第二章 カレルとエギル 二、
第二章 カレルとエギル
二、
ヴィーザル帝国の東部(アウストリ)地方に連なる天の守り山脈は標高二千メートル、あちこちに岩場、急登、難所があり、山脈の奥地は「死霊(ドラウグ)」が巣食う「鉄の森」に覆われている為、土地の人間は深入りしない。
天の守り山脈の山頂近く、ヴィーザル皇帝の直轄領でありながら誰にも知られる事なくひっそりとあるのは、隠れ里、リーグ村である。
リーグ村に住む人々は、自分達はアース神族の〝白き神〟、ヘイムダルの子孫であると、自分達の事を、「白き神の一族」だと言っていた。
リーグ村は見渡す限り、山林に囲まれ、空気は澄み、夏は涼しく過ごしやすく、夜になれば星々が煌めく。
日々の暮らしには先人の知恵が受け継がれ、村人は優しさと思いやりに溢れ、暖かい季節には新緑の木漏れ日を浴び、野鳥の声を聞き、農作物の収穫に喜び、牧畜に励む。
だがしかし、隠れ里故に「白き神の一族」に新しい血が交わる事はなく、村人は一人、また一人と、病気や寿命でこの世を去った。
フィルギアが物心ついた頃には、リーグ村の人々は皆、この世から姿を消し、残るは、フィルギアの一家だけとなっていた。
天の守り山脈の冬の寒さは厳しく、大雪が積もれば雪崩が発生し、巻き込まれる可能性があり、吹雪に襲われれば、凍死や餓死をする危険性が高かった。
フィルギアの両親も夫婦二人だけでは真冬に備えて農場の木々や岩群に施した刻印魔術の点検をする事ができず、結局、吹雪が強まる中、補修作業を行わざるを得なかった。
そして、フィルギアの両親は無理に補修作業を続けたせいで、案の定、雪崩に襲われて命を落とした。
フィルギアはその後、両親だけでなく祖母まで亡くし、本来なら五十人は住める農場の一画でたった一人、子どもながらに言い伝えを守って、健気に暮らしていた。
農場の生活は、主に牧畜、放牧に支えられている。
リーグ村にも、牛小屋があり、羊小屋があり、大体、二十頭から三十頭は収容する事ができた。
酪農を行う事から、当然、牛、羊は大事な動物で、羊は食肉、毛皮、豚も食肉として飼育する。
鶏も食肉として飼育していたし、卵を産ませ、羽は寝具に利用した。
農作物は、大麦、野菜、麻を栽培していた。
フィルギアは子どもの小さな手で、鋤や鶴嘴を使い、土を耕し、牛に鋤を引かせた。
隠れ里のリーグ村に流れの鍛治師が来るはずもなく、鋤、鍬、鶴嘴、熊手、道具の手入れも自分の手でやった。
農場の母屋は頑丈な石造りで、母屋の周囲には牛と羊を飼育する牧草地が広がっていた。
母屋は機竜船をひっくり返したような湾曲した屋根を持つ長屋で、風や寒さを凌ぐ為に、屋根は芝土で覆われ、窓は少なく、出入り口は狭く作られていた。
離れには、羊小屋、牛小屋、搾乳場、鍛冶場、干し草、穀物用の納屋に、食料貯蔵庫が並んでいる。
石が敷かれた道を行き、扉を開けると、二本の支柱に屋根が支えられた広間(スカーリ)に出る。
部屋数は少なく、広間、台所、蒸気を利用した浴室が設けられているぐらい。
広間の中央には家事を行う炉床と土間あり、両脇の壁際には長椅子が二列、長椅子の真ん中にはそれぞれ高座(オンドヴェギ)が設けられ、高座の一つに家長が座り、向かいの高座に客人が座る。
部屋の灯りに半球形の容器の中で獣脂を燃やし、屋根の梁からぶら下げた長い鎖で鉄の鍋が炉火の上に吊るされ、炉火は暖房と照明の役割も担っていた。
フィルギアは十三歳の時、ある日突然、祖母を亡くして以来、ここでたった一人、ずっと生活をしていた。
アース神族の血筋に連なる「白き神の一族」だろうと、農民にとって羊の飼育は生活する上で大事な仕事である。
羊を飼育する事で得られるものは羊毛が大きな割合を占めていたが、羊の乳も羊毛と同じぐらい消費されていた。
