琥珀色の手紙

藤泉都理

琥珀色の手紙






 ダージリンのファーストフラッシュ。

 淡い黄色から淡いオレンジ色で、マスカットや青りんごのような香り。


 ダージリンのセカンドフラッシュ。

 明るいオレンジ色で、熟したマスカットのような香り。


 ダージリンのモンスーンフラッシュ。

 黒みがかった赤色で、紅茶らしい落ち着いた香り。


 ダージリンのオータムナル。

 赤みがかったオレンジ色で、熟したフルーツや柑橘系のドライフルーツのような甘い香り。


 アッサムOP。

 透明感のある深い赤色で、穏やかな香り。


 アッサムBOP。

 赤褐色で、スモーキーな香り。


 アッサムCTC。

 暗めの赤褐色で、香りは弱め。


 ニルギリ。

 透明度の高い鮮やかな赤色で、すっきりとした穏やかな香り。


 ウバ。

 明るい赤色で、特有(薔薇やフルーツに似た)の甘い香り。


 ヌワラエリア。

 淡いオレンジ色で、草花のような優しい香り。


 ディンブラ。

 赤褐色から赤みのあるオレンジ色で、上品な香り。


 キームン。

 深い赤色で、オリエンタルな香り、フルーティーさも感じる。


 雲南紅茶。

 赤褐色からオレンジ色で、スパイシーな香り。


 その他に茶葉に香りをつけた紅茶「フレーバードティー」がある。


 あの人は自分で調合した紅茶インクとお気に入りの工房で買ったガラスペンを使い、一か月に一回、黄昏学園たそがれがくえんの寮に手紙を送ってくれる。

 仄かに紅茶の香りを立たせる繊細な文字で記されたあの人からのその文には、紅茶インクの作り方や、紅茶インク作りに成功した時と失敗した時の環境や状況、何が売れたかなど仕事に関する事ばかりであったが、それが有り難かった。

 仕事の内容を通して、繊細な文字を通して、あの人の様々な表情が目に浮かぶ。

 表情の筋肉は仕事をしていないとあの人の友人によく指摘されるらしいが、よくよく見れば微細な変化だけど、俺は分かる。

 今日の紅茶インクはアッサムOP。

 透明感のある深い赤色で、穏やかな香りだ。

 あの人からの手紙は俺を落ち着かせてくれる。

 同時に、胸をざわつかせる。

 憐れにも涙を湛えて懇願したくなる。

 待っていて。と。






 家族の走る速度についていけず捨てられた俺を拾ってくれたあの人と共に過ごしたのは、五年間。

 最初の一年間はあの人を避け続けていた。

 家族も厳しく怖い存在だったが、家族以外の生物も厳しく怖い存在だった。

 よく分からない単語を叫んで追いかけ回され続けた。

 最初は優しかった生物も時間が経つと俺を傷つけようとした。殺そうとした。

 あの人だけが例外で、俺を傷つけない存在だとどうして信じられるのか。

 用意してくれた温かい食事も手に付けず、柔らかい寝床にも入らず、逃げても逃げてもずっと追いかけ続けられて捕まえられるので逃げる事は諦めて、ずっとずっとずっと、大きな木の根元に穴を掘って、そこで震える身体を丸め込ませて、木の根っこを食べて生き続けて来た。

 毎朝、毎昼、毎夜。

 あの人は俺の元に来てくれた。

 湯気が立つ食事、字のない絵本、おもちゃを持って来てくれた。

 私と一緒にご飯を食べないか。

 私と一緒に絵本を読まないか。

 私と一緒にベッドで寝ないか。

 私と一緒におもちゃで遊ばないか。

 あの人は無表情な顔と無機質な声音で以て言ってくれたが、俺はそっぽを向いたままだった。

 そっぽを向き続ければよかったのだ。

 この優しさに甘えたいとあの人を見上げなければよかったのだ。

 あの人の背後にどこぞの魔法使いが疑似満月を夜空に作り出しさえしなければ。

 疑似満月を見ては自我を失い、人間の姿を解いて幼い狼の姿になり、凶暴化した俺はあの人を傷つける事はなかった。


 片目を俺の爪で失った吸血鬼のあの人は気にするなと言った。

 紅茶クッキーを食べたらすぐに治ると言った。

 あの人はマントの胸ポケットに入っていた紙の小袋から取り出した真っ黒な紅茶クッキーを一個丸ごと口の中に入れ、小さく咀嚼し続けた。すると、あの人が言ったように、痛々しい俺の爪痕が強く刻まれた片目は元通りに再生した。

