くぐつもの

綺月しゆい

第1話「怨雨」

 鬼が出る、という噂を耳にするようになったのは果たしていつの頃からだろうか。


 嘉永六年(一八五三)水無月、アメリカの艦隊ペリーが四隻の黒船を率いて浦賀沖に到着した。その後も、葉月にはロシア大使プーチャンが開国通商を求め長崎に来航、翌年には幕府が日米和親条約を締結するなど、長らく続いた鎖国体制は崩壊の一途をたどっていた。


 こうした諸外国の脅威や対応が後手に回る幕府に対し、高まるのは尊王攘夷の風潮。少しずつ降り積もった不安が、民の心を消耗させていたのだろう。江戸では、「怪異が出る」との噂がまことしやかにささやかれるようになっていた。


 もとより、江戸は幾多数多の怪異譚が跋扈する町である。

 魑魅魍魎。柳下の首なし女。皿屋敷の怨霊。女子どもの神隠し。

 数えだしたら切りがなく、けれどここ数年、奇怪事件やその目撃談は異様なほど増えている。だからといって、人々の生活はそう易々とは変わるわけではなかったが、ただ、誰しもが漠然と思っていた。


 何かが、終わろうとしているのだ、と。


 時は経ち、文久二年(一八六二)・春。

 ゆきが里を出て、まもなく四年の歳月が経とうとしていた頃のことである。


 ***


 くみが父の行いに耐え兼ねて、弟と共に夜逃げしたのは、三月ほど前のことであった。

 父は、事あるごとに家族に暴力をふるって困らせた。唯一可愛がっていた弟の喜光に手を挙げた時、とにかくこんな家にいてはいけないと思った。


「雨…やまなね…」

「…うん」


 昨晩から、ひっきりなしに雨が降り注いでいる。進む先は暗くて何も見えない。傘もなく、ずぶ濡れになりながら、冷え切った喜光の手を引いて、ただひたすらに夜の森を歩いた。


「与、ごめんね。二人で逃げなさい」


 母がそういって私たちを逃がした瞬間が、ふと目の奥でひらめいて、胸が裂けるように痛んだ。二人を逃がしたことがばれたら、母はどんな仕打ちを受けるのだろうかと、想像するだけで腹のそこから身震いした。けれど与は、歯を食いしばってぎゅっと胸の首飾りを握りしめる。今は、母のことを想って泣いている場合じゃない。せめて弟のことだけは守らなくちゃならない…。私たちにはもう、帰るところはないのだから、と。


 けれど、与はあまりにも無力だった。自分がもっと大人だったら、弟を連れて逃げても生き延びられたかもしれない。なにか、他のやり方を思いついたかもしれない。

 あと半刻あれば森を抜けられるという時に、突然見知らぬ男たちが与と喜光に近づいてきた。


 一人は巨木のようにずっしりとした体躯の男。その後ろに立っているのは,華奢な腰回りのまるで女のような小男。


「あぁ、こいつらですわ」


 細身の男が口を開いた。大男は、む、と喉の奥をうならせて返事をすると、ゆっくりとした動作でかがみ、手を伸ばして与の顎を持ち上げた。喜光がそれをはらおうとして近づくと、男はいきなり拳で殴りつけ、喜光は地面に後頭部をたたきつけられた。


 ごん———と鈍い音が響き、与は目の前が真っ暗になった。


「喜光‼」


 一瞬、なにが起こったのかわからなかった。雨の冷たさで、ぼんやりとした意識の中で外界の輪郭を捉えていたが、弟の泣きわめく声を聞いた瞬間、心の奥底で何かがうごめき、今まで虚ろだった与の目がはっきりと覚めた。


 今、知らない顔が自分の顔を食い入るように見ている。その眼光には見覚えがある。この眼差しは信用してはならない。与はとても恐ろしくなった。全身に震えが走ったのは、きっと雨のせいだけではないだろう。