羊飼いに連れ出され、羊が草を食む牧草地は、得てして農村部の外れ、昼なお暗い、「鉄の森」に隣接している。
アース神族の時代には、「魔属(スルト)」、今は「死霊(ドラウグ)」と呼ばれる、怪物が巣食う「鉄の森」である。
特に「死霊」の代表格である魔狼(バルグ)は羊の群れを守る牧羊犬を蹴散らし、羊の群れを虐殺する事はもちろん、人間さえも血祭りに上げる。
いくら木の柵や逆茂木で周囲を厳重に囲ったとしても、「鉄の森」から魔狼の群れが姿を現し、羊飼いや牧羊犬が必死の抵抗虚しく、餌食となる事は珍しくない。
魔狼の犠牲になるのは、決まって羊飼いと羊だった。
羊は大人しい動物なので女子どもも羊の番を務めるが、それ故、女子どもも容赦なく魔狼の毒牙にかかって殺された。
とは言え、魔狼に対する恐怖心から羊の群れを牧草地に放さず、農場の薄暗く狭い小屋にずっと閉じ込めていたとしたら、羊の健康は損なわれ、羊毛の生産による利益を得る事はできない。
農民であろうと、主神オーディンの教えは知っている。
『財産は滅び、身内の者は死に絶え、自分もやがては死ぬ。だが、決して滅びないものが名声だ』
すなわち、人間の一族は最後まで勇気を失わず勇敢に戦い抜く事を誉とする。
それ故、どこの農民も、牧草地に羊の群れを放したし、命懸けで羊の番を続けた。
だが、どんなに勇気を持って「死霊」との戦いに臨んだとしても、所詮は、農民。
農民が魔狼相手にまともな戦いなどできるはずがない。
第一、貴族が狩猟特権を持っている為に、まともな武器すら用意する事ができずに、農作業に使う、鋤、鉈、鎌、熊手を使って戦うしかなかった。
しかし、いざ魔狼が囲いを破って侵入してくれば、あっという間に牧羊犬と羊飼いは食い殺され、羊の群れもなす術もなく食い散らかされる事になる。
にも関わらず、だ。
「死霊」が巣食う「鉄の森」に囲まれた隠れ里、リーグ村には囲郭がなかった。
普通なら、逆茂木、木の柵、外壁に囲まれているはずの農場は開放的で、広々としていた。
それでも、フィルギアが生まれる前ずっとから、リーグ村では羊飼いの誰一人として、魔狼の犠牲になった者はいないのだという。
なぜか?
「白き神の一族」は、働き者の農民であると同時に、刻印魔術使い(ゴンドリル)だったからである。
現在、知られている十六個のルーン文字だけでなく、アース神族の時代に使われていた全てのルーン文字、二十四個に通じた、正真正銘の刻印魔術使いである。
遥かな昔、「階層世界ユグドラシル」の全てを治めていたアース神族は、優れた刻印魔術使い(ゴンドリル)であり、神器使い(ゴンドリル)だったという。
彼らは不老不死でこそないものの、刻印魔術(ルーンズ)を意のままに操り、胸の内にもう一つの心臓である神器、「イズンの林檎」を抱き、永遠の若さを保っていた。
地下世界の住人、小人の一族(ドヴェルグ)の鍛治師に神器の作成を依頼し、アース神族はそれぞれ神通力を宿した武器や道具を持っていた。
神器はアース神族や小人の一族が正真正銘の刻印魔術、神通力を秘めた二十四個のルーン文字全てを駆使して作り上げた武器や道具の事を指し、「神器装甲」もまたその一つである。
神器は推し並べて人間の一族が発展させてきた魔術科学の産物や魔術機械兵器以上の機能や性能を持つが、今日ではヴィーザル帝国がイザヴェル大陸全土を治め、世は魔術科学の時代を迎え、魔術科学者(ルーンマスター)、魔術機械工(ルーンスミズ)が、数多の魔術機械(ルーンクラフター)を作り、都市部や山岳部、河川、湖水、生活の色々な場面で役立てている。
一般の人々の間でも刻印魔術は効果の程は別として、何か願い事をする時に願掛けに使われたり、占いにも使用されている。
帝国中枢では今日、既得権益を貪る貴族階級を中心とした皇帝派に対抗するものとして、魔術科学の研究を推進し最新の魔術科学で国を発展させようという、市民階級の支持を得ている皇太子派が台頭している。
