出来心

山猫拳

 首の痛みで目を開けると、フローリングの床がうつる。少し目線を上げる。ダークブラウンの木目調ローテ―ブル、その先には同じ色目のテレビ台、上には黒くて大きな四角い画面。うめきながら身体を反対側にひねる。グレーのカウチソファーがすぐそばにある。


 昨日のことを思い出す。彼女……酔いつぶれたアンリを彼女のマンションまでタクシーで連れて来て、何とかベッドの上に放り投げた。帰ろうと思ってリビングを通り抜けようとしたはずだ。そうだ、ソファーにつまずいて、疲れ切っててそのまま座り込んでしまった。どうやら寝落ちしたらしい。


 首を押さえながら上体を起こしてガチガチの肩を動かす。昨日はハイボールから始まって、焼酎、日本酒、ウイスキー……。そんなに飲んだつもりはなかったのだが、三十路前みそじまえに一旦酒に対する耐性が落ちると言うあの都市伝説は本当なのかもしれない。


 金子先輩がハマっているポールダンスショークラブの麗華れいかとアンリというダンサー、先輩、俺というメンツで飲み会をやった。先輩と麗華が終電を越えたところで二人していなくなった。


 机の上に突っ伏して気持ちよさそうに眠っているアンリと俺が残された。アンリは店に通っているときから、少し俺に気があるようなサービスをしてくれていた。昨日も終始しゅうし俺に寄りかかって目算Gカップの胸を当ててきたり、あちこち触ってきたりしたので少し期待をした。


 だが酔い潰れた彼女に何かする気は起きず、タクシーに押し込んで住所をしゃべらせたのだが、一向に俺の手首を話さない。ポールダンサーの握力あくりょくは凄い。そのまま一緒に彼女の家に来てしまった。


 面倒なことになるのは御免ごめんだ。このままひそかに部屋を出よう。壁の時計を見るとまだ朝の7時前だ。立ち上がって伸びをして、首を鳴らす。ジャケットと財布、スマホを回収していると隣の寝室からギシっと音がした。


「ねぇ、あたしら昨日ってやっぱり……」


 声の方を向くと、アンリがベッドの上で身体からだを起こしてこちらを見ている。布団をねのけて肉感のある長くて白い足をベッドから投げ出して、カーペットに着地させた。まるでショーを見ている気分だ。ややメイクは崩れているが、はっとするような美しさがある。目鼻立ちのくっきりした美人なので、メイクの影響が薄いのかもしれない。


「いや、俺は送り届けただけ。何もない」

 アンリは髪をかきあげると、うっとりとしたようにこちらを見て立ち上がり、歩み寄って俺の腰に手を廻す。


「じゃあ、今から何かする?」


 何もしない、帰る……と言いたいはずなのだが、言葉が出てこなかった。昨日何もしななかったのは、酔いつぶれて反応のない女としても楽しくないからだった気がする。


 いや、もっと根本的な理由があった。俺には佐那さなという可愛い彼女がいるからだ。金子先輩との付き合いで店に通っていたし、昨日の飲み会もそうだ。場がサガるからそういうことは言うなと先輩には口止めされていただけだ。そう言えば良い。それは分かっている。


「……今、から?」

「あたし、お店に来てくれてたときからあきらくんのこと、めちゃめちゃ気になってて……モロ好みっていうか、ど真ん中なんだよね。酔ってるあたしをちゃんと送ってくれてるとことかも、なんか……好き? みたいな」


 アンリが身体をぴったりとくっつけて俺を見上げる。密かに部屋を出ようとしていた俺の決断は早くもぐらつき始めている。


「いや……でも、その、一回飲んだだけだし。お互いよく知らないし」

「え? あたしは彬くんのこと知ってるよ。昨日も言ったじゃん。ATARUのチャンネル。スプラッタ―トゥーンの全国大会で無双! ってやつに彬くんが出てた回。あれ、凄い格好よかった 」


 ATARUチャンネルとは、登録者三百万人を越えるゲーム実況を中心にした人気動画だ。配信者のあたるは高校からの友達でゲーム仲間だったので、たまに一緒に配信に出たり、チームを組んで大会に出ることもあった。


 そこで俺のことを見ていたから、店でも気になっていたというようなことを言っていた。アンリはさらに俺を抱きしめる腕に力を入れる。目算Gカップが遠慮えんりょなしに押し付けられる。理性が決壊けっかい寸前だったその瞬間、突如としてインターホンが鳴り響いた。


 リビングの入口にある応答用の小さな画面にジャージ姿の男が映る。ブルーのカラーが入った肩までの髪。耳にはピアスがずらりと並んでいる。玄関ドアの前まで来ている様子だ。まさに俺の良心が救われた瞬間だった。


「えっ……どうしよ」

 アンリが表情をくもらせる。俺から離れて画面に駆け寄り、通話ボタンを押さずに狼狽うろたえている。


「来客だよね? 俺はこれで帰るから」

「だ、だめ! 表にいるのカレなの。彬くん、今出て行ったら殺されちゃうよ」


「は? いや、何もしてないし。話せば……」

 分かってくれるだろうか? 俺が逆の立場なら、信じない自信がある。実際下心はあった。それに殺されるとはおだやかではない。


 勝手なものだが、この子も彼氏持ちだったという事実から裏切られたような感情が湧いてきて、急に憎らしくなった。玄関のドアがドンドンと叩かれる。

「さっきまで飲んでてさ。アンリ、起きてんだろ? 部屋入れてよ」


 アンリは玄関に走り、ちょっと待ってとドア越しに声を掛けて俺の靴を持って戻って来た。

「ベッド。ベッドの端にこれ持って座って。上から布団かけるから、そこでカレが帰るまでじっとしてて」

「えっ、ちょ……」


 靴を押し付けられると有無を言わさずベッドの方へ引っ張ていって、俺を誘導ゆうどうする。ベッドは片側が壁にくっついていて、その壁際かべぎわの角に小さくなって座った。上からさっきアンリがねのけた布団を掛けられた。


「うん、大丈夫。なるべく早く追い返すから、それまでじっとしてて」

 暑く息苦しい布団の中で、どうして昨日の夜この部屋を出なかったんだろうと、そればかりがやまれた。

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