「…ふん。父親の借料を返すには足らんな。傷ものなど話にならん」


 大男がそうつぶやくと、後ろにいた細身の男が口を挟んだ。


「まぁまぁ。そういう駆け引きは後にしましょか。この娘、傷はあれど顔立ちはなかなかですやろ。今ここで死んでしもうたら、元も子もありませんわ」


 大男は、一瞬むっとした表情を見せたが、押し黙り、すぐさま喜光を見やった。


「これ以上わめくなら、お前には金ではなくて刃をくれてやるぞ」


 与は、男らのやり取りを聞いているうちに、ようやく今の状況を悟った。

 ——この者たちは、私たちを売り買いする話をしている。

 

 喜光はもう、なかば意識を失いかけている。与自身も、かすかに商人たちの声が聞き取れるくらいだ。


 あぁ、せっかく悪夢から逃れられたと思ったのに、畏れていた時はいともたやすく迎え来る。なぜ、と問うてもわからない何かが、自分たちをとりまくすべての世界を変えてしまった。


(…どうしたらいいの)


 必死になって頑張ったのに、結局、弟を父の手から守ってやれなかった。辛くて、悔しくて。自分の無力さを見せつけられたような気がした。


「ねぇやん…」


 重く立ち込めた雲から、雨が、銀色の糸のように切れ目なく降り続いている。それは、この空間にあるすべてをかき消し、まるで音を失った世界に自分だけが存在しているような心地だった。


(あぁ。私、ここで死んじゃうのかな…)


 喜光の姿が、まるで空気に溶けたように薄くなっていく。


 与はふと、昔のことを思い出した。

 物心つく頃の記憶は、押入れの隙間から見る両親が喧嘩する姿だった。いや、あれは一方的に母さんが殴られていたっけ。きっと最初のきっかけは些細なことだったのだと思う。けれど、男の支配欲はそれでは満たされなかった。しだいに母さんの体には男の大きな拳の跡が、心には言葉の呪縛が、日に日に濃く深く刻まれていった。


 そんな時、男は決まっていっていた。「悪気はなかったんだ。また仲良く暮らしていこう」と。

 当時六つだった私にもわかった。この男には、人としての道理も感情もなく、鬼より怖ろしい人間だ、と。だから怖くて、恐ろしくて、反吐が出るほど軽蔑した。


「大丈夫。与の笑顔で母さんなんでも頑張れちゃうから」——母さんの口癖は決まって、私を励ます言葉だった。

 母さん、本当はそんなことないって知っているんだよ。本当のこと教えてよ、と言いかけては言葉に詰まる日々。そうやって母さんの青みがかった頬を小さな手の平でさするたび、自分の無力さを痛感し、心の底から自分を憐れんだ。あぁ、私もあの男のすべてを壊してやりたい、と。


 その後、間もなくして弟の喜光が生まれた。彼の存在は、この家にとっては唯一の希望の光だった。喜光が生まれて以来、男は出稼ぎと言って町へ出かける事が多くなり、数日家を空けることも多くなった。だから五年もの間、私たちは人間らしい生活を送ることができた。食卓を囲み、三人でごはんを食べること。朝方まで、暖かな布団で眠ること。誰もが痛い思いをしないこと。私は、喜光からたくさんの温かさをもらった。


 けれど、そんな生活は長くは続かなかった——人は結局、そう簡単に本性を変えることはできない。それを身に染みて実感したのは、喜光が頬を腫らしながら泣き叫ぶ声を聞いた瞬間だった。山菜を採りに母が家を空けており、喜光と2人で帰りを待っていると、突然あの男が帰って来た。喜光は父の姿を見ると、すぐさま駆け寄っていった——が、男はなんの前触れもなく喜光の頬を殴りつけた。喜光の小さな頬は、ただれたように赤黒くた腫れていた。