その為、刻印魔術の使用はよりいっそう軍事の分野で活発となっており、戦いと破壊にばかり利用されていた。
が、今もこの世に伝わるオーディンの言葉、「高き者の言葉」にはこうある。
『善人を楽しい会話に誘え。生きている間に治療の魔法を覚えよ』
そう——刻印魔術は、戦いと破壊の為だけにあるのではないのだ。
例えば、「鉄の森」の「死霊」を避けるには、魔除けのルーン文字、「ソーン」を使えばよい。
隠れ里、リーグ村に住む「白き神の一族」は、周囲の木々や岩群に、魔除けのルーン文字、「ソーン」を刻む事で、魔狼の襲撃を避けていたのである。
それ故、リーグ村は、逆茂木、木の柵、外壁を設けなかったとしても、平和な暮らしを営んでいたのだ。
——フィルギアが祖母を亡くしてから一年が経ったある日の事。
彼女が暮らす家の門戸が、突然、叩かれた。
息を呑むほどの美しい夕陽が山々に注いだ黄昏時である。
静寂に包まれた途絶えがちな山道の向こうからやって来たのは、いかにも帝国の魔術科学者らしく、金糸の刺繍が美しい純白の法衣を身に纏った、細身の優男だった。
「初めまして。私は帝国軍の魔術科学研究機関に務めている、ナルヴィ・ロプトルと言います」
細身の優男は柔和な笑みを湛えて自己紹介をしたが、どこか胡散臭かった。
ロプトルと一緒にやって来た帝国軍の将校らしき男は、端正な顔立ちをしていたが、なぜかフィルギアの事を値踏みするように見ていた。
いや、ロプトルと帝国軍の将校二人の視線は、彼女が首から下げた、金色の角笛にじっと注がれていた。
「——そうですか、ご両親もおばあさまも亡くされて、こんな山奥でたった一人、よく頑張って来られましたね。いや、貴方にお会いできてよかった。人間、死んでしまってはおしまいですからね!」
フィルギアが長椅子に案内すると、ロプトルは当たり前のように、なんだか嬉しそうに言った。
「実は私もお世話になった人達が魔狼の被害を受けて亡くなってましてね、他人事とは思えません。何かしら、ご縁を感じるぐらいですよ」
「なぜ、私達がここまでやって来たかと言えば、貴方にはこれから帝国の為になる立派なお仕事の手伝いをしてもらいたいんですよ」
「まずはログ湖城塞に行って、自分達に協力してくれるのなら、衣食住は保証させて頂きます」
ロプトルは立て板に水のように話した。
そして、
「今後は是非、私達に何でも言って下さい。詳しい事は機竜船の中でお話ししましょう」
最後に、張り付いたような笑顔で言った。
「…………」
フィルギアはその時、
(……おばあちゃんは死んじゃってもうおしまいなの?)
ふと、疑問に思った。
確かに祖母の人生は、死を迎えて、終わりを告げた。
だが、「人間、死んでしまってはおしまいですからね!」と、どこか小莫迦にした言い方をされなければいけないような事か?
フィルギアの祖母は立派に生きて、そして、死んだのだ。
それなのにこの男は、なんてひどい言い方をするのだろう?
いっそ、人の死を喜んでいるような響きさえ感じられたぐらいだ。
『誰でもほどほどに賢いのがよい。賢すぎてはいけない。あまり賢すぎるとその心が晴れる事は稀になるから』
フィルギアは主神オーディンの言葉を唐突に思い出した。
(この人は賢すぎる)
フィルギアは今も目の前で微笑んでいるロプトルという男の心に何か暗いものを感じ、自分はどうするべきか考えた。
——この人の言う事が本当だとすれば、彼らに協力すれば衣食住は保証してもらえる。
はっきり言って、天の守り山脈の奥地でまだ子どもと言っていい年頃の娘が、たった一人で農場を維持していくのは難しい。
けれどこの人達は私が誘いを断ったとしたら、私の事をどうするつもりだろう?
