隠れ蓑の舞

カユウ

第1話

 江戸末期から続くやなぎ家の当主、柳 みのるは、表向きには浮世絵収集家として知られていた。その眼力と鑑識眼は業界でも一目置かれ、有名な美術館からも鑑定を依頼されるほどだった。


 だが、それは表の顔にすぎない。


 裏では"天下無双"の異名を持つ美術品回収のスペシャリストとして、盗まれた文化財を密かに元の所有者に戻す——その使命に、彼は人生を捧げていた。


 東京・浅草の古い町家。実の自宅兼骨董店「柳亭」の奥座敷に、午後の日差しが差し込んでいた。


「柳さん、今回の依頼は特別です」


 連絡役を務める老齢の骨董商、鶴見源太郎が、湯呑みの緑茶をすすりながら言った。八十を過ぎた鶴見の皺だらけの顔は、幾多の取引で培った狡知に満ちていた。


「島津財閥の御曹司が不当に手に入れた『夜桜図屏風』を取り戻してほしい。本来は京都の老舗旅館『花月』のもので、明治時代から代々伝わる宝物なんです」


 実は無言で頷いた。四十五歳の彼は、端正な顔立ちと鋭い眼光の持ち主だった。動きは経済的で無駄がなく、それでいて普段は物静かな印象を与える。


「どういう経緯で島津の手に渡ったんだ?」


「旅館が一時経営難に陥った際、資金調達のために担保に出したものが、不透明な手続きで所有権ごと島津の手に渡ったようです。」


 鶴見は眉をひそめた。


「旅館側は法的手段も試みましたが、島津の顧問弁護士たちの壁は厚く……」


 実は冷静な声で訊ねた。


「警備は?」


「最新のセキュリティシステムです。赤外線、圧力センサー、監視カメラ……考えられるものは全て導入されています。さすが大財閥の当主ですな」


 その言葉を聞いて、実の口元に微かな笑みが浮かんだ。


「問題ない。例の『布団』を使おう」


 鶴見の顔が明るくなった。


「やはり!それを待っていました」


 夕暮れ時、客が帰った後の店内。実は奥庭に建つ蔵に向かった。三代前の曾祖父が建てたという蔵は、外観は古めかしいが、鍵は最新の生体認証システムに換えられていた。


 指紋認証と虹彩スキャンを終えると、重い扉が静かに開いた。実は蔵の奥へと進んだ。そこには桐箪笥が置かれ、その一番下の引き出しを開けると、一枚の古びた布が丁寧に畳まれていた。


 存在を知る者は『柳家の布団』と呼ぶその品は、実の先祖が江戸時代に考案した特殊な織物だった。着用者の体温に反応して周囲の環境に溶け込み、ほぼ完全な擬態を可能にする——まさに現代の科学でも説明のつかない、不思議な隠れ蓑である。柳家が代々"天下無双"の名を誇った秘密の道具だった。


「今宵もお前の力を借りるぞ」


 実は布団に語りかけ、その繊維の一つ一つに宿る先祖の知恵と技を感じながら、丁寧に包みなおした。


 翌日、実は島津邸に向かった。都内有数の富豪街にある豪邸は、高い塀と最新の監視システムで守られていた。実は庭師を装い、定期メンテナンスの業者として敷地内に入ることに成功した。一日中、さも本物の庭師のように低木の剪定や落ち葉拾いに精を出しながら、館内の様子を綿密に観察した。


 夜になり、警備の交代時間を狙って、実は館内に忍び込んだ。監視カメラの死角となる場所で『布団』を取り出した。全身を包み込むと、まるで空気に溶け込むように姿が見えなくなる。実は自分の姿が消えていくのを見つめながら、先祖から受け継いだこの不思議な力に、いつもながら畏敬の念を抱いた。


「さて、行くとするか」


 最新のセキュリティシステムを擦り抜け、実は目的の展示室に辿り着いた。そこには確かに『夜桜図屏風』が、スポットライトに照らされて飾られていた。六曲一双の大きな屏風には、夜の闇に浮かび上がる桜の木々が、墨と淡い色彩で繊細に描かれていた。


「見つけた」


 しかし、その瞬間だった。突然、部屋中に赤い光線が走った。レーザーセンサー。それは実が情報を得ていなかった最新のシステムだった。


 警報が鳴る。


 実は一瞬のうちに状況を把握した。『布団』は視覚的な隠れ蓑にはなるが、レーザーは通してしまう。だが、彼は冷静さを失わなかった。祖父から教わった『ダンス』を思い出していたのだ。


 それは柳家に伝わる『影の所作しょさ』。元は人の体重で踏み抜いてしまいやすい屋根などを通るときの歩法であったもの。現代に近づくにつれて徐々に変化していき、今ではセンサーを避けるための特殊な動きの技術となっていた。体を徐々に倒し、腕をしなやかに曲げ、足を滑らせる。まるで古式の舞のような精密な所作。


「まず右足を45度、次に上半身を30度……」


 実は呪文のように動きを口ずさみながら、レーザーの間を縫うように進んだ。『影の所作』によって警備システムを回避していく。実自身、レーザーセンサーまで回避できるとは思っていなかったが、このような動きの技術を開発した先祖には感謝しかない。その動きは、忍者の身のこなしを基に、数学的な精密さで計算された動作の連続であり、柳家に代々伝わる秘伝中の秘伝である。