 また、あの悪夢が蘇る。押入れの隅で小さく震えなければならない敗北感。私の大切なものが壊されていく絶望感。そうして、長らく眠っていたあの感情が、憎いというむき出しの感情が再び思い起こされたのだった。


 ——パチン。

 泡沫の日々は、こうして弾けて散った。


 ***


 「ねぇやん‼ねぇやん‼」


 喜光の声が、今は虚しく響く——が突然、後ろにいた商人が、喜光の腕をつかんだ。


「お前、ほんまにうるさいガキやなぁ。そんなに死にたいんか?あぁ?」


 喜光は鳥のような黄色い声を上げて、必死に与にしがみつこうと手を延ばしている。

 遠い意識の中で、喜光の声がごうごうと脳裏に響き渡る。反射的に、その手を握り返さねばならないと思った与は、弟の手をつかもうとして自分の腕を伸ばしたが、なぜか体がうまく動かなかった。


(弟を…たすけなきゃ…いけないのに…)


 雨に濡れながらも、幸せそうに笑みを浮かべる弟。私はその笑顔にどれだけ救われただろうか。色んな感情が混ざり合って上手く言葉にできない。


 だから願った———せめて、この手を掴めるほどの力がほしい、と。


 額に巻かれていた帯が、たらりと落ちる。束の間、ドクンッと、額の傷が鼓動を刻み始めた。


「お、お前…額のそれはなんだ…」


 与の体は相変わらず、佇んだまま何の反応も示さないが、男らの悲痛に歪んだ声は、目を閉じたままでも十二分に聞こえた。

 放たれる人の所為に臓腑がきしむ。

 痛みはある。けれどそれは、最初から分かっていた。いずれこうなると知って、その日が来たのだ。


 母と交わした唯一の約束——決して人を憎まないこと。


 けれど、この状況で、身の内側からあふれ出るそれを抑えることなどできなかった。

(母さん、約束破ってごめんなさい)


 見開いた額の眼は血のように、紅い。


「ねぇ、やん…?」


 喜光の絞り出したような嘆きに、与も胸が痛む。お願い、そんな顔をしないで。ここに至っても、喜光だけには受け入れてほしいと物乞う。

 けれど、幼い弟にはその想いが届くはずもなく。互いの焦点が合わず、最後の最後で分かり合えなかった。


「ねぇやん、どこにいったの?こんなの僕のねぇやんじゃないよぉ…バケモノだ」


 弟の一言に、与はたたき伏せられた。姉弟は、ここで終わった。そう、思ってしまった。不器用でも、幼くても、弟を最後まで守ろうと誓ったのに。たとえその選択が愚かだったとしても、二人の間には決して誰にも侵されないものを築き上げてきたはずだったのに。

 自分の決意を正しいと信じ、貫いてきた自分自身さえも踏みにじられた。本当は、醜い憎悪にまみれた獣なのだと。

 すべてを否定された与の内側に渦巻く感情は、ひどく純粋だった。純粋で、底が無く、暗い。その混じり気のない、どろりとした激情が、やがてこの身を焦がしていく。


 ——さぁ、目を覚ませ。


 ふいに、与の胸の奥底から、何かが、むくりと起き上がるのを感じた。

 こわいという感情と、憎いという感情が入交り、全身が燃え上がるように熱くなった。そして、その熱さは喉元を通り、頭頂部にまで突きあがっていた。


 闇の方から、光がさしたような気がした。だから与は、恐怖と怒りの感情に押されて、全身に流れ込んでくる得体の知れないその力を受け入れた。すると、僅かな高揚感が胸からじんわりと広がっていき、やがて花の蜜のように甘美な匂いが身のうちへと沁み込んでいくのを感じた。その匂いに導かれて、ごうごうとうねるものが、内から外へ弾けでようとしていた。


(はぁ…はぁ…はぁ…)


