『大好き』

はろ

『大好き』

 彼女は言葉を喋る。けれど、『大好き』とは言わない。


 暑さがゆるみ始める夕方の六時を過ぎると、僕は縁側で彼女を待つことにしている。初夏の夕暮れ、日が沈むまではもうしばらくあるが、太陽はもうずいぶんと低くなり、近くの空をカラスの群れが飛んでいく。


「待ってたの?ひまじんね」


 カラスに気を取られていたら、背後から帰ってきたようだ。彼女はトン、と微かな音を立てて縁側に飛び乗ると、しっぽをピンと立てて僕の脇腹の辺りにおでこを擦りつける。


「おかえり、ミケコ」

「ただいま。ね、ごはん」


 ほとんど反射的に手が出て、彼女の最もやわらかい喉元あたりの白い毛を弄る。彼女もそうされるのをわかりきっていたように少し顎を上げ、目を細めてゴロゴロ喉を鳴らし始めた。


「ごはん、ごはん、ごはん。今日は缶詰がいい」

「駄目だよ。カリカリで我慢しなさい。そもそも買い置きがないし」

「……そうなの?つかえないわね」


 とか言いながらも彼女の喉は鳴ったままで、僕がすこし腰を上げると途端にスキップするみたいな足取りで台所に走っていく。はやくはやくー!と大声で叫びながら。


 僕は子どもの頃から、何匹もの猫を飼ってきた。けれど喋る猫を飼ったのは、ミケコが初めてだ。

 僕が知らなかっただけで、世の中には喋る猫というものが一定数いるものなのか、それとも単純に僕の頭がおかしくなっただけなのかはわからないが、とにかくミケコは喋る。あの猫特有のにゃんという可愛い声ではなく、にゃんにかなり近しい感じの高くて甘い声で人のように日本語を喋るのだ。


「ミケコ、ご飯美味しかった?カリカリも結構イケるだろ」

「まあね……今毛繕いでいそがしいから話しかけないでくれる?」


 がっついて食事を終えると、彼女は定位置のキャットタワーの中段に収まって器用に背中を舐め始める。

 つれなくされると構いたくなるのが人間というもので、通りがかりに脇腹のあたりを撫でたら、きれいな黄色の瞳で睨まれた。触られたところを舐め直しながら、人間くさくなるからやめてよ!せっかくきれいにしたのに!などとぶつくさ言っている。

 創作物などの中で動物が言葉を話す場合、アホ面に見えていたペットが思った以上に理知的で可愛げのない発言をすることに驚くパターンや、純粋な好意や感謝の気持ちを伝えられて感動するパターンなどがあると思うが、ミケコの発言には特にそのような要素はない。ミケコは多分猫はこんなことを思っているんだろうなと人間が思うようなことを、そのまま喋る。

 つまり、やはり全て、僕の妄想である可能性が高いということなのかもしれない。


 そんなことを考えつつ、ミケコの夕食後の僕の日課である猫トイレ掃除に取り掛かる。スコップで砂をざっとかいてみて、僕は気が付いた。


「あれ、ミケコ、おしっこの回数多くない?」

「……」


 ミケコは無視をして毛繕いを続けている。僕は一日に一度しかトイレ掃除をしないが、それにしても多すぎる痕跡が猫砂に残されている。


「ミケコ、前おしっこしたのいつ?」

「……レディにそんなこと聞かないでよね」

「大事なことなんだからちゃんと答えて。どこか身体におかしいところ、ない?お腹が痛いとか」

「……しいて言うなら、おしっこするときにね、なんかチリチリするの」


 伸ばした舌をぺろんと仕舞いながら彼女が言った言葉に、僕は顔面蒼白になった。この時間でもやっている動物病院が近所にある。即座にケージを用意する僕の姿に、ミケコも何かを察したのかぎゃーぎゃーと叫び声をあげ始めた。



「膀胱炎ですね」

「……膀胱炎。食欲はあるみたいだったので、全然気付きませんでした」

「食欲が無くならないタイプの子もまあまあいるんですよね。痛み止めと抗生剤を出しますので、ご飯に混ぜるか何かして一日二回飲ませてください。それから、水分をたくさんとったほうがいいので、なるべく水を飲みやすい環境を作ってあげて、しばらくご飯もウェットフードに変えてください。ミケコちゃん、ウェットフードは食べますか?」