 ついに屏風の前に到達した実は、それを丁寧に素早く『布団』で包み込み、来た道を同じように『ダンス』で戻っていった。


 外に出ると、夜空には満月が輝いていた。実は月光の下、静かに微笑んだ。


「任務完了」


 翌朝、京都の旅館『花月』に『夜桜図屏風』が戻ったという知らせが入った。旅館の女将からは涙ながらの感謝の言葉が届いた。実は満足げに頷いた。


「今回も『布団』のおかげだな」


 それから一週間後、実は思いがけない客人を迎えた。


「初めまして、柳さん。私は警視庁美術犯罪課の円城えんじょう 貴子たかこです」


 整った顔立ちの三十代前半の女性刑事だった。彼女は落ち着いた物腰で、しかし鋭い眼差しを実に向けていた。だが、


「どのようなご用件で?」


「最近、盗まれた美術品が元の所有者のもとに戻るという不思議な事件が続いていまして」


 円城は淡々と言った。


「美術品の無断移動は、どのような意図があっても、法的には問題になりますから」


 実は穏やかな微笑みを浮かべた。


「興味深い話ですね」


「島津邸からの『夜桜図屏風』の件もその一つです。面白いことに、防犯カメラには何も映っていませんでした。ですが……」


 円城は一枚の写真を差し出した。そこには、レーザー光線の間を精巧に舞い踊るような動きをする人影のようなものが写っていた。最新の赤外線カメラは、『布団』の効果も一部ではあるが無効化することができるようだった。


「この独特の動きは、『影の所作』ですね。江戸時代の忍術に端を発する技術と言われています」


 円城の表情に、わずかな尊敬の色が混じった。


 実は動揺を見せなかった。


「なるほど、詳しいですね」


「私の趣味は古武道と日本文化史ですから」


 円城はさらりと答えた。


「柳さんのご先祖が忍者だったとか?」


「私は単なる骨董商ですよ」


 実は茶を啜りながら答えた。


 円城は意味深に微笑んだ。


「そうですか。では、お邪魔しました」


 立ち去る円城を見送る。刑事は二人一組で行動する。だが、円城は一人だった。だからこそ、応接室まで上げたのだが。


 円城が見えなくなると、実は蔵に向かった。『布団』を手に取り、物思いにふける。月明かりに照らされた『布団』の織目は、普段より深く見えた。


「時代は変わった。『布団』だけでは不十分になってきたということか」


 その夜、実は久しぶりに祖父の日記を読み返した。革表紙の古い日記帳の黄ばんだページには、達筆な文字で様々な”仕事”の記録が残されていた。そして、その最後のページに意外な記述があった。


『『布団』は目くらましに過ぎない。真の”天下無双”は『影の所作』にあり。完璧な動きこそが、あらゆる障害を乗り越える鍵なのだ。技術が進み、世が変わっても、『所作』を極めれば、いかなる困難も乗り越えられる』


 実は愕然とした。自分はずっと『布団』の力を過信していたのだと。しかし祖父が本当に大切にしていたのは『ダンス』の方だった。『布団』は単なる補助手段に過ぎなかったのだ。


 翌日、実は決意した。『布団』に頼るのをやめ、『影の所作』を極めることに専念しようと。祖父の残した型の書を基に、毎日欠かさず『ダンス』の稽古を始めた。動きの一つ一つに意味があり、それを身体に染み込ませていく作業は、想像以上に難しかった。


 数か月後、円城が再び訪れた。今度は私服姿だった。


「また美術品が戻る事件がありました。今度は防犯カメラにもレーザーセンサーにも、まったく痕跡がありません」


 円城は実に視線を合わせた。


「すごい進化ですね」


 実は茶を差し出しながら言った。


「技術の進化は素晴らしいですね」


 円城は意味深に微笑んだ。


「そうですね。ところで……」


 彼女はポケットから一枚の古い写真を取り出した。そこには若かりし日の実の祖父と、おそらく円城の祖父と思われる男性が、肩を組んで笑っている姿が写っていた。


「あなたのお祖父さんと私の祖父は親友だったそうです。『影の所作』は二人で改善したものだとか」


 実は驚きを隠せなかった。


「まさか……」


「祖父は警察官でしたが、正義感の強い人でした。しかし、法の枠内では解決できない問題があることも知っていた。だから……」


 円城は写真を大切そうに仕舞いながら続けた。


「彼も『闇の正義』を信じていたのです」


「さて、その孫である貴女は?」


「ご安心を。私たちの仕事は、美術品を正しい場所に戻すこと。方法は問いません」


 彼女の瞳には、実と同じ決意の色があった。


 円城は立ち上がった。


「また素晴らしい『ダンス』を期待しています。次回は、もう少し近くで拝見したいものです」


 実は彼女を見送りながら思った。本当の”天下無双”とは、道具ではなく、技術でもない。同じ志を持つ者たちの見えない絆こそが、時代を超えて続く、真の”天下無双”なのだと。


 窓から差し込む夕日に照らされ、実は静かに『影の所作』の型を一つ、舞い始めた。

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