 与は、せわしなく息をついて、目の前にいるはずの弟を見た。が、思わず固まった。喜光の手をつかんだつもりだった。なのに、つかめなかった。いや、つかむどころか…。


 パタリ。足元に、何かが落ちた。ゆっくりと目下を見る。


 首。胴。首。胴。首。胴。


 その光景をみて、与は全身から血の気が引いた。


「なに…これ…」


 今、ここで、何が起こったのかわからなかった。原型をとどめぬ骸が、点々と散らばっている。男も、喜光も、みな同じように、喉元を割かれて死んでいた。

 なんでなんだろう。確かに間に合ったはず。そう願ったはず。なのに、喜光がいない。


(これが悪夢でないならば、私は今なにを見ているの…)


 頭の中がちかちかと瞬いている。どれだけ確かめても、喜光の温もりはない。


 ——おまえが、殺したんだ。


「ちがう…私は、こんなこと全然望んでなくて…」


 震える呟き。


 ——なにを言っているんだ。おまえは望んだだろう。


「ちがう‼」


 与の内側に渦巻くどろりとした感情が、冷たく微笑みこの身を焦がしていく。


『ねぇやん!』


 二度と握れない、小さな手の温もり。弟はもう、何も言わない。笑ってくれない。もう、ここにはいない。与はその場に崩れ落ちる。喜光の死があまりにも唐突すぎて、現実がついてこない。


「あ、あ…、゛あああああああああああ‼」


 喜光の頭部を抱きかかえ、喉が潰れるほど叫んだ。


「痛かったね。怖かったよね。ねぇやん、守ってやれなくてごめんね」


 だが、愛しいはずの弟を前にしても、不思議と涙の一滴もでなかった。


 ——フフッ、フフフフ…


 はらわたがうずく。これは、何なんだろう。熱くて、冷たい。腹の底がうずくたびに、意識が黒く塗りつぶされていく。

 雨の中、私は願った。せめて、この小さな手を握り返せるほどの力がほしい、と。しかし、息をしなくなった人々を前に喜ぶ私は、もはやあの男と同じ、バケモノだ。


「私、どうしちゃたの?」


 ——おまえは私。私はおまえだ。


 だらりと全身の力がぬける。腹で脈打つ得体の知れない力に引きずられて、記憶がだんだんと薄れていくと、もう私に抗う術はなかった。


 だが、胸にたった一つの感情が残った——憎しみ。


 湧き上がるこの感情だけが、今の私のすべてとなった。憎悪に満ちた心は、不気味なほど静かだ。開いた傷がふさがり、骨が、筋肉が、唸るように音を立てて隆起していく。

 急激な身体の変化で、吹き出すように全身に走る痛み。今は、その痛みさえも心地よいと感じる。


『さようなら』


 見開いた両眼が鉄さび色に染めあがる頃、与は人としての時を終え、憎悪をもって鬼に堕ちた。 


 ***


「水舟」は江戸より百里ほど離れた、稲作を生業とする地。稲を育てるのに水は不可欠で、古くから渡しが盛んに行われている。

 夜ともなれば未だに冬の面影が残り、風の冷たさが肌をさす。加えて、今日もまた雨ときた。ここ最近の季節外れの長雨でさすがに川の水傘も増している。どこかで雨宿りをしなければならないと思った士は、ここ最近通い詰めている茶屋へと足を運んだ。


「最近はこう、明るい話がありませんねぇ」


 店主はせわしなく手を動かしながら、ため息まじりに愚痴をこぼす。近頃の世相からか、物騒な話ばかりが耳につく。


「聞いた話じゃ、近々朝廷の姫様と幕府の大将が婚姻するらしいですぜ。ちまたじゃ、公武合体に異を唱える派閥もあるらしくて、おっかねぇったらありゃしない」

 手狭な店内で、これはまた余計なことを。

「はい、お待ちどお。団子二人前ですね。」


 明るい声とともにそれを運んできたのは、店主の一人娘。名を杏子と言った。杏子は引きつりぎみにはにかむと、そっと士の前に茶と団子を置いた。去り際に、余計なことを言うな、と言わんばかりに父親の脇腹をつついた。