 けれど、元通りになんてなるわけがない。

 元々何か形成されていた訳じゃない。

 これから形成されようと、形成したいと思っていたところだった。

 形成する前に壊したのだ。俺の手で。

 自我を取り戻した俺はあの人から離れようとしたが、あの人に抱きかかえられて、あの人の邸に連れて行かれた。俺は本当はあの人の心地よい腕の中で暴れ回りたかったがもう傷つけたくなかったのでできずにいた。あの人の腕の中から逃れたかったのに、あの人はそれを許さなかった。

 火が消えかかっている暖炉の前に座って、あの人は言った。

 私のところに居るか、君と同じ人狼も私と同じ吸血鬼も他にも様々な種族が学ぶ、遠方の寮のあるエスカレート式の学園に行くか。

 どちらにするか。

 傍に居たい。

 傍に居たくない。

 葛藤した俺は小さく口を開いて答えた。

 そうして四年間、俺はあの人と共に過ごして学校へ行く準備を整え、俺は学校へと一人で向かった。

 それから五年間。

 俺はあの人からの手紙を受け取り続けている。

 俺からは一度も送った事はない。

 どうしても粉砕してしまうので、あの人と同じガラスペンを使えないからだ。

 もうガラスペンは諦めて万年筆にしたらと先生に言われたが、万年筆は万年筆でペン先をひん曲げさせてしまうので文字が書けず。

 ようやく最近になって、武骨な文字だけ書けるようになったが、手紙は送っていない。

 万年筆も味があっていいが、やはり俺はあの人と同じガラスペンを使いたいのだ。

 そう、強く願っていたのに、

 まさかこんな目に遭うなんて思いもしなかったのだ。






【狼は自ら獲物を狩るため、その歯は犬よりも大きく丈夫で、顎の筋肉も犬よりも発達している。目の形も大きく異なり、犬はくりくりの愛らしい目をしているが、狼の目は鋭く釣り上がっている。

 狼の脚はスラリと細長いが、鹿や猪を追いかけてどこまでも走り続けるほどの持久力を支える骨格になっている。上腕が細く長い前足は、胸の真下(犬より後ろの方)にあり、肩幅も狭く、肩関節をしっかり伸ばせる構造になっているため、大きな歩幅で速く走る事ができる。また、狼の足のサイズは犬よりも大きい傾向にある。足跡は狼が細長い形であるのに対し、犬は肉球に丸みがあり愛らしい形をしている。

 狼の頭の骨格は鼻先から頭部にかけてまっすぐ伸びているが、犬は全体的に丸みを帯びている傾向にある。頭のサイズは犬の方が身体のサイズと比較して大きめなので愛らしく見える。

 狼は一夫一婦主義である事が知られていて、一生の間にパートナーを変える事はあるが、年に一回の繁殖では同じペアでしか繁殖活動はしない。

 一年の間にパートナーを変える場合は、相手が亡くなったり、群れから追い出されたり、怪我や病気で繁殖能力がなくなった時と言われている。

 狼は昔も今も野生の厳しい環境で自ら獲物を獲りながら生き抜いているので、狼の方が犬よりも自立心や独占欲が強い。警戒心が強く攻撃的な気性をしていて、狼が人間に対して友好的な感情を向ける事はない。

