ベッドの上で
次に目を開けた時、俺はベッドの上だった。見知った天井。妙にさっぱりとした自室。
「……帰って来たんだな」
窓から差し込む光が眩しい。カーテンを開けると丁度陽が昇ったばかりだった。こんなに早く目覚めるなんていつぶりだろうか。手に取ったスマホを見ると時刻は午前六時と表示されている。
それと同時に、とても腹が減っている事に気付く。結局パンは食べ損ねてたしな。ま、夢の中の話だけど。
とりあえず適当に冷蔵庫でも漁るか……。
「――あれ? めずらし」
二階の自室からリビングに降りてすぐ、コーヒーを片手に雑誌をめくる妹から声を掛けられた。生返事を返し、俺は辺りをキョロキョロと見渡しながら冷蔵庫へ向かう。
「あいつは?」
「お姉ちゃん? いないよ。今日は帰ってない」
それを聞いて安心する。ところで冷蔵庫には生卵くらいしか無かった。がっくりと肩を落とし、牛乳だけ手に取ってグラスに注ぐ。
「それで、なんでこんな早いの? まさか始業式に行く気になった?」
俺が昼前に起きる事がよほど珍しかったのか、妹はいつの間にか畳んだ雑誌を片手に隣に立っていた。
「まさか。さっきまで妙な夢を見てたんだ」
「ふーん。えっちなやつ?」
「ちげーよ……。まあ、可愛い子はいっぱいいたけどな。シオンとか、ツツジとかベル。お前も知ってるだろ?」
妹にはたまに、一方的に漫画の感想を語る時がある。人にああいった美少女の日常系漫画を読んでいると大々的に言えない俺にとって、唯一の趣味の理解者なのだ。
しかし妹の反応は思っていたものと違った。何を言いたいのかと不思議そうに首を傾げる。
「……誰?」
「漫画だよ。ほら『ゆるかいっ!』のさ。変な話だけど、俺がそこに入り込む夢でさ」
「え、お兄ちゃんもう読んだの? どうやって? ……あ、ネット?」
「は?」
牛乳を注ぐ手が止まる。こいつは一体何と勘違いしているんだ?
しかしその時、妹の手に持っている雑誌の表紙が目に入った。様々な日常系漫画を載せたその雑誌の表紙に『新連載』の文字と共に中央に大きく描かれているのは……笑顔で両手でピースを作ったシオンと『ゆるかいっ!』のカラフルな文字。
「お前、随分古いもの読んでるんだな」
『ゆるかいっ!』の連載が雑誌で始まったのは二年前。書店でこの笑顔に惹かれて雑誌を手に取った事を昨日のように思い出す。
しかし妹はますます怪訝そうな顔をして、首を横に振った。
「なに言ってるの? 昨日出たばかりじゃん、これ」
「いやそれ二年も前のだろ? 別に、勝手に部屋から持ち出すのは構わないけどさ」
「んええ? なに、寝惚けてるの?」
さっきから話が嚙み合わないな。もしかして俺をからかっているのだろうか。
……しかし、差し出された雑誌のナンバーは確かに先週号のものだった。
……途端に胸に渦巻く奇妙な感覚。俺はおそるおそる雑誌のページをめくっていく。
どれも見覚えのある漫画ばかり。そりゃそうだ、俺は昨晩寝る前にこれを読んでいたのだから。知ってる漫画のどれもが最新話を載せている。間違いない、これは確かに今月号だ……。しかし、そうなると大きく異なる点が出てきてしまう。
――どうして表紙にシオンが映っている? 新連載って……なんのことだ?
……そうして、俺のページを捲る手はある一部分で止まった。指先から身体が少しずつ震えていく。そこに横から覗き込んでいた妹が楽しそうに口を挟んだ。
「あ、そうそう。これのことだよね。そういや珍しいよね、同姓同名なんてさ」
視線の先。カラフルに彩られた新連載の文字。
桜舞う季節、桃色の小道。本来なら少女たちが運命の出会いを果たす曲がり角にて、遅刻するまいと走り出した主人公とぶつかったのは……ぶつかって、しまったのは。
「ほらこれ、お兄ちゃんと一緒!」
――――俺だった。
伊呂波モミジという『本来存在しないはずの男』がシオンと同じ顔をした少女とぶつかり、学校へ行き、当たり前のようにそこに組み込まれている。少女たちの日常に混じった異物。俺がさっきまで過ごしてきた夢のほとんどが、白黒の世界に確かに存在している。
「あれ、ちょっとどこ行くのお兄ちゃん! そんな走ったら足が……!」
出来る限り歩幅を広げ向かったのは自室だ。だって、こんなバカげた話があるものか。そうだ、きっと妹のいたずらに違いない。
部屋には単行本がある。読書用、観賞用、布教用と合わせて三冊ずつで全七巻。連載雑誌のナンバーも揃えてある。このために本棚も買った、二年前のことだった。
しかしどうしたものなのか。妙にすっきりとした部屋の中に……本棚なんて存在しない。どかしたとかじゃなく、まるで初めからそこに存在しなかったかのように。
次に手を出したのはスマートフォンだった。『ゆるかいっ! 新連載』震える指で検索バーになんとか文字を入力する。ヒットしたのはどれも昨日の記事で、そしてどこも作品の連載が始まったことを告げる内容ばかりだった。
それはつまり、確かにこの世界に自分の知る作品が存在しないことを意味している……。
「お、お兄ちゃん!? ちょっと、大丈夫!?」
……膝から崩れ落ちた俺を後からやってきた妹が支えた。がたり、と手からスマートフォンと雑誌が滑り落ちる。
そこに映る笑顔のシオンはシオンだが、俺の知る彼女じゃない。もしかしたら、まだ夢を見ているのかもしれない。でも、それならどうやって覚めればいい?
無理に走ったことで痛む右足の痛みをじんじんと感じながら、俺は『大好きな作品の存在しない世界』で途方に暮れるしかなかった。
……この悲痛な足の痛みは、ここがどうしようもないほどに現実であることを示していたのだから。
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