 近頃、徐々にではあるが、脆弱な幕府に対抗し、尊王攘夷を訴える者たちも増えている。江戸から離れているとはいえ、過激な浪士がどこで闊歩しているかもわからない場で、滅多なことは言わないに越したことはない。


(しっかりした子だ…)


 そのやり取りに安堵し、士は団子を一串頬張る。


「しっかし旦那、こんなところで誰かと待ち合わせでも?こんな辺鄙な店に毎日くるなんて、なかなかの物好きじゃありません?」


 たしかに、店主が言う通り、店内を見渡しても客は士以外いなかった。だが正確にいうと、店主の言う待ち人はもうすでにとなりに座っているんだが。店主には見えていないみたいだ。


「えぇ、まぁそんなところです」

「はぁ、そりゃまた、珍しいことで。ちなみに、どんな方なんです?あ、もしかして女ですか?」


 まさか、連れが人ではないなんて真正直に答えるわけにもいかず。返答に困り口ごもっていると、杏子が割り込む形で父を叱る。


「もう。せっかく来てくれるお客さんなんだから、そんなに問い詰めなくてもいいでしょ。士さん、気を悪くしないでね」


 気遣わし気な視線。小さく苦笑いを返す。


「あれ?士さん、もう団子食べたんです?ひょっとして、うちの団子、そんなに美味しかったですか?」


 別にまずくはない。とびぬけて美味しいとはいかないが、十分にいい味だ。


「えぇ、まぁ」


 ここしばらくこの店に通ってわかったのは、この親子はずいぶんと世話好きらしいことだ。もっとも、ここしばらく通っても客入りが良くない所をみると、貴重な常連に構うのもわからなくはないが。構われるのは、どうもむずがゆい。


 士が江戸の町を出たのは、十五の時だった。本当の家族を鬼に殺され、母の親友だった九葉に連れられて、二百里ほど離れた「隠」の里で育てられた。

 あれから十年。ずいぶんと時がたち、彼がもし人であったなら、それこそ背丈のある立派な男になっていただろう。

 しかし、士の外見は、この十年まるで変化がなく、未だに十五のまま。身体的な変化と言えば、せいぜい髪や爪が伸びるくらいで、ほとんど変わらない。それはまるで、千年の時を生きるとされる鬼のようであったが、士自身もまた、己の正体に隠された真相は知らない。

 ただ唯一明らかなのは、あの時負った傷が災いしているということだけ。幸い、人前で鬼のように巨躯な体に変化したり、目の色が赤らむことは今まで一度もなかったが、一つの土地に長くとどまれば、いずれはその姿の奇妙さを悟られてしまうだろう。

 だからこそ、できる限り人気のない場所を選ぶのが、士が俗世で生き抜くために覚えた術であったのだ。


「そういえば、ご存知ですか?最近、近くで辻斬りがあったらしくて。士さんも、くれぐれも夜道は気をつけてくださいね。危ないですから」

「気をつけます」


 士はこの十年を過ごすうちに覚えたことがいくつかある。例えば、外見を悟られぬように隠す工夫や、己自身の心を隠す術。こうしたくだらないことほど、上手くなっていくものなのだ。


(我ながら、哀れだなぁ…)


 士は内心で自嘲した。


「店主、お勘定を」

「へい。あ、そういえばね、さっきの辻斬りの話なんですが…。なんだって、死体が妙な姿たって噂でして…」


 その言葉に、士はピタリと足をとめた。


「妙、とは?」

「へぇ。なんでも、獣にでも喰われたように、見るも無残なほどバラバラな死体はかりらしいですぜ。下手人は鬼の仕業じゃないかって噂しているんですよ。」

 