 狼は家族を大事にする性質があり、子育てにも積極的】




 以上の記述から分かるようにも、生物学上では同じ「イヌ科」に属するがまったくの別物だ。

 人狼の夾霞きょうかは憤慨した。

 凛々しく野性味溢れる狼と愛らしく他の生物に従順になる犬とは姿形から性格までまったく違うのだ。

 だというのに、何故。

 薬品科のドジっ子な友人、建辰けんしんが作った「ポメガバース薬」というものをぶっかけられて、ポメラニアンになってしまったんだ。


「っぎゃんぎゃんぎゃん!!!」

「あ~~~。ごめん。んふ。でも。きゃわいいよ~~~」

「っグルルルルルルルゥ」

「え? うそ? 咬まないよね? 僕たち、一番の友達じゃない。ね? ごめん。ごめんってば。ねえ。ねえ。ねうそっっっぎゃああああ!!!」






 ポメガバース。

 ポメガは疲れがピークに達したり体調が悪かったりストレスが溜まるとポメラニアン化する。

 ポメ化したポメガは周りがチヤホヤすると人間に戻る(戻らない時もある)。

 周りの人がいくらチヤホヤしても人間に戻らない時は、パートナーがチヤホヤすると即戻る。

 ポメガはパートナーの香りが大好きだから、たくさんパートナーの香りで包んであげるととてもリラックスして人間に戻る。


 「オメガバース」の世界観を踏まえて作られた「バース系創作」のひとつである。






 この様々な種族が共に暮らし学ぶ黄昏学園からあの人が住む僻地までは、最高速度が百二十九キロメートルの蒸気機関車と徒歩で五時間ほどかかるが、狼の姿になった夾霞の足では半分の時間で到着する事ができる。

 狼の姿ならば。である。


(俺は、どうして。行きたくないのに。会いたくない。まだ。せめて。ガラスペンで手紙を書けるようになるまでは。せめて。もう少し。胸を張って会えるようになるまでは。もう、自分の肉体も精神も魂も操作できない子どものままで会いたくない。のに、)


 会いたくない。

 本心だ。

 しかし、会いたいという気持ちも本心である。

 会いたい会いたい会いたい。

 まだ謝罪もできていないのだ。

 あの人に片目を怪我させてからずっと、生活する上で必要最低限の、学校に行く為の事務的な会話だけで済ませて来た。行儀よく、ぜんぶを縮こまらせて、息を潜めるように四年間、あの人の邸で暮らして来た。

 怪我をさせないように。

 学園に早く行けるように。

 それだけを頭の中に占めて暮らして来た。

 緊張している事があの人には丸わかりだったのだろう。

 あの人も俺にかける言葉を少なくしてくれた。

 不甲斐ない。未熟だ。情けない。

 早く大人になりたい。

 謝罪して、生涯を懸けて償うと言いたい。

 いや。これも本心だが。それだけではなくて。

 本当は一目見た時から、なんて。言えるわけがない。これは隠し続けなければならない。

 黄昏学園をいい成績で卒業して、お茶会社に就職して、お茶に関する伝手やら知識やらを会得して、いつかあの人の元に行くのだ。

 紅茶だけではなく、緑茶やほうじ茶のインクも作ってみたいと言ったあの人に、力になれますと胸を張って会いに行くのだ。

 最低限ここまで達成しなければ、あの人に会いに行けるわけがないのだ。

 だというのに、

 四本の短い足がいう事を聞いてくれない。

 あの人の元へ行く。それしか頭が考えられない。本能である。理性よ頑張れ踏ん張れ負けるな理性と心が応援したとて、叱咤したとて、まるで効果がない。

 まだまだ子どもだからだ。

 本能を制御する事ができないなんて、子どもである何よりの証である。

 嫌だ嫌だ嫌だ。

 こんな情けないポメラニアンの姿で会いたくない。

 こんな情けない精神のままで会いたくない。


(成長しているところをあの人に見せたいのに。何で俺はまだ走ってんだよ!!!)






 九時間後。

 夾霞はかろうじて立った姿で、詩暮しぐれの邸の扉を睨みつけていた。

 こんな情けない姿は見せたくない。

 本当に見せたくないと思うのだけれど同時に。


(一目だけでも姿を見たい。一目見たら即刻学校に戻って、建辰の足に咬みついて早く解毒薬の完成を早く促す。いや。ドジっ子とはいえ薬剤科なんだあいつは。もしかしたらもう解毒薬も完成させていたのかもしれない。ああくそっ。あいつの足に咬みついたままでいたらよかった。そうしたら、)


