夏の夜に夕顔
宵月碧
夏の夜に夕顔
だって、彼の指先が私の耳を擽るから。
薄い唇が、私を見て少し吊り上がるから。
低い声が、甘く私の名前を囁くから。
欲しくなってしまったの。
一夜だけだと分かっていても。
* * *
夏の夜にしては涼しい風が吹いていて、青草の香りを連れてくる。草むらに潜む虫の鳴き声を聴きながら、私の目の前には、困ったように口を結んでいる彼がいる。
彼の着流しの帯を解いて、しっとりと汗ばむ筋肉質な胸板に手を這わせる。降りそそぐ満月の光を私の背中で遮って、縁側に座る彼の布地を肩から滑り落とした。
露出した彼の肌は滑らかで、まだ若く潤いがある。平らな胸が上下して、今にも心臓の鼓動が聴こえてきそう。
「どうして……」
掠れた低い声が、私の鼓膜を揺らす。動揺を隠すように静かに囁かれた声は心地よくって、ずっと聞いていたくなる。
どうして? そんなこと、言わなくたって分かるでしょう?
彼の肩に手を置いてそっと耳にキスをすると、眉間に皺が寄った。ぴくりと震えた睫毛が愛おしくて、今度は瞼にキスをする。
「名前を呼んで、
そう言って座っている彼の膝上に跨がると、慌てた彼が顔を背けた。
「離れてくれ……
「どうして?」
「いいから、服をっ……服を着てくれ……」
私のことを見ないように目を伏せる彼の姿に、悪戯心が湧いてくる。いつも冷静でちょっと無愛想な彼が、慌てているのがおかしくて、なんだか可愛い。
「そんなこと言って、困るのは貴方でしょう?」
彼の首に手を回して、私は顔を傾けた。私の下で準備を整えた彼の熱は、言葉とは裏腹だ。
擦り付けるように緩やかに腰を揺らせば、恨めしげな彼の視線が私を擽る。
「今夜だけ……ねえ、お願い」
逃げない彼の唇に啄むようなキスを繰り返していくと、ずっと床に置かれていた彼の両手がぎこちなく動いた。
いつも私を撫でてくれる優しくて大きな手が、一糸も纏わぬ私の腰を掴む。
「……お前には振り回されてばかりだな」
観念したように息を吐いて、彼は私を抱きかかえたまま立ち上がった。履いていた草履がカランと音を立てて転がり、裸足で縁側に上がる。
彼は中途半端に開いていた襖を足で開けて、すでに敷いてある布団の上に私を横たえた。
月明かりだけが、彼の顔を照らしている。
「夕顔」
私を呼ぶ彼の唇が降ってきて、この幸福を閉じ込めるために、私はゆっくりと瞼を閉じた。
朝がくれば、すべて元通り。
私は何食わぬ顔で、眠る貴方の腕の中から抜け出して、僅かな襖の隙間からするりと部屋をあとにする。
一夜限りの私の魔法、私の過ち。
貴方がくれた名前のように、翌朝には魔法は萎んで、もう貴方の名前を呼べないけれど。
どうか今だけ、私を見つめて。
貴方がくれた名前で、私を呼んで。
そうしてまた私を見つけたら、私の白い毛をいつものように撫でてほしいの。
何もなかったかのように。
私の過ちが、貴方にとってただの夢になるように。
この熱は、私だけが覚えておくから。
夏の夜に夕顔 宵月碧 @harukoya2
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