第1話 _馥郁
あれから、まるで見てきたような知らない記憶の追体験は起きていない。
けれど、あれはきっと賜を授かったのに違いない。
そう考えるのが今のところ、一番腑に落ちるもの。
私は、鼻からいっぱい空気を吸い込んだ。
そういえば確か……ここは“ミルクの香りがする”って云われていたわね。
他にもバラやジャスミンのフローラルな感じ、或いはネロリやオレンジの爽やかでフルーティーな感じ、森林の香りなんて話もあったはず。
“良い香り”というのはいいもんよね。
例えば良いワイン――そうね、『リオッハ』の赤ワインなんて、あの素晴らしい香りが付きものよ。それは、そのものの良さを相乗的に高める力があるの。
恐らくここがそう云われているのも、同じ理由からだと思うわ。
――私も、薫香芳しい女でありたいわね。
私はもう一度、深く息を吸い込んだ。
ここの空気はとても清々しく、なんだか吸えば吸うほど全身に力が漲ってくる。
さて、その香りはどうかしら?
うん……確かに。私には何か、香ばしい香りがするわっ!
ここの空気はきっと特別なものが混じってて、それが“良い香りの元”なのね。
私の体にもこの素晴らしい香りが纏わっている? かもね、ふふ。
ふとそんな事を思いついた途端、これまでの悪夢のような記憶が蘇った。
それは今でも私のコンプレックスの源で、私をしばしば苛むものだ。
その時の沸々たる想いが体の奥底から
はっ!
いかんいかん……ここの聖なる空気を汚す様な事をしてしまっては。
私は“フゥゥーー”とゆっくり息を吐いた。
無意識のうちにこの身から溢れ出た“気”が、静かに体の内へと引いていく。
呼吸は大事だ。
それは己の内に力を吸い込み、己の内の力を呼び起こし整える――それは、“気”を扱う上でとても重要な役割を持つ所作なのだ。
思えば、呼吸の大切さに気付いたのは幼い頃、大好きな兄との修行での事だった。
私は腰の柄から剣を引き抜き掲げ、じっと見つめた。
これまでの兄との修行の日々が、鮮やかに記憶から蘇る。
鬼の様な師の下で励んだ厳しい剣の修行も、優しい兄と一緒だったからこそやり遂げることが出来たのだ。そんな大好きな兄……。
私は深く溜息をついて、剣を収めた。
その兄とは、わけあってもう長らく会えていない。
私は兄に取り返しのつかない事をしてしまったの……。
幸い、風の便りで兄は元気にしているそうだ。
会いたいな――でも……まだ無理。
いかんいかん。
どうも心が乱れると、せっかくの良い香りが鼻を突く。
私はもう一呼吸した。
―――
静寂が辺りを支配する。
ピーン
“気”が、程良く張りつめている。
これがとっても心地良い。
こんな時は、思わず剣を試したくなるわね。
その時、研ぎ澄まされた感覚が、遠くの声に反応した。
「なんか“此処”はよぉ、焦げ臭くね?ヤバくね?」
「ふむ……確かに、臭うな。警戒しとけ」
なんだとおぉーーっ!!
プツーン
あぁ奴らは踏んでしまった、私の中の地雷を。
もう手遅れ、理性の綱はぶち切れた。
しかも今の私は明らかにそれに飢えてもいた。
腰を落とし身構える。手に柄を握りしめ、
「私の香りは“此処”の香り!……“此処”の香りは私の香りだーーっっ!!」
タンッ!
疾風迅雷が如く――私は、跳んだ。
それに私は待っていたのだ、『選ばれし者』が訪れる日を。
きっと彼らがそうなのだろう。
だったらやっぱり丁度良い!
いっちょ、腕試しさせてもらおうじゃない?
(続く)
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◎ネロリ…ダイダイ(ビターオレンジ)の花から得られる精油。主に香水に使われる。フローラル系の花の甘い香り、ウッディな香り、爽やかなシトラスの香り、少し苦味のある香りがすると言われている。
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