 士はその話を、表情一つ変えずに聞いていた。


(それは、面白い話を聞いたな)


「それはどの辺りで?」

「ここから北の方角に歩いたところに白兎橋があるんですが。どうやらその辺りらしいですぜ」


 士は、ふむ、と一返事。

 懐から銭を出しそれを店主に渡すと、店主は意外そうな声を漏らした。


「旦那、気になるんです?」

「まぁ。仕事柄」

「へぇ。ちなみにどんな?」

「…鬼狩です」

「そりゃあ、また勇ましいこったぁ」


 くすくすと笑っているところからして、あまり信じていない様子だ。まぁ無理もないだろう。自分の娘と年端の変わらないような者が、まさか鬼を狩るなんて普通では考えられないと思われたのかもしれない。


 だが、江戸にも数多の怪異談がささやかれるように、怪異は実在している。普段は形こそなく、人が生きる生の領域を犯すことはないが、理を外れ、ひとたび形を得てしまえば、当然力を持たぬ者は被害に遭い、最悪の場合命を落とす。

 士は、そんな被害者の代わりに怪異を討つことが、今の生業となっていた。何より、それが自分の正体を探ることにもつながるため、一石二鳥であった。


「たしかに。ありがとうございやした!」

「馳走でした。では」


 銭を数え終えた店主は、軽やかな口調で送り出す。


「さてと」


 今夜はまだ、仕事を受けていないし、お腹もたまったところで、少し歩いて噂でも集めるか、と、頭で考えながら白兎橋の方へむかった。


 ***


 白兎橋は、水舟村と川向うにある日埜を結ぶ橋の一つで、ここら一帯の橋の中では一番規模が大きい。昼間は、渡しの舟の往来が盛んで、村人や商人もこぞって利用しているが、黄昏時ともなれば、人影はほとんど消えていた。


 辻斬りが起きたとされる場所にたどり着いた。士は腕組みをし、左手で顎をさすりながら、周囲の気配に意識を集中させる。


 士は空を仰ぐ。今宵もまた、飲み込まれるほどの漆黒の空。傘から滴る雫がしっとりと肌に触れる。橋とは、あの世とこの世を繋ぐ道。辻斬りにしろ、鬼の仕業にしろ、ここはずいぶんとおあつらえ向きの場所だ。


「結羅、どう思う?」

「どう思うもこうも、お前、人の子とずいぶんと楽しく話してたな?俺の存在を忘れてただろ?」


 結羅は、今は人間に近い姿をしているが、ヤタガラスと呼ばれる神の化身だ。


「いいや、さすがに忘れてはいないよ。たしかに団子をあげただろう?ただ、しかたないんだよ。お前の姿は人間の目には留まりにくいんだ。ああいう場は、お前には不向きだね」


 結羅の機嫌をなだめながら、しばらく時を過ごしたが、特にこれといった変化はなく、今度はすこし離れた所に歩き始めた。


 現場に来てみたものの、さすがに都合よく現れてはくれない。それも当然のことだ。そう易々と現れるのならば、とっくに捉えているだろう。もしそれが、人であればの話だが。噂通り、辻斬りの正体が鬼であったなら、奉行所ではどうにもならない。できれば、これ以上被害が出る前に捉えていきたいところだが、肝心の辻斬りの居場所がわからない。つまりは結局、事が起きるまで辛抱強く待つしかないのだ。


