第三章 事象の地平から愛を込めて 0

 ドゴン! とギチギチに中身の詰まった棚を倒してしまったような大きな音がして、レオナ・カキハラは椅子に座った姿勢で飛び上がった。

「うおっ! ……びっくりしたあ」

「……ううう」

 それから、少女の悲しげな声が聞こえてくる。椅子をくりると回して振り返ると、ガルが床に倒れ伏していた。周りの研究員は見て見ぬフリ。世話焼きなエトラも不在だった。

「もう……仕方ないですねえ」

 レオナはガルに近寄り、脇の下に手をズボッと突っ込むと、思い切り踏ん張った。

「ふんぬううううううううううううううううう!」

「く……う、うううう……ふああ」

 倒れたガルの身体はゆっくりと持ち上がり、やがて傍らの椅子に着地。ミシィ、と椅子の脚の寿命を著しく削いだ音が鳴る。

 レオナのようなインドア干物人間でも、死ぬ気で引っ張り上げれば椅子に座らせられるくらいにガルは軽くなった。ただ、死ぬ気は死ぬ気なのでとにかく疲れる。だから疲れたくない研究員はいつしか、倒れたガルに気づかなかったポーズを取るようになっていた。

「ごめんなさい……」

 ガルもガルでぼそっと謝ったきり俯いてしまう。全く元気がない。

 サスが彼女に「自分の足で立てるようになれ」と言い残し、研究班を離れてから、ガルは定期的に立ち上がろうと試みて、無様に失敗する日々を送っていた。何度も何度も何度も何度も、こうも続くとフォローする側も疲れてしまう。研究室の雰囲気も日に日に落ち込んでいっていた。

「もう……結局、アタシが一肌脱がなきゃいかんのか……」

 はっきり言って気に入らない。サスのことを先に推していたのはレオナだ。それを、ひょっこり出てきた激重女がその心を鷲づかみ、攫っていってしまったのだから、研究対象としてはともかく、人として寄り添ってやろうというのには忸怩たる思いがある。

 ただ──全身マヒしているような状態で何度も失敗しているのに、それでもまた立ち上がろうと試みる勇気には、レオナの心に感じ入るものがあった。そんなに好きなのか。そんなに傍にいたいのか。

 でも、それも当然のことだ。レオナには幸い、前の宇宙での記憶と知識がたんまりあるお陰でこの砕けた世界にも順応できたが、ガルには記憶も身体の自由もなく、暗闇と孤独への深い恐怖だけがある。そんな身の上なら、最も信頼できる人といるために死に物狂いにだってなる。ならなきゃ嘘だ。そんな姿を見せつけられて、推しを横取りされただとかなんとか考えてる自分が恥ずかしくなってきた。

 ほとんど好奇心ファーストでガルを見ていたレオナも、気がつけば物理的にも精神的にも彼女の肩を持つようになっていた。だとすればいい加減、手を差し伸べる時だろう。

「あの、ガルちゃん。別れ際、サスさんがなんて言ったか覚えてます?」

 レオナが問うと、ガルは暗い瞳で見上げてくる。

「わたしが立てるようになったら必ず迎えに行くって……」

「ブッブー。不正解です。いや、そう言ってたんですけどね。それだと足りないです」

「え……」

 きょとんとするガルに、レオナは指を突きつける。

「正解は、レオナたちと一緒に方法を探し出せ、です! でも、今のガルちゃんは頑なにひとりで頑張ってますよね。サスさんの言いつけを守れないアンポンタンガールです」

「う、で、でも……レオナ、わたしのこと嫌いそうだし……」

 めっちゃバレてる。サスのことしか見えてなさそうで、しっかり人の機微を見抜いてるらしい。

「いやいやいや! 嫌いじゃないですよ! なんでそんなこと言うの!」

「だって、レオナ、サスのこと好きなんでしょ? でも、サスはわたしのことが好きだから、それでわたしに焼きもち焼いちゃって……」

「あんた凄いな」

 日本にこんなのいたら、バチボコに嫌われてるぞ。ここが砕けた星で良かったな。

 とは思いつつ、そのなんにも縛られない正直さは面白かった。いろいろな意味で唯一無二。このまま、その最強ぶりでどこまでも突き進んで欲しいとレオナは思う。

「あのですね、アタシはサスさんのこと好きですけど、ガルちゃんとおんなじように好きってわけじゃないです。単に推してるだけですよ」

「推し……?」

「うーん、なんていうか一定の距離感を保って見てたいっていう感じです。いることを実感できるだけで幸せみたいな。だから、一緒に住んだり、ギュされたいなんて、別に思っちゃいません。そこまでいくとオーバードーズで逆にしんどい」

