夢想者の休日3
「……あの。すみませんでした」
空に昇る日が水平線に触れるころ、ベルは小さな声で言った。
「ウサギに触れたの初めてで嬉しくてつい、こんな時間まで……」
夢中になっていたベルが我に返ったのはついさっきのことだった。よほど嬉しかったのだろう。
「なんだそんなこと、気にするなよ」
「でも、私は今日一日案内を任されて、それなのに……」
嬉しいことがあったばかりなのに浮かない顔なのはそれを気にしてだったのか。俺は全く気にしていないどころか、今日一日を通して街の別の顔を知る事が出来て有意義だったんだけどな。
「俺は楽しかったよ」
そう素直に伝えるとベルはおずおずとこちらの表情を伺った。
「ほんとですか? 私、全然有名なところ案内出来なかったんですよ」
「でも、お前が案内したいって思った場所だったんだろ?」
「……嫌いなところ、ですけど」
嫌いね……。なるほど、段々とベルの事が分かってきた気がする。
「お前、いい笑顔じゃないか」
「は、はい?」
「そういう笑顔、もっと客にも見せると良いんじゃないか。それに今日行って、見たところは全部おもしろかったよ。少なくとも、俺が観光客なら大満足だ」
「……!」
それは確かに王道な名所とはズレているのかもしれないが、始めから本に載っているような場所より自分なりに考えて連れてきてもらった方が嬉しいのだ。それに、こいつの嫌いな場所は安心できる場所でもあった。漫画だけでは分からなかった、この世界の現実。前回教えられたそれをまた改めて実感できた気がする。
「だから次は俺の番だ」
「……えっ?」
「まあ、このまま付いて来てくれ」
今俺が進んでいるのは街の反対方向。賑やかな通りに背を向け、穏やかな坂を上っていく。
それは進み続けると、ちょうど学校の屋上が真下に見えるようになる道だ。客を連れて歩くにはは少々向かないだろうから、ベルが知っているかは分からない。俺だって初めて向かうのだ。ただ、知識では知っていた。
「ほら、もうすぐだ」
歩いている道を少し外れ、すぐ傍にあった小さなレンガ造りのトンネルに入る。夕陽はまだ昇っているがそこは丁度影になっており、ベルは少し緊張した様子になった。
「……こんな何もないところ、いったい何が――」
短いはずなのに妙に長く感じるトンネルを走った。やがてぼんやりとした薄明かりが見えてくる。俺は先にトンネルを抜け……そして、フェンスの前まで進んでその場に立ちすくんだ。少し後からやってきたベルもやっと隣に並び、そして声を上げた。
「わぁ……!」
――それはこの街を一望できる、小さな高台だ。
石造りの道とレンガの街が、道を行くたくさんの人々が、波に揺られるゴンドラが、夕陽に照らされきらきらと光る水面が……まるで宝石箱のように目から見える景色に詰め込まれている。
「すごい……」
「ああ。想像以上だ……」
それ以上の言葉は無い。俺たちは二人して放心して、小さな宝石を一つ一つ磨き上げるようにしばらく目に映るすべてを楽しんだ。それは光がやがて色を失う直前まで、止まっていた時計が動き出したかのように街の顔が変わるまで続くのだった。
「……すっかり遅くなっちゃったな」
所々に点在する家々のランタンの明かりに照らされた夜道を歩く。歩幅は小さく、暗がりからかお互いの距離は少し縮まっている。
「よく、あんな場所を知っていましたね」
「前に言った話のことだ。俺はここによく似た世界を知っていた。……そこでいつかシオンたちが見つけたのが、あの場所だったんだ」
漫画の中の彼女たちは生徒会三人で偶然あの場を見つけ、今日の俺たちと似たようにそこからの光景に見惚れていた。俺にとってそのシーンはとても印象的であり、キャラクターだけでなくこの舞台にも興味を持つキッカケとなるカットだった。
「でも、お前の言う通りだったな……」
「どういうことでしょう」
「俺はこの世界について知った気になっていた。でも、自分の目で見てみないと分からないことはたぶん……まだたくさんあるんだ」
「……そうですね。でも、私はモミジさんのおかげで知れました」
「そうか。じゃあ、教えられることもあるのかもな」
それからの帰り道、俺たちは話をした。シオンのこと、ツツジのこと、ボタンのこと、生徒会のこと。ベルに言われた一言がキッカケで立て直すことの出来た展開を。
「……それは良かったです」
ベルもほっとしたようだ。まあ、展開通りに事が進めば来年はベルも入るかもしれない生徒会のことだし、他人事では無かったのだろう。
「でも、モミジさんはいいんですか?」
「いいって、なにが」
「生徒会です。シオンさんたち、きっとあなたも一緒だと思ってますよ」
「……ああ」
それについては……少しだけ悩んだ。けど、やっぱり俺はもう関わらないと決めていた。シオンとツツジが生徒会に入る、その流れを取り戻せた以上彼女たちは原作のようにうまくやっていけるだろう。それが本来の流れだったはずなのだから。
「そう、ですか……」
「別に他人になるわけじゃない。友達として接することはするさ」
そうだ。別にあからさまに避けるわけじゃない。俺を友達と呼んでくれた以上、少なくともシオンはショックを受けてしまうだろうから。いつかこの夢が終わるまでの間、これまで通りではいるつもりだった。
「でもそれって、寂しくないですか?」
「そうかな。まあ、それで疎遠になってしまうなら仕方が無いのかもな」
「そうじゃなくて。……モミジさんが」
俺? 俺が……寂しい?
この世界で過ごしたのはまだたったの一週間だ。長い年月を共にした訳でもないのに、そもそも俺は知り合うべき存在ですら無かったのに寂しいだなんて。
「あなたの知ってる話だと、私はまだまだ先の登場なんですよね」
「まあ」
「……それなら私とはどれだけ関わっても大丈夫そうですね。だって、登場しない間は物語に影響しないでしょう」
「お前、もしかして気使ってるのか」
そう聞くと、ベルは照れくさそうに仮面で顔を隠す。
「……知りません」
それを見て俺は笑って、ベルはまたむすっとする。
そんなやり取りを繰り返すうちにゴンドラのある桟橋まで辿り着き、俺たちは軽く手を振り合った。
「それじゃ」
「はい。……あの」
不意に呼び止められる。振り返ると、ベルは仮面を付けたままこちらを真っ直ぐ見つめていた。
「またいつでも……話を聞かせてください。私、ここにいますから」
「……ああ」
そうして、俺たちの長い一日が終わる。
不思議な気持ちだった。
シオンやツツジたちと距離を置き、生徒会の紡ぐ物語をただ眺めるだけになること。最初はそうなることを渇望していたのに、正直に言えば今は寂しいのかもしれない。でも、きっとそれが正しい事なのだと俺は信じている。
だから……俺はここにくる以前のように一読者として、陰ながら彼女たちの行く末を見守ろうと思うのだった。
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