第8話 秘密と、強がり。

10


 「あ」

 9月。夏服と冬服の入り交じる季節になった。僕はブレザーを着て登校したのだが、下校しようと席を立つとブレザーが無いことに気づいた。

 小学生の頃は脱いだパーカーを隠されたことがあった。確か、あれも秋だった。泣きながら教室を探しているとへーちゃんが「仕方ねぇなぁ」と言って探すのを手伝ってくれた。結局クラスメイトのお兄ちゃんが持っていて、へーちゃんが取り返してくれた。殴り合いの喧嘩をして2歳年上のクラスメイトのお兄ちゃんは泣いていたし、へーちゃんも涙目だった。

 「ありがとう」と伝えるとへーちゃんは「別に」と言って、それから「俺は強ぇから大丈夫だったろ?」と笑って見せた。その姿が本当にヒーローのようで格好良かった。

 恐らく、今回は単に6時間目が移動教室だったから忘れてきたのだ。音楽で歌のテストだったが、あまりにも音痴な僕は恥ずかしくて体温が上がっていた。変な汗も出ていたからブレザーを脱いだのだ。

 「取りに行かないと……」

 面倒臭いが置いておく訳にもいかない。僕はリュックを背負って音楽室に向かう。音楽室は教室の1つ上の階なので、僕はのんびりと階段を上がりながらさっきの授業を思い出す。

 夏休み明けにへーちゃんと喧嘩……というか心配したら怒られてしまった日から、へーちゃんとはそれまで以上に話さなくなった。それでも授業とかは何かと気にかけてくれて、誰ともペアを組めない僕を誘ってくれたりはしたが、事務的なこと以外で話すことはなくなった。

 理不尽に怒られたとも思ったが、でもへーちゃんには僕の心配が「見下されている」ように感じたのだと思う。基本的にお節介で優しいけど、何でもできるが故のプライドも高く、「できない」だとか「自分の方が劣っている」と思われることが許せないのだろう。だから、そういうつもりじゃなかったということをしっかり伝えたい。でも、何て言えば伝わるのだろうか。

そんなことを考えていると件の音楽室に着いた。ドアがほんの少し開いている。僕はドアの前に足を止め、ドアノブに手を掛けた。

 「なぁ、くすぐったい」

 「あー、悪い」

 「!?」

 部屋の中から声がした。ビックリして手を引っ込める。心臓がバクバクとうるさかった。

 へーちゃんの声だった。それと、副担任の糠部先生の声だ。

 「今、何か物音したか?」

 「さぁ? それより、こんなとこですんの?」

 「いいだろ? 先生の特権だ。学校でしてみたかったんだよ」

 「相変わらず趣味悪いな。絶対AVもそーいうの見てるんだろ。キモ」

 「うるさいなぁ、いいだろ? それよりはやく」

 「ハイハイ、お好きにどーぞ」

 なんの話だろうか。よくわからないが、もしかしたら僕はとんでもない場面を目撃しているかもしれない。

 このまま帰るのが正しい判断だと思った。なのに、僕は無意識に息を殺してドアの隙間をゆっくりと覗いていた。好奇心、だったのかもしれない。僕の知らない双郷平和を見れる好機なのだと、彼のことを知りたいと無意識に体が動いたのだと思う。

 「っ、痛い」

 「……力抜いて」

 「んっ」

 「お前、やっぱりキレイだなぁ。美人だわ」

 ただ、衝撃だった。

それを見た瞬間、僕は声を出さないように手で口を覆い、すぐに目を反らした。

彼らがしていたのは、性行為だ。

 音が出ないように座り込み、肩で息をする。まさか、僕が憧れていた彼が、学校の……同性の先生と肉体関係にあるなんて想像もつかなかった。

 見間違いかと思い、そう信じたくて、僕はもう一度ドアの隙間を覗いた。でも、それは見間違いではなかった。へーちゃんの聞いたこともないような甘ったるい吐息も、先生の激しい動きも、ありありと現実として僕の視覚と聴覚を支配した。

 「あ」

 「!」

 へーちゃんの目がこちらを捉えた。バチリと目があった。

 僕はその瞬間、何も考えず立ち上がった。そして音を出さないように静かに走る。

 鼓動がうるさい。息もうるさい。

 完全に目があった。気付かれた。

 僕はこれから彼とどんな顔をして会えばいいのだろう。そもそも、へーちゃんは糠部先生と付き合っているのだろうか。

 ごちゃごちゃした思考を整理できないまま、僕は帰路を無我夢中で走った。


 家に帰ってからも、音楽室でのことが頭から離れなかった。目を瞑ればへーちゃんと糠部先生の性行為をありありと思い出した。

 へーちゃんや糠部先生に対し、不思議と嫌悪感はそれほど沸かなかった。別に、同性だから愛し合ったらダメだとかそういう考えは持っていなかった。ただ、それでも衝撃が大きかったのは事実だ。

