ボール

 先生がいなくなってから二日目の朝が来た。あれだけ荒れていたのが嘘のように天気がいい。部屋の隅に張った蜘蛛の巣に朝露がきらめいている。


 丸一日考えた結果、わたしはある結論に達した。

 やっぱり、空を飛ぶ魔術を作るのはわたしだけじゃ無理!


 知っていた。ただの再確認だ。


 先生の遺した書物は膨大かつ詳細で、魔術に関する基礎から実用、歴史、魔術開発における考え方まで、あらゆることが網羅されていた。3世紀に亘る先生の知の結晶が、床が抜けそうなほどの量の本に先生の筆遣いで書き留められていた。

 この研究所にある本を片っ端から読むだけで、世界最高の魔術師の知識を得られるだろう。でも、それだけだ。


 以前、先生に尋ねたことがある。まだ、先生の下で学び始めて間もなく、生意気だったころだ。


────わたしは、一目見ただけで魔法陣の作用がわかります。そんなわたしがなぜ魔術を学ばなくてはならないのですか?


 今思うと、理由をつけて勉強をさぼりたかっただけなのだが、そんなわたしの質問に先生は少し考えてから答え始めた。


────草原が緑色なことは、子供でも知っているだろう? でも、緑色の絵の具を作れるのは職人だけだ。緑色を絵の中にどう置けば爽やかな印象になって、どんな色と組み合わせれば苛烈な印象になるかは画家しか知らない。俺は、リーリャに絵の具の作り方と、絵の描き方を教えたいんだよ。


 当時は何を言っているのかよく分からなかった。今なら分かる。知っていることと使えることは似ているけど、全然別物だ。


 それに、わたしは先生が失敗した魔術を完成させなくちゃいけない。つまり、先生よりすごい魔術師にならなくちゃいけない。これは、大変なことだ。


 大変なことだけど、糸口はある。これも、丸一日考えて出した結論だ。


 先生は魔術以外のことについてはからっきしだった。そんな先生の下で学んでいたのだから、わたしもやっぱりからっきしなのだけど。

 わたしたち師弟は、魔術以外に関しては無知だった。植物の名前も、民間伝承も、剣の振り方も、お金の管理の仕方も、自分たちには関係のないことだと切り捨てていた。


 でも、きっとそれは間違っていた。あの時、吹き上げられた先生を見て生じた疑念は、今や確信に変わっていた。


 魔術は、魔術だけでは存在できない。


 だからわたしは、旅に出ることにした。世界はどんな風にできているのか知らなくちゃいけない。魔術と同じように法則があるのか、全くの無秩序なのか。

 魔術を極めた先生に追いつき追い越すためにわたしに残されている道はこれしかない。魔術以外も極める。


「世界の西の端、北の端から、東の端、南の端まで。どれだけ広いか知らないけど、端から端まで順番に見ていけばいつか全部見られるに決まってる!」


 私は昨日のうちにまとめておいた荷物を背負い、わたしは扉を開けた。

 荷物といってもそんなにはない。ちょっとした着替えとメンテナンス用の油、それから水晶玉と、先生が最後に書いた反重力魔術の魔法陣の設計図。全部、先生が使っていた少し大きい鞄に入った。


「いってきます!」


 扉を閉め、書き置きを貼り付ける。


『先生へ

 留守番を頼まれていましたが、そうもいっていられなくなりました。リーリャは旅に出ることにしました。世界の端から端まで全部見て、いろんな人と知り合って、帰ってくる頃にはきっと先生を超える魔術師になっていますよ。

 リーリャより』


────


「ボール?!」


 朝早くに出発したのに、近くの町に着いた頃にはもうお昼を過ぎていた。とりあえず馬車に乗ろうと待合所のおじさんに「世界で一番西で一番北にある町へ行く馬車はどれですか」と聞いてみたのだが、そこで驚きの答えが返ってきた。


「一番西で一番北って言われてもなあ。一番北はともかく一番西なんてないよ」


「ないって何ですか。ずっと西に行ってたら、いつか端っこにたどり着きますよね? そこにある町に行きたいんです」


「はあん。さてはお嬢ちゃん、知らないな?」


「知らないって何をです? 自慢じゃないですけど、わたしは本当に何も知りませんよ?」


 流行ってる音楽も、この町の名前も、おじさんが目につけている飾りの名前も。


「本当に自慢にならないな……。いいかお嬢ちゃん、びっくりして腰を抜かすなよ」


「もったいぶってないで教えてくださいよ。今のわたしは知識欲の塊ですよ」


「そうせかすなって。お嬢ちゃん。実はな、世界は、んだ」


 おじさんが得意げに鼻で息を吐く。何を言っているんだろう、この人は。


「何言ってるんですか。ほら、あの地図おじさんのですよね? 四角いじゃないですか。よく見てください」


 おじさんの後ろにかかっている長方形の地図を指さす。わたしはあの地図の一番左上に行きたいのだ。あそこまで行く馬車を教えてください。


「あーーまあ確かに地図は四角いな。ええと、実はあの地図は不正確なんだ。紙に描きやすいように歪んでるとかなんとか」


 そのあたりの知識はおじさんも曖昧らしい。急に自信なさげにごにょごにょと言い始めた。


「まあ、世界が丸いなら、そうですね、いちばん外側から内側に向かって渦巻みたいに旅することにしましょう。おじさん、世界の端っこに行く馬車はどれですか?」


 質問を改めて、もう一度おじさんに聞いてみたが、困ったような、笑いをこらえるような、変な顔をしている。


「お嬢ちゃん、まだ何個か勘違いしているな。まず、この世界が丸いっていうのは、円盤みたいな形をしているっていう意味じゃねえ。でっかいボールみてえな形をしているって意味だ」


「ボール?!」


 それこそ、何を言っているんだろうこの人は、だ。自分の足元を見たことがないんだろうか。まっ平じゃないか。


「それから」おじさんは戸惑うわたしをよそにさらに続ける。「馬車は、そんなに遠くへは行かない。せいぜい国内か、行っても隣国までだ」


 てかお嬢ちゃん何歳だ? 金は持ってんのか? ここらで見ない顔だけど親御さんは? おじさんが色々聞いてきているが、わたしの耳にはろくに入ってこない。


 世界がボール型?

 なら、この足元の平らな大地はなんだ。もちろん、山や谷があるから、大地全部が平らなわけではないのは分かっている。それでも、全体で見たら平らなはずだ。

 それに、裏側はどうなっているんだろう。雨は大地から空へ向けて降ったりするのだろうか。そもそも、裏側に人は住めるのか。


「おじさん!」


「なんだ」


「この町の裏側はどこなんですか?」


 見てみたい! 雨が下から上に降っているかもしれない町。石を投げれば上に落ちるかもしれない町。上に落ちる……空を飛ぶ魔法のヒントになるかもしれない。

 かもしれない、かもしれない、かもしれない。何一つ確かなことはない。でも、それでいい。どのみち、全部見ると決めたんだ。最初の目的地はそこだ。


「この町の裏側、か……」おじさんが地図とにらめっこする。「だいたいこの辺り、かな」


「アルバーポル……っていう国ですか」


「国っていうか……まあ国だな。詳しいことはおじさんも知らん」


「この国に行くにはどうしたらいいですか?」


「アルバーポルへ行くには、か」


 おじさんはまた地図とにらめっこを始めたが、すぐにやめ、わたしを見て言った。


「大きくなって、自分でお金を稼げるようになりなさい」

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