第27話

 電車を二つ乗り換え、一時間ほどで最寄り駅に着いた。スマホのナビに従って歩くと、閑静な住宅地にあるその家はすぐに見つかった。

 歩道のない道路の道端で、道をはさんだ建物とスマホの写真を見比べた。シックなデザインの住宅は写真のままだ。けれど、庭に植えられているハナミズキの枝が折れていた。おそらく人為的な力によるものだ。もうひとつ違っている点があった。塀のいたるところに醜い落書きがされていた。葛岡の犯罪を批判、いや、彼の人格を批判、あるいは中傷するものだ。そうしたものをドラマで見たことがあったけれど、実際、目の当たりにすると胸が痛む。

「ちょっと……」

 背後から声がした。振り返ると老人が黒い傘をさして立っていた。

「私ですか?」

「あんたしか、おらんだろう」

 彼が周囲に目をやる。法子は同じように周囲を窺った。小雨の中、人どころか犬や猫の姿もない。

「あんた、葛岡の身内か? ワシは自治会の役員をしているのだが、あのようなことでは地域の風紀が乱れる。早く消してほしいのだが、どこへ越したものか連絡の取りようがない」

 老人が澱みなく話すため、口をはさむ隙がなかった。

「いいえ、私はこちらの身内ではありません。殺害された宝田社長のところで働いている者です」

「ん……」彼の眉根が寄る。「……すると、落書きをしに来た方か?」

「いいえ、違います」

 疑われて腹が立った。

「なら、何だ?」

「えっと……」私的な捜査のために沙良に会いに来たと言うわけにはいかない。

言い訳を捜した。

 その時だった。法子は背後から来た車に跳ね飛ばされた。

 ――ドン――

 鈍い音が背骨を伝わって頭に届いた。その時にはすでに転んでいた。老人も転んだ。

 二人をはねた車はスピードを上げ、あっという間に視界から消えた。ナンバープレートを見る余裕もなかった。

 逃げる車を追うように、二人の手を離れた傘が転がっていた。

「イッター……」

 腰に鈍い痛みがあった。手のひらの擦り傷から血が滲みだしていた。

「あの車……」

 そう言った老人の額にも赤い血がにじんでいた。転倒して頭をぶつけたらしい。

「大丈夫ですか?」

「大丈夫なはずがないだろう。警察を呼べ」

 彼は語気を荒げた。

 通報すると、ほどなく救急車とパトロールカーがやって来た。

 法子と老人は病院で検査を受けた。二人とも軽傷だった。検査を受ける間、あの車は葛岡の死の真相を捜査する法子を始末しようとしたのではないか? あるいは、捜査から手をひけと警告する意味でのひき逃げではないか? と推理していた。

「すぐに逮捕できますよ」

 九王子くのうじ署の交通課の警察官は気安く言った。方々に防犯カメラがあることや、住宅街で通行車両が少ないことが根拠らしい。

 事情聴取で二人がどうしてそこにいたのかを問われ、法子は宝田社長を殺害した犯人の家を見に来たと正直に答えた。

「見てどうするつもりだったのです?」

「好奇心を満たすだけです」

 警察官は訝ったが、それ以上追求しなかった。が、それから彼が法子を見る目には、自業自得だと言わんばかりの軽蔑の色があった。

 事情聴取を終わるころには濡れた髪は乾いていた。衣類も乾いていたけれど、うっすらと汚れが残っていた。帰宅途中、駅のトイレで立花に電話を掛けて事情を話した。

『どうしてそんな所に行ったのです? もし、犯人が監視していたら……』

 彼の声から不安と憤りがあふれていた。

「それで電話したんです。私も不安で……。でも、私のことなんて、監視しますか?」

『監視しているのは宝田家や葛岡家の方だよ。人の出入りを監視していれば、捜査が終わったかどうかも見当がつく。犯人も自分が安全かどうか、不安に違いないからね。……で、事件のことを調べなおしていると、話さなかったのかい?』

「はい。立花さんに迷惑がかかるといけないと思って」

『そうか、ありがとう。僕の方こそ迷惑をかけてしまったようだね』

 吐息が一つ電話の向こうから聞こえた。

『迎えに行くよ』

 申し出に胸がグッと詰まる。その言葉が聞きたくて、自分は電話をかけたのだと悟った。

「大丈夫です。一人で帰れます。報告しておきたかっただけですから」

『そうか……。分かった。気をつけて帰るんだよ』

 優しい声に心を震わせ、電話を切った。

 駅ではホームの端には立たないようにした。電車が到着してから列に並んだ。最寄り駅についてからマンションまで、周囲に気を配りながら歩いた。まだ小雨は降り続いていて、傘をさす通行人の表情は読めない。誰もが怪しく見えた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る