 「お兄ちゃん」

 10歳年下の心春が僕の部屋のドアを開けた。僕はベッドで掛け布団を頭まで被りながら答える。

 「何? ごめん、今日は疲れたから遊べないよ……」

 「へーちゃん、きてるよ?」

 「へ?」

 勢いよく布団をぶっ飛ばし飛び起きると、来訪者は心春だけではなかったのだと知る。

 小さな心春の後ろにはへーちゃんが立っていた。いつものように制服をだらしなく着崩した彼は、鞄を左肩にかけて右手には紙袋を持ち、僕をただ無表情で見つめている。

 「心春、ありがとよ」

 「うん! こんどはコハルとあそんでね」

 「ああ」

 へーちゃんが優しく心春の頭を撫でる。心春は嬉しそうにぴょんぴょんと跳ねながら部屋を出ていった。

 ガチャン。

 へーちゃんがドアを閉める。そして、ベッドで座り込む僕に大股で寄ってきた。

 変な汗が背中を流れる。こんなにもへーちゃんと対峙するのが怖かった日はない。

 「見たよな」

 「何を?」

 反射的に僕はとぼけた。背筋が凍るとはこのことだろう。今、へーちゃんが何を考えているのか全くわからず、不安が心を支配する。

 「セックス」

 「んんっ」

 直球に言われるとは思わず、僕はへーちゃんに背中を向けた。僕が見られたわけでもないのに恥ずかしかった。

 「あのね、そーいうつもりじゃなくて」

 「ブレザーだろ。持ってきた」

 「あ、ありがと……」

 へーちゃんが紙袋をベッドの上に置く音がする。多分、そこに僕のブレザーがあるのだろう。わざわざ袋まで用意してくれたのだ。

 「あの、僕、誰にも言わないよ」

 「別に言ってもいい」

 「……口封じに来たんじゃないの?」

 「言われて困るのは糠部だけだろ。俺は退学になろうがどうなろうがどーだっていい」

 「……」

 意を決してへーちゃんの方を振り返ると、彼は恥ずかしがることもなく冷めた目をしたまま僕を見下ろしていた。本当に、僕が言いふらしても何とも思わないであろう、そんな顔だ。

 「ねぇ、へーちゃんは糠部先生と付き合っているの?」

 「いや」

 「じゃあ、なんでああいうこと……」

 「別に、お互いに暇潰しだろ。遊びだ」

 「自暴自棄になってるわけじゃないよね?」

 「は?」

 僕の質問に、へーちゃんは眉間にシワを寄せた。明らかに不機嫌になった。

 ただでさえ体調を心配しただけで怒られたのだ。こんなことを言えば絶対にへーちゃんは怒るのだろう。

彼が怒るのを承知で、これだけは言わなければと大きく深呼吸をした。

 「自分の体だよ、もっと大事にしてよ。痛がってたじゃん」

 へーちゃんの瞳がカッと見開いた。

 そして、彼の腕が素早く動き、僕の胸ぐらを強引に掴む。その手は、怒りで小刻みに震えていた。

 「自分のこともろくに助けらんねぇテメェに言われたかねぇんだよ!」

 「っ」

 「何でテメェに心配されねぇといけねぇーんだよ!? なぁ!?」

 「いや、でもだって」

 「俺はテメェに心配されるほど柔じゃねぇ! こんなん、何てこともねぇんだよ!」

 「どうしてそんなに必死に……」

 「俺は負けねぇんだよ!!!!」

 誰と戦ってるって言うんだ……。

 へーちゃんは唇を強く噛むと、そっと僕の胸ぐらを放した。きっと、怒りを抑えるのに必死なのだろう。 

 「いいか、今日はブレザーを届けに来た。それから、気持ち悪ぃの見せた詫びだ。用はそれだけだ。無駄話する気はねぇ」

 そう言うと、へーちゃんはベッドに置いた紙袋をわざわざ持ち上げ、僕の顔面に投げつけた。

 「痛っ!」

 「いいか、お前が見たことを誰かに言ったりバカにしたりするのは自由だ。でも、心配はするな。俺は自分のしたいことをしてるんだから。わかったな」

 有無を言わせないような早口で、へーちゃんは言った。それから、返事も待たずに音を立てず部屋を出ていった。

 僕は顔面にぶつけられた紙袋の中身を見た。僕が忘れていったブレザーと一緒に、コンビニに売っている辛いお菓子か入っていた。僕の大好きなお菓子だった。このお菓子が、一応彼なりのお詫びなのだろう。高校生になってから好物の話なんてしてないので、彼も僕の好きなものを覚えていてくれたのだ。

 「気持ち悪いとか、そういうのじゃないんだ……」

 僕は、ただ、へーちゃんが心配だった。

 心配するなと怒る彼が、先生に無抵抗に体を預ける彼が、とても弱っているように見えたのだ。

 最近のへーちゃんは、何だか強がりな気がする。

 

 彼は一体何に怯えているのだろうか。

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