どう考えても、素直に引き下がるとは思えなかった。
そもそも彼らは私に、何に対してどんな協力をさせようというのか?
「失礼、こちらも長居している訳にはいかない、時間の無駄なんでね、〝半神〟のお嬢さん」
ロプトルはおもむろに懐から短い木の杖を取り出すと、逡巡し黙っていたフィルギアの前で、短い木の杖の先端を使って、何やら宙空に文字を書き記した。
「!?」
(……眠りの刻印魔術、「シゲル」!?)
フィルギアが気がついた時にはもう遅い。
——彼女は突然、気を失ったように倒れた。
その後は帝国軍の軍用中型機竜船に乗せられ、ログ湖城塞を目指してヴィムル川を行き、竜賊、「ボルガルネース一家」に襲われて今に至る。
「きっと、あの人達の狙いは、この金色の角笛よ……私達『白き神の一族』は、先祖代々、金色の角笛と、金色の角笛の秘儀を守り続けてきた。でもあの人達が今更、金色の角笛を手に入れて、いったい、何をするつもりなのか、それは私にも判らないの」
フィルギアは首から下げた金色の角笛に触れながら、不安そうに言った。
「フィルギアのご両親やおばあちゃん達、『白き神の一族』は、いつ頃から、なんで隠れ里で暮らしていたのかな?」
カレルは彼女達、「白き神の一族」が、なぜ長年、山奥に隠れて生きてきたのか、疑問に思って聞いた。
「私もおばあちゃんから聞いた話以上の事は判らないけれど、『神々の黄昏』の後、僅かに生き残ったアース神族は、自分達がこれから消え行く種族である事を悟って、地上世界から姿を消して、人間の一族を見守る事にしたんですって——私達、アース神族の血筋に連なる『白き神の一族』もまた、人間の一族の時代の始まりと共にこの世界にあって、〝半神〟として隠れ里から地上世界を見守っているのよ」
フィルギアはカレルの事をじっと見つめて言った。
「——『白き神の一族』のお役目は全部で三つ。一つ、半神として隠れ里で暮らしを営む事。一つ、地上世界の繁栄を見守る事。一つ、『ギャラルホルンの角笛』の三つの秘儀を守り、かつての『魔属』と同じく人間の一族が天上世界に攻め入ろうとした時、『ギャラルホルンの角笛』を使って、『第三の天』にある『風の国』に住むアース神族に知らせる事」
フィルギアは自分でも確かめるようにして、人差し指、中指、薬指と、一本ずつ指を立てて、三つのお役目について説明した。
「『第三の天』に、『風の国』!?」
カレルはここに来て自分の母親がいつか見てみたいと願っていた、そして父親が母親の願いを叶えようと羽衣船の開発にまで取り組んでいた、「第三の天」のどこかにあるという神々の地、「風の国」の名が出てきた事で、興奮を抑えきれず、驚きを禁じ得なかった。
「そう——『アース神族は風の国(ヴィンドヘイム)に、白き神の一族は天の守り(ヒミンビョルグ)に。そして我らは人の子らの行く末を見守るのだ』」
フィルギアは「白き神の一族」に伝わる言い伝えの一節を、すらすらと誦じてみせた。
「……そうは言っても『白き神の一族』も今となっては私一人になってしまったし、本当に『第三の天』のどこかに『風の国』があったとして、そこに今でも神様がいるのかどうか」
フィルギアは自嘲気味に笑った。
「フィルギア……」
カレルはフィルギアの複雑な表情を見て、心が締め付けられるような思いがした。
「うーん、それにしても帝国軍や竜賊の連中は、フィルギアの事を捕まえて、金色の角笛を手に入れて、いったい、どうするつもりなんだろう?」
カレルはせめても少しは話題を変えようと、腕組みをして考え始めた。
「——おいおい! そいつはまさか、『ギャラルホルンの角笛』じゃないか!?」
カレル達の前にふいに姿を現し、疑問を投げかけてきたのは、カンテラを片手に荷物持ちの仔馬型の機馬を引き連れた、赤い帽子を被り、つなぎの作業服に恰幅のいい体を包んだ、長い顎髭を生やした老人だった。
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