「はあ、やっぱり缶詰のほうが……」

「食べる!でもあんたは嫌い!薬は飲まない!」


 可愛くない事を言うミケコに、先生は無反応だ。やはり、僕にしかこの声は聞こえていないということだろうか。


「あの、先生。腎臓の数値は問題ないですか?」

「うん、それは大丈夫でした。膀胱炎が治りさえすれば、何も問題はありませんよ」


 最後に念押しをするように聞く僕に、先生は全てを察しているような様子で優しく答える。この先生とも、随分付き合いが長いのだ。


 薬と療養食のウェットフードを受付で受け取って、僕はミケコと帰路につく。行きにはどすの利いた声で「地獄に落ちろ!」などと叫ぶほどに取り乱していたミケコだが、帰りは別猫のようにおとなしくしている。家に帰れるのだとちゃんと分かっているのだろう。

 これは多分喋る猫だからというわけではなく、どんな猫でもその種の鋭さは生まれ持っているのだと思う。ミケコの前に飼っていた、シロタもそうだったからだ。

 真っ白い毛並みがきれいで、少し太り気味だったオス猫のシロタ。シロタは喋れない猫だったけれど、大体なにを考えているかはいつもお互い通じ合えていたように思う。シロタはミケコと比べてももっと人懐こくて天真爛漫なタイプで、家の中では犬のようについて回るし、抱っこされるのが大好きだった。

 けれど、やはり言葉が通じなければわからないこともある。数年前の同じ季節、僕は同じ病院にシロタを抱きかかえて駆け込んだ。シロタが突然に痙攣を起こしたからだ。

 先生には、急性腎不全だと言われた。腎臓の疾患は猫にはよくあることで、腎疾患の初期だとほとんど症状もないので気が付きにくい。シロタの場合、急性のものなので以前から疾患があったとは限らないらしいが、そもそも原因をはっきりさせる暇もないほどあっという間に、シロタは死んでしまった。

 シロタがそうなる少し前から、僕は仕事が忙しくて、彼の様子をあまりちゃんと見てやれていなかった。だから、きっと僕のせいだ、僕が兆候を見落として、シロタを見殺しにしたのだ――そう思って僕は酷く落ち込み、シロタが好きだった縁側で毎日泣いてばかりいた。

 そんなある日、ミケコはうちにやってきたのだった。まだ子猫だった彼女は、母猫とはぐれたのか一匹でてとてとと僕の家の庭に入ってきて、ぴーぴー泣きながら僕にこう言った。


「こんにちは!ごはんちょうだい!どうしてもっていうなら飼われてあげてもいいけど!」


 猫が喋ってる!と思わないわけではなかったが、そんなことよりその子猫のガリガリに痩せて震える様子が尋常ではなかったので、僕はすぐに彼女を毛布にくるむと病院に急いだ。




「ミケコちゃん、ご飯食べなさい。ウェットフードだぞ、美味しいよ」

「……さっきカリカリ食べたし。それになんか、それ、変な匂いするのよね。どうせ薬、混ぜてあるんでしょ?」

「……くそ、鼻が利きやがって。でもさ、口の中に指を突っ込まれて無理やり飲まされるよりはマシだろ?薬を飲んでちゃんと病気を治さなきゃ死んじゃうかもしれないんだよ、ミケコ。お願いだから食べてよ」


 無駄だろうなと思いながら根気強く言い聞かせる。するとミケコはぶつくさ言いながらも、最終的には食べてくれた。案外美味しかったのか、そこそこ勢いもいい。さすが喋れる猫、僕の言うことをちゃんとわかっているのだ。

 とにかく、大きな病気じゃなくて本当に良かったと思う。僕はほっとしながら、あぐらを組んで餌皿に顔を突っ込むミケコの姿を見つめる。

 やがて食べ終わったミケコは、珍しく僕のあぐらの上に乗ってきた。しばらくすねや太ももを踏みながら身の置き場所を模索しているような様子を見せたあと、器用にくるんと丸くなる。いきなり病院に連れて行かれた恨みは、もうすでに忘れたらしい。

 彼女の後頭部がまるで『撫でろ』と言っているようだったので、ご要望通り指で掻いたり撫でたりしてやると、彼女はまたグルグルと喉を鳴らし始めた。

 暖かくてやわらかいかたまりが、穏やかに震える振動が膝の上に優しく伝わる。幸福が物質化して、膝に乗っているみたいだと思う。


「………ミケコは、長生きしてね」

「うん」

「ねぇ……ミケコはさ、僕のこと、好き?」

「………………」


 依然ゴロゴロ言いながらも、つれなく無視をする様子が、彼女らしくてかわいい。思わず両手を使って体中を撫で回してやると、うれしそうにゆっくりとまばたきを始め、ゴロゴロ音がより大きくなる。

 例え言葉が喋れるとしても、ミケコは自分から『好き』などと言ってくるようなタイプではない。シロタだったら、言ってくれたような気がするけれど。

 けれど、言われなくても伝わってしまうことはある。言葉が通じなければ分からないこともあるが、分かることもあるのだ。

 特に猫には。

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