「ふーん……」

 ガルはよくわからないような顔をしている。そうじゃない、肝心なのは『推し』概念じゃないから。レオナはこめかみから伸びた髪の先をいじり、唇をむっと突き出して言う。

「いや、だから……アタシはサスさんとそういう関係になりたいわけじゃないし、ガルちゃんは不安ながらも毎日頑張ってる姿は見てるし、いろんな意味でおもしれー女って思ってるし……なので、別にガルちゃんを嫌ってるとかは、今はないです」

「今は」

「そこは引っかからんでいいです。大事なのはいまこの瞬間だから」

「そっか……レオナ、わたしのこと好きかぁ、へへ」

「うんうん、そのくらい自惚れてる方がちょうどいいですよ、あんたは」

 安堵したからか、ガルの表情がほろほろと緩んでいく。その様子に、サスが去ってからずっと心を張り詰めてきたんだな、とレオナは見て取る。

 そして、それでいいと思った。まだ実証できてはいないが、レオナの中ではガルが何者か、どうして今の状態にあるのか、おおかたの検討がついている──いつかその事実を知る時まで、ひとつでも多く、自分の拠り所を見つけて持っておいて欲しかった。

「ねえ……」

 ふと、もじもじとガルはレオナを見上げて言った。

「レオナもあの時、わたしにたくさん魔法かけて、助けてくれたよね。その時のお礼、まだ言えてなかったから……ありがとう」

「ああ……そ、そんなこともありましたね」

 不意の感謝に、照れ隠しでぎこちない返しをしてしまう。もしかして良い子なの? とレオナの軽くてチョロい心がじわっと温かくなる。ああ、一夜漬けで形状記憶魔法を習得したあの日の自分、グッジョブだな──。

「……って、ん? っていうかさ……」

 と、その時、今更のようにレオナは気がついた。

 今もガルには形状記憶魔法ホルドをかけ続け、破れ目を修復し続けている。しかし、破れた布地をいくら精巧に縫い合わせても、厳密には決して元の姿へ戻らないのと同じように、形状記憶の上がけも元の姿へ限りなく近づけるだけの無限に続く作業だ。

 ただ、覆水盆に返らずとも、その効果を劇的に高める方法がある。もとの姿を知っている人間が魔法をかけることだ。魔法の効果はイメージと強く結びつく。この星が今も堅牢に生き残っているのは、魔法をかけた人々がその姿を目に焼き付けた上で施術したからだし、サスの編み出した魔法ゼルキドも、そのメカニズムを利用して大幅な自己強化を行っている。

 ならば、ガルの質量をもっと抑え込むために、最適な方法はひとつ──。

「ガルちゃん!」

 勢い込んで、レオナは言った。

「魔法の練習をしましょう!」

「まほう……えっ、わたしが?」

 突然の提案にガルが目を丸くする。

「はい! 形状記憶魔法を自分でも使えるようにするんですよ! 慣れてきたら他の魔法を試してみてもいい! アタシがつきっきりで教えてあげますから!」

「そんな……動けないわたしに魔法なんて使えっこないよ」

「魔法に身体は関係ありません! 大切なのは気持ちです! ……ちゃんと自分の足で立つところ、サスさんに見せたくないんですか?」

 サスの名前を出した瞬間、ひゅっとガルの表情が引き締まった。

「わ……わかった。レオナがそう言うなら……わたし、頑張ってみる」

 一気にしおらしい態度になり、レオナはすっかり毒気を抜かれてしまう。あれ? 普通に素直な子だ。こんな打ち解けることになるなら、地球の重力を表すのに使われたりする加速度の単位Galなんかじゃなくて、もっとやわらかい響きの名前をあげればよかった、とほんのり後悔し始めた。

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