ヴェネツィア
さて、学校を抜け出した俺は街に出ていた。
『ゆるかいっ!』の舞台は現実でいうところのヴェネツィアをモチーフに作られている。
街のどこを歩いてもレトロな建物の間に運河が張り巡らされていて、水上には人を乗せたゴンドラが行き来する。道には石畳が敷き詰められ、レンガ造りの建造物たちと見事に調和していた。
街は観光客用の大きな通りがある区域と、ここに住む人々が日常的に利用する往来とで別れている。学校があるのは後者だ。俺は校舎へと続く大きな階段前に広がる、噴水のある大広場を抜けて商業通りの方に出ていた。
「しかしまあ、よく出来てるな……」
適当な店で買ったコーヒーを口にしながら当てもなく石畳を行く。不思議なことに香りも味もしっかりしているが、相も変わらず夢から覚める気配は無かった。
今学校に戻っても厄介なことになりそうだし、午後は聖地巡礼と洒落込もう。夢の中ゆえ写真など形に残せないのが寂しいところであるが。
穏やかな運河に浮かぶゴンドラを眺め、時折香る甘いお菓子の匂いに腹を空かせ、歩き疲れた身体をベンチで休ませ澄んだ空を見上げる。……そうやって時間を潰しているうち、いつの間にかまた大広場前に戻ってきた。どうやら通りを一周してきてしまったらしい。
辺りはすっかり夕焼け色に染まっており、学生たちがちらほら校舎から降りてくるのが見える。もうそんな時間か。早いところ離れた方がいいだろうな。ツツジに見つかったらまた面倒になりそうだし……。
「……お」
そうやって辺りを観察して目に入ったのは青と白の線が混じった一本の柱。ゴンドラを繋ぎ止めるための『パリーナ』と呼ばれるものだった。傍にはここ一帯の船漕ぎたち(ゴンドリエーレ)の紋様が刻まれた白色制服の人間が背を向けて座り込んでおり、俺は迷うことなく彼女に近付いた。
運河に出れば見つかっても追ってはこれまい。何よりゴンドラというものに興味もある。
「すんません、これに乗せてもらっても――」
「……はい?」
しかしいざ傍に寄ってみると……そこにいたのは小さな女の子だった。ギリギリ中学生くらいだろうか。腰まで届く長い銀色の髪を風に靡かせ、振り向きざまに見せた表情は無表情。海を思わせる色を持った瞳には活力こそ見えないが、その整った顔に一瞬たじろいでしまう。
「……なんですか」
声を掛けられて我に返る。この子は確か……『ベル・ホワイト』。またしても『ゆるかいっ!』の登場人物だ。シオンたちの一個下で中学生、漫画での登場は二年生編でシオンたちと同じ高校に入学してから。知ってるのはそれくらい。なにせ二年生編はつい先週、それこそ俺が桜小道の夢を見始めた頃に開始したばかりだからだ。
「あの、なんなんですか」
「いやすまん、少し驚いてた。まさか『今』出て来るとは思わなくて」
「なんの話ですか。あなたから声を掛けてきたんじゃないですか」
そうだった。校舎から流れる学生の数はじりじりと増えてきている。そろそろ移動した方がいいだろう。
「ゴンドラに乗りたいんだが、人を呼んでもらっていいか?」
「はあ。あちらへどうぞ」
そう言って指差したのは数十メートル離れたところにある桟橋。そこは地元民やら学生やら観光客やらで混雑していて、とても乗れたものじゃなさそうだ。俺は首を横に振った。
「急いでいてな。これには乗せてくれないのか?」
「……はあ、別にいいですけど。文句はなしでお願いします」
ベルはそう言うとゆっくりと腰を上げた。なんだ、乗れるんじゃないか。言ってみるもんだな……。
俺は案内されるがままにゴンドラへ進む。慣れない船の揺れに少しバランスを崩し掛けたものの、先に乗り込んでいたベルの助けで無事腰を落ち着けることが出来た。彼女はまだ余裕そうに船上に立ったままパリーナをいじっている。
「慣れてるんだな。お手伝いさんなのか?」
「む……お客さんは初めてみたいですね。体幹弱そうですし」
なんだか不機嫌だった。俺はまた何か怒らせることを言ったのか……?