 そうしたら、




「迷いポメラニアンか」


 そうしたら、この無様な姿を見せる事もなかったというのに。




「君の本来の体毛は琥珀色か。綺麗な色だ」

「くぅん」


 夾霞は今、詩暮に抱きかかえられている状況に遭った。

 詩暮に見つかった瞬間、夾霞は疲労も吹き飛んでは俊敏な動きで以て姿をくらませようとしたのだが、やはり俊敏さで詩暮に適うわけもなく。狼ではなくポメラニアンならばなおさらである。

 あれよあれよという間に、夾霞は詩暮に邸の風呂に連れて行かれて、全身泥と汗と草とよく分からない物体まみれの身体を綺麗に洗い流してくれ、ドライヤーで乾かしてくれ、あちこちにできていた擦り傷やら刺さっていた棘を引き抜いては消毒してくれて、温かいミルク粥を用意してくれて、人心地ついたところであった。


「やわらかい毛並みだ。抱えて眠りたくなる。どうだ? 一晩私の家で休んで行かないか? 一緒に過ごしている方を探すのは明日でもいいだろう?」

「くぅん」


 一緒にベッドで眠る。

 なんて甘美な誘い。もとい危険な誘い。

 頭の中を桃色と赤色で埋め尽くした夾霞であったが、建辰を召喚しては理性を取り戻し、首を小さく振った。


「嫌か?」

「くぅん」

「そうか。残念だ。では、玄関まで一緒に同行させてくれ」

「くぅん?」

「安心してくれ。無理に引き止めはしない」

「くぅん」


 正体がばれなくて安堵する反面、ほんの僅かだけ落胆もしてしまった夾霞。詩暮ならばポメラニアンが夾霞だと気づいてくれると思っていたからだ。


(いや。気づかれなくてよかったんだ。こんな情けない姿が俺だって気づかれなくて。うん。よかった)


「だが、もう一度だけ聞かせてくれ。一晩だけ一緒に過ごさないか?」


 両の手で抱えられてはじっと目を見つめられて詩暮に言われた夾霞。紅の瞳に吸い込まれそうだと思いながらも、やおら小さく首を振った。


「そうか。わかった。しつこく言ったな。すまない。では、玄関まで一緒に行くか?」

「きゃんっ」


 居間から玄関までの短い距離の中、詩暮に抱きかかえられたままの夾霞は少しだけだからと自分に言い訳をして目を瞑る。

 ほんの少し冷たい詩暮の身体からは、多種多様な紅茶の優しい香りがした。






「便りがないのは元気な証拠。ポメラニアンになっても甘えてくれないのは、」


 一直線に漆黒の闇へと駆け出すポメラニアン、もとい夾霞を見つめ続けた詩暮。本当ならばこのまま邸で一晩を過ごして、早朝に蒸気機関車に乗って一緒に黄昏学園に戻ろうと思っていたのだが。


「環境のせい、か。人一倍プライドが高いのは。弱みを見せまいと必死に縮こまらせているのは。子ども扱いを嫌うのは。狼として、人狼として。誇り高く生きようとしているのだろうが。誇り高く生きねばならないと。環境だけではなく、その小さな肉体に流れる血が急き立てているのか。一度も甘えてはいけないと………まあ、そもそも、私にも原因がある、か。幼い生物が甘えられるような外見ではないし。私の邸に居る間は常に緊張されていたし。常に威嚇されていたし。このまま私の元に居ては元気になるものも元気になれないと、黄昏学園への入学を選択肢の一つに提示して、そちらを選ばれたわけだが。やはり嫌われているのか。黄昏学園長である友人の禊月けいげつには夾霞を待っていてくれないかと言われたが」