「……こればかりは、致し方ない…か。」


 ——この世に異能があるが、それは決して万能ではない。鬼であれ人であれ、現世に生きるかぎり、それはままならないものだよ。


 ふと思い出し、胸が痛む。かつて師であり、母であった九葉の言葉。


 己の身は、人の理を外れ、限りなく鬼に近しいものなのだろう。だが、そう都合よく超常の力を使ってしまっては、いつか本当に鬼になってしまうのではないかと不安になる。

 まだ人でありたいと願う、自身の弱さゆえかもしれないが。だからこそ、できる限り、人探しは己の足を使って探したいのだ。


「さてと、もう少し見回って行こうか」


 そうして再び気を引き締めて、探しに行こうとした矢先。


「ぎゃあああああああああ…あああ…‼」


 男女の悲鳴が聞こえた。咄嗟に声の方へと走り出す。前方に見える鳥影橋。そのさらに先の日田橋へ。たどり着くと、そこには——

2つに分裂した骸と、濃密に漂う血の匂い。


 士は、あたりをぐるっと見渡すが、辻斬りらしき影は見当たらない。


「少し来るのが遅かったか…」

「いや、士、これを見てくれ」


 無残に斬り捨てられた男の死体の隣に横たわっている、女の方へ顔を近づける。まだ生温かい傷口は、刃で斬られたものではなく、無残にえぐり取られたようだった。たしかに、これは人間の仕業ではない。だが、まだかろうじて息があるようだ。


「結羅、この女性を見てくれ。私はこのまま鬼を追う」

「あぁ、頼んだ」


 士は背を向け、さらに川沿いの小径を、闇の奥へと駆けた。湿った空気が肌を撫で、濡れた砂利は踏むたびに軋みを含んだ重い音を放つ。


 闇に沈む森の中へと足を進める。木々が雨を含み、枝葉が重たく垂れ下がる。足元の苔むした石が滑りやすく、慎重に足を運ばねばならなかった。

鬼の影を追い、士は雨音と自らの足音が交じり合う静寂を切り裂いて進んでいく。深い山奥の闇に飲み込まれそうになりながらも、使命感だけがその身体を前へと駆り立てた。


鬼の気配は、断続的にだが確かに前方へと伸びている。

軽やかな足音が、濡れた地を叩く音の向こうからかすかに響いた。


「逃がすものか……」


士は、ぬかるむ山道をさらに奥へと駆けた。木々の影が濃くなり、獣の気配すら遠のいていく。雨の匂いに混じり、どこか生臭い残り香が漂っていた。


だが——ふと足を止めた。

気配に微かな違和感が混じっている。


恐れ、怒り、殺意。

これまでも追跡の途中、幾度となく感じてきたものだ。

だが今、前方に漂う気配はそれとは異なっていた。


——悲しみ。


重たく沈みこむような、胸を締め付ける寂寥が漂っている。

ただの逃走ではない。己の内に巣食う何かと、深く葛藤している気配だ。


士は呼吸を整えつつ、再び駆け出した。


(いったいなぜ、そこまで……)


やがて、道がわずかに開け、川音が耳に届きはじめた。流れの速さを物語る轟きが、雨音に溶けて響いてくる。士はさらに速度を上げ、木立をすり抜けるように走る。


視界が開けた。川辺にたどり着いたとき、士は一瞬息を呑んだ。


そこに立ち尽くす影。

震えるような肩、その小さな背は、雨に濡れ、まるで世界から切り離されたようだった。


あの鬼だった。


その周囲には、ぼんやりと灯る灯火が浮かんでいる。

ただの人間なら、このような川に足を踏み入れればひとたまりもない。

だが彼女は、灯火を抱えたままただ川面を見つめ、動けずにいる。


士はやがて悟った。

この季節外れの雨も、降らせているのは彼女自身だ。

針のように貫く雨粒には、深い悲しみと、自らへの怒りの色を帯びていた。


(死にたくても、死ねぬのか……)


「ここまでだ、雨鬼よ」


その声は怒りでも憎しみでもなかった。

ただ、彼女の心の叫びに呼応するかのように、胸の奥底に沈めていた何かが、そっと波紋を広げていた。


雨は止まない。

ただ、川の流れも、灯りの揺らぎも、士の言葉とともに、その場に静けさをもたらしていた。






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くぐつもの 綺月しゆい @shiyui_00

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