの出現を確認した」
「え──」
しかし、想定を軽く超す返答が来てサスは絶句した。全然、意味がわからない。ガルがワームホールになっただって? 今、隣に座ってる女の子が?
ここまでの説明はなんとか呑み込めてきたが、ここに来ていきなり次元がぶっ飛びすぎている。ガルの手を取って、この部屋を飛び出していきたいような衝動に駆られた。
「あっ、誤解しないでくださいね。あくまで、ワームホールに似たもの、ですよ」
サスの動揺が伝わったのか、レオナが急いで補足してくる。
「ワームホールは時空の裂け目を持っていて、向こう側の宇宙に繋がっています。でも、ガルちゃんの場合は抜け道がない。ただただ、凄まじいエネルギーを秘めた究極の一点──
「ブラックホール……?」
「はい。この宇宙に存在する、凄まじい質量から光すらも逃さない強力な重力を放ち、時間すら止まってしまう天体──ガルちゃんは人型のブラックホールです」
それが、結論だった。
はっきり言って、サスにはそれがどういうことか、全くピンとこなかった。
「ガル……」
サスはずっと、隣で同じ話を聞いていたガルに呼びかける。確かにその身体は重くて、触ると不思議な感触がした。ものも食べず、眠らず、涙は蒸発し、それでいて、ずっとそこにいる。それが彼女を取り巻く現象なのだと思ってきた。だから、詳しいことが知れても、サスにとってはなにも変わらない。
でも、本人にとって、その情報は世界がひっくり返るほどに重い──。
「……わたしって、とっくに、死んじゃってるんだね」
ガルはぽつりと言った。その言葉はぐっとサスの胸を衝く。
「な、なにを言って……」
「だって、人間がぎゅって縮こめられて、生きていられるわけないもん。わたしが今、こうして存在して、話せているのは、形状記憶魔法の見せている幻みたいなもの。そういう解釈でいいんだよね?」
「……ああ、その通りだ」
エトラが学者らしく淡々と肯定する。
「本来のガルの肉体は、今、その身体の内部で完全に崩壊し、原子の渦となって無限に落下を続けているはずだ。とても生きているとは言えない」
ガルは死んでいるわけではない。でも、生きているわけでもない。
この砕けた星と同ように魔法によって維持される、少女の輪郭に映し出された──なにか、なのだ。その惨たらしい事実に、サスは身体中の血の気が引いていくのを感じる。
「エ、エトラさん、そんなはっきり言わなくても……」
たしなめるレオナに、ガルは首をふるふると振ってみせた。
「ううん。わたし、わかってた。最後の実験で、形状記憶を限界まで破いて、重たく重たくなっていった時……なくなっていた記憶が蘇ってきたの。全てが変わってしまったあの日のこと。いきなり周りの空間が消えて、わって真っ暗になったかと思ったら、身体がバラバラに引き裂かれそうになって──ああ、死んじゃうんだって思った直後、ホルド、って聞こえて、気がついたらあの暗がりの中にいた……そんな記憶」
ガルは自分の両手を重ね合わせる。長く続いた孤独の時間を耐えるように。
「きっと、起こった出来事があまりにもわからないから、重くなっていく身体に任せて、いつしか忘れてしまってたんだと思う……でも、今の話を聞いて、ようやくわかった。わたしに起こったことがどういうことなのか、理解できた。わたしはきちんと説明のつく存在なんだって、そのことに──今はとっても安心してる」
「ガル……」
その言葉を聞けて、サスはとても救われた気持ちがした。もし、その口からどうしようもないほどの悲嘆が漏れていたら、とても耐えられなかっただろう。
レオナも同じ気持ちでいたのか、頬を緩めて言う。
「それなら……良かったです。魔法の練習、頑張った甲斐がありましたね」
「うん──こんなわたしのために、ありがとう、レオナ」
「いえ、アタシこそ、ガルちゃんに全部を伝えるのすっごく怖かったから……ガルちゃんが前向きに受け取ってくれて、本当にホッとしてます」
レオナのその言葉に、サスは途方もないような思いを抱く。エトラによれば、研究のほとんどの過程はレオナの予想を裏付けるための行程だった。だとすれば、早い段階でガルが正しい意味で「生きていない」ことに気がついていたはずだ。
それを気取られないように、なんでもないように振る舞ってきたのだろう。その心労は察して余りある。サスは賞賛を送りたい気分だった。
「──さて、話は以上だ」
エトラが残った紅茶を飲み干して、そう言った。
「この成果はワームホール研究や、対宇宙解釈に大きな影響を与えることが予想される。その特異性が認められた後、ガルがどう扱われることになるか読めないが、少なくとも報告書をものして学府に提出するまでは、引き続きうちの預かりとなる見込みだ」
「あー、報告書……これ、なんとかアタシが書かないで済むようにならないですか?」
「いや、なんでだよ。あんたの作った理論だろうが」
「ひええ……あんなの実質論文じゃないですか……アタシ、ブラックホールの数式とか知らないのにぃ……」
完全な直感派だというレオナが頭を抱える。この様子だと、当分の間、ガルはローズミルにいることになるだろうな、とサスは思った。
「サス……」
くい、と服を引かれて見ると、ガルと目が合った。
「話したいことがあるの。良い?」
凜と澄んだ紫の瞳。むしろここからが本題なのだと、サスは悟る。
「……うん、もちろん」
うなずくと、「では、私たちは去るとするか」と学者ふたりが腰をあげた。
「サスさん、変なことしたらここの機材で観測して、データばら撒きますからね」
と、レオナが去り際、わけのわからない脅しを言い残していく。ブラックホールを観測できるような機材で一体どんなデータが取れるんだ、とサスは逆に気になってしまった。
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