 血に飢えた事はない。

 紅茶を飲んだその時からずっと。

 赤褐色からオレンジ色で、スパイシーな香りの雲南紅茶を嗜んだ時からずっと。

 ずっと、血に飢えた事などなかったのだが。


「………私はポメラニアンが嗜好対象だったのか? 偏愛していたのか?」


 禊月が聞けば違うだろうと突っ込んでいただろうその言葉に首を傾げながら、詩暮は夾霞の気配が察知できなくなるまで邸の外に立ち続けたのであった。






 四年後。

 黄昏学園食品科を無事に卒業してのち、一年が経った頃。

 夾霞は詩暮に手紙を送った。

 詩暮に限らず、初めての手紙であった。

 最初は詩暮と同じガラスペンに拘っていたが、万年筆を使い続けていく内に万年筆の方が自分に合っていると感じ、淡い黄色から淡いオレンジ色で、マスカットや青りんごのような香りのダージリンのファーストフラッシュの紅茶インクと漆黒の万年筆を使って手紙を書いたのだ。

 最初はB(太字)の鉄ペンを、今はZ(筆記角度によって細字・太字に書きわける事ができる)の金ペンで。

 文字が震えてしまったので、何度も何度も何度も書き直して。

 ただの一言。

 三年間待っていてください。

 伝えたい事があります。



















 三年後の満月の日。

 自我を失い凶暴化するはずであった人狼の夾霞は確りと満月を見据えたのち、真正面に立つ詩暮を真っ直ぐに見つめた。

 薬品会社に勤めた友人の建辰が作ってくれた薬によって正気を保ったまま。

 社会に出る事に加えて、例えば薬を使っていたとしても、夾霞にとって、子どもではなく大人だという証として満月に狂わされずに居る姿を、詩暮に見せたかったのだ。


「幼い頃に片目を傷つけてしまって申し訳ありませんでした。あなたはすぐに再生するから気にするなと言ってくれましたが、俺は、ずっとずっと気にしていました。ずっと、あなたを傷つけた罪を償っていきたいと思っていました。三年間お茶の会社に勤めていました。紅茶インク作りに俺も役に立つので一緒に働かせてください! 俺と一緒に働く事がもし嫌ならせめて、紅茶や他のお茶の葉の手配を任せてもらえないでしょうか?」

「………ああ。その言葉は受け取るが。夾霞。本当に私に伝えたい言葉はそれなのか?」


 真っ直ぐに詩暮を見つめていた夾霞の瞳が大きく揺れてしまった。

 無表情だが分かる。詩暮は怒っていた。


(いや。怒っている。というか。苛立っている? 何で? 手紙の内容が悪かった? そりゃあそうだよな。だって。何か約束していた訳じゃないのに、伝えたい事があるから三年間待っていてくださいって。突飛だよな。意味不明だよな。恋愛関係にあるわけでも。ないのに、)


「あ。俺、」

「………」

「俺。本当は。本当は、」

「………」


 満月を背負って無言で立ち続ける詩暮の射抜くような視線を受けた夾霞は、ええいままよと手を強く握りしめてのち、ずっと隠し続けていた本心をぶちまけた。


「詩暮さん俺の番になってください!!! っひえ!?」


 本心をぶちまけた瞬間に、詩暮に両頬を両の手で包み込まれては素っ頓狂な声音が出てしまった夾霞。吐息がかかるほど間近に詩暮の顔が迫っては全身を沸騰させ硬直させながら霞行く思考の中で、あれっと思った。

 あれ、そういえば、吸血鬼も満月になにがしかの影響を受けるんだったっけ。


「………悪い」

「ひえっ!?」

「………君の血があまりに………いや。悪い。いい大人をした吸血鬼なのに。情けない。満月の影響を。受けた。少し。このままで。すぐに。立て、直す」

「っ!? 俺が考えなしで満月の日に外で会いたいって言ったから!!」

「えっ!?」


 詩暮は目を白黒とさせた。

 不意に身体が浮いたかと思えば、夾霞に抱きかかえられては急速度で邸へと戻っていたのである。


「大丈夫ですか!?」

「………いや。大丈夫では。ない。ので。もう少し。このままで、いて。いい。だろうか?」

「はい!!」


 嘘ではない。

 詩暮は誰にともなく心中で言い訳をした。

 嘘ではない。人狼と違い、満月の日は満月を視界に入れようが入れまいが、高揚感が高まってしまうのだ。それを抑えるのは、未だに不得意であったのだ。だから。


(お姫様抱っこを。強請っている。だけだ。本当は。離れた方が。高揚感は少しは治まるの。だろうが。今は。離れたくない)