ベルはこちらに目もくれないまま、するするとパリーナに結ばれていたロープを外しきる。出発の準備が出来たように見えるが、まだ肝心の船頭がいない。すると、ベルはゴンドラに立て掛けられていたオールを外し両手でしっかりと握った。そして小さな声で宣言する。
「いきます」
「……ちょっと待ってくれ。まさか自分で漕ぐ気じゃないだろうな」
「言ったはずです。文句はなし、と」
とん、と桟橋が軽くオールで叩かれゆっくりとゴンドラが動き出した。船上には俺とこの小さな少女のみ。静かに離れていく地上、底の見えない水上。俺は顔を青くした。
「……終わった」
「失礼ですね。この制服が見えませんか? 私こう見えても立派なゴンドリエーレなんです」
つんとこちらを一瞥しながら言う。確かに白く長いワンピースを思わせるその制服は、周りにいる他のゴンドリエーレたちと同じものだけど。ほとんど俺より年上に見える連中が漕いでる中で、中学生なんてただ一人。
しかし俺の不安と裏腹に、確かにゴンドラのバランスは安定している。いやそれどころか、すいすいとつつが無く進むさまは周りのゴンドラと比べて何倍も鮮やかに感じられた。彼女のオール捌きには全く迷いが無い。悔しいが、体幹も俺とは比べ物にならないようだ。
「驚いたな……」
「ふん。分かっていただけましたか」
「ああ。悪かったな、子供だからって疑って」
「慣れてますから」
ベルは決して目を合わせようとしない。ただ真っ直ぐに先だけを眺めている。つられて俺も周りの景色を眺めながら、大きくあくびをする。
なんとなく耳を澄ましてみれば、辺りの他のゴンドラからは楽しそうな笑い声だったり、観光客用にガイドする声が聞こえてきた。静かなのはうちのゴンドラだけのようだ。
「……何か言いたいことがあるみたいですね」
「いや別に」
「案内や世間話がご希望なら今度からきちんと並んでください。私、ああいうの苦手なので」
確かにここまでの接客態度を見ていると、とてもじゃないがコミュニケーションが上手だとは思えない。ベルにだけ客が並んでいなかったのはこの容姿で勘違いされているのもあるだろうが、それ以上に態度が問題なのだろう。まあ、俺もあまり人の事は言えない口だが……。
それに、どちらかといえば。
「俺はいいよ。こういう静かな方が好きだ」
「……そうですか」
変わらない生返事。しかしほんの少しだけ張りつめていた空気が和らいだ気がした。そこでベルはオールを漕ぐ手を緩め、運河に出てから初めてまともに目を合わせる。
「変な人ですね。あなた」
「そりゃ、ここの人間じゃないからな」
「わざわざこんな街に、珍しいですね。変な人」
「俺の名前は伊呂波モミジだ。というか、観光客なんてたくさんいると思うが……」
いざ運河に出てみると他のゴンドラのほとんどは観光客が乗っているものだと分かる。ちらほらと学生や主婦が利用しているのも見えるが、あれはこの世界でいう車両の代わりみたいなものなんだろう。石畳の街に車や自転車の姿は無い。
「私……いつもは何かお話してとか、あれは何とかたくさん聞かれるんです」
「そりゃ難儀だな」
「まったくです。ですからあなたはその……変なんです。調子が狂います」
「悪かったな。じゃあ聞いてやるよ。あの建物は何ですかー……と」
「そういうのは他所で聞いてください」
思わず船からずり落ちそうになった。
「お前な!」
「べつに聞いてほしいわけじゃないですから。静かな方が楽です」
「はあ……」
「まあ、これでも見ていてください。とっても綺麗ですから」
彼女はゴンドラの底からランタンを取り出すと、前方にしっかりと固定する。会話もそこで途切れた。彼女は再びそれなりの速度でオールを漕ぎ始め、俺も流れる運河と街の景色をぼんやりと眺める。
ベルはよく分からない女の子だった。夢が俺の記憶から構成されるのだとしたら、知識が薄い分よく分からないのは当然なのかもしれないけど。
……それにしても、今日一日で随分たくさんの人と話をしたな。夢とはいえ、こんなのは久しぶりだ。現実より生きている実感のある夢。知っているけど知らない子たちとの関り。ずっと憧れていた水の街……。
頬杖を突きながら一日の出来事に思いを馳せていると、うっすらとした眠気に襲われる。静かな波音とオールが軋むぎしぎしとした音が子守歌のようになっているらしい。
おぼろげな思考の中でゆっくりと街の明かりや喧騒が離れていき、視界は段々と薄暗くなっていく。最後に見たランタンの薄浅黄色の光が、まるで星みたいだった。
……何となくこれで終わるのだと直感する。安心感と寂寞感が混ざった何とも言えない感情を覚える中、俺はゆったりとしたゴンドラの揺れに身を任せ静かに目を閉じた――
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