第八話 キュア

「さて、何から話し始めましょうか」


 高橋財閥の研究ラボには、筒形の覆いのついた手術台や、使い方を考えるのも嫌になりそうな巨大電動のこぎり、スパナや注射の類があった。

 俺が目をしばたかせていると、かなえは構わず先を続けた。


「今から酒井様には、この注射を打つか否か、決めて頂きたいのです」


 そう言って俺の目の前に差し出されたのは、いかにも怪しげな液体が満ちた注射器。これは、ゾンビ映画につきものの解毒剤——。


「解毒剤ではありません」


 かなえは俺の心中を察したのか、冷たく言い放った。


「厳密にいうと、解毒剤でもあり得るのですが……。まぁ、今は違うと言わせてください」


 ごくりと唾をのむと、身体から血の気が引いていくのがわかった。


「高橋に打てと、そういう事ですか……?」


「失礼いたしました。わたくしとしたことが。順を追って説明させてくださいませ」


 注射器を、ずい、と俺の目の前に押し出して、新田かなえは椅子に腰かけ、足をクロスさせた。


「1939年、日中戦争が激しさを増すさなか、ここX地区である事件が起こりました。物資——特に砂糖ですわね。その不足による一揆のようなものと考えて下さって結構です」


 高橋の伝言を聞いたはずが、なんだか壮大な話になってきた。


「当然ながら、製糖産業の中心であった高橋財閥でもそのパニックの煽りは凄まじく、我が社は事業の縮小を求められるとともに、“ある副産物”によって戦時下を生き延びざるを得なくなりました」


 冷汗が頬を伝う。今まで見てきた者たちが、急に現実として俺の目の前に突きつけられようとしていた。


「それが……」


「はい。人間を廃人にしてしまう、云わば“ゾンビパウダー”です」


 嫌な予感は的中する。しかし同時に、ひとつの疑問が脳裏をかすめた。


「え、でもそのお話の通りなら、この一連の事件は高橋家が起こした騒動で……。ええっと、なんで俺がその、選ばれたって?」


 かなえはしばし沈黙する。考えあぐねているのか、呆れているのか、なんとも言えない面持ちだ。


「パニックを起こさないのは結構。なかなか気に入りました。ですが、我々のせいというのは些か心外ですね」


 コツコツと軍靴を鳴らして、かなえは俺の目の前に仁王立ちになった。


「先ほど酒井様は、坊ちゃんに注射を打てと仰いましたか。我々が求めるのは真のキュアです! 私たち高橋財閥と酒井様は今からそれに——世界のキュアになるのです!」



 この後俺が滅茶苦茶パニックに陥ったのは言うまでもない。

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