 今ならわかる。

 ポメラニアンではなかったのだ。

 嗜好対象は。


(君。だったんだ)


「あのっ! あのっ! 紅茶を淹れましょうか!? 気分が落ち着くって前に言っていましたよねっ!?」

「ああ」


 身体を密着させた詩暮の、少し冷えた体温とは裏腹の熱い吐息が首にかかり、しかも、度数のとびきり強いブランデーでも混ぜたかのように身体から放たれる酔いしれそうなほどの濃厚な紅茶の匂いに、蒸発してしまいそうだと危機感を抱いた夾霞は一刻も早く気分を落ち着かせてもらおうと提案したのだが。


「今は。いい。まだ。このままで」

「ひぇっ」


 刺激が強すぎる。と思った時には、鼻血が噴き出していた夾霞。すみませんと大慌てして謝りしながら片腕で詩暮を抱えつつ、詩暮の顔に飛んだ鼻血をポケットに入っていたティッシュで優しく拭って、鼻の穴の中に何枚も埋め込んだ。


(あ~~~もうなさけねえ~~~ぜんっぜん大人じゃねえ~~~)


「す。すみません」

「………いや。すまない。もう。大丈夫だ」

「あ………はい」


 助かった。けれどまだ、もう少しだけお姫様抱っこをしていたかったような。


(いや。いいんだ。これ以上密着していたら、比喩ではなく本当に蒸発してしまうから。でも、)


 夾霞はお姫様抱っこを解いて床に立たせた詩暮の腰に腕を回した。


「あの。まだふらついているので、身体を支える事をおゆるしてください。ベッドまでですから」

「………いや。このまま台所まで支えてくれないか。紅茶が飲みたくなった」

「はい」


(………食品科も、身体を鍛える必要がある。か。筋肉も骨も分厚くて………目線もほとんど同じになった。大人になった。精神は未熟だが。これでは)


 甘えさせるよりも先に甘えてしまうかもしれない。

 そんな思考が過った詩暮は頭痛が生じてしまった。


(この様では、禊月になんて言われるか)


 学園長としてあるまじき事だが、常に酔っぱらっているか二日酔い状態の友人、禊月の顔を思い浮かべては、ほんの僅かに高揚感が減ったような気がしたのであった。


「夾霞」

「はい」


 台所まで夾霞に腰を支えてもらって移動した詩暮は紅茶を淹れるという夾霞の申し出を断っては時間をかけて、黒みがかった赤色で紅茶らしい落ち着いた香りのダージリンのモンスーンフラッシュを淹れて、キッチンテーブルに向かい合わせになって座り、共に一口ずつモンスーンフラッシュを飲んでのち、口を開いたのであった。


「私を傷つけた贖罪で私の力になりたいと思わなくていい。君が心から望む事をしてほしい」

「俺は………俺の中から詩暮さんへの贖罪の心が消える事はありません。ですが、贖罪からだけではありません。俺は詩暮さんと一緒に働きたいです。心から望んでいます。ずっとずっとずっと。夢見ていました」

「………そうか。わかった。では、夾霞。君を雇おう」

「っありがとうございます」


(………これは、やばい。かも。な。可愛いとも思うのに、頼もしいとも思ってしまう。養い親の欲目………では。ない。と。はあ。満月の日に会ったのは失敗だったな。本能が。願望が剥き出しになる。もう枯れているという年齢にさしかかっているのだが。何が起こるかわからんな)


「モンスーンフラッシュ、美味しいです」

「そうか」


 嬉々する夾霞を前に詩暮は微笑を浮かべてのち、モンスーンフラッシュを二口飲んだのであった。


(今は憂うよりも、また共に過ごせる事を喜ぼう………色々と翻弄されそうだが)


 番になりたいという夾霞の申し出も、申し訳ないが今は満月の影響で覚えていないという事にしてもらおう。


(だがいつかは、)











(2025.3.25)




(【紅茶に関する情報】

参考文献 : https://tokubai.co.jp/news/articles/6595


(【狼に関する情報】

参考文献 : https://magazine.cainz.com/wanqol/articles/dogs_and_wolves)

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琥珀色の手紙 藤泉